誰でも神の如く


神社の参拝の作法で、道の真ん中は神の通り道ざから歩かざるべしとなっていますね。 はい、ボディワークも全く同じです。中心点線は、カミの通り道だから、空けるべし。ワークは両脇でするに過ぎません。修行が中央を歩いてはいけません。
ヒトはカミに似せてつくられた。

本当のパワースポットってドコだと思いますか?
はい、ソコで御座ひます 。



誰でも禅僧の如く


意識の脱力とは。


人生は修行ではない。人生は人生である。無念無想を求めて剃髪して袈裟を纏って寺で座っていなくても、誰でもやれるエクササイズがあります。目を瞑って真っ直ぐ歩くことをすればよい。これほど観察と集中がものをいう行為はない。いや、あるかな。まあいいや。ない。

是についてつべこべ解説しようと思ったが、論じるよりもやってみればわかるだけのことだす。

とはいえ私は数十歩しかやっていない(笑)でも毎日の散歩の課程でそれをやります。




中心と心中

「あっぱれ正中心」に私ネタの記事が出ていた。その補足的なことを書こう。
中心点線は、捨てないと、無いです。音がするほど空っぽ、もしくは音も無い真空ですね。…何でこんな説明になってしまうかって、やはり中心点線は、肉体ではないからです。自我が構築するものでもないからです。で、実際に音が響いたりするからです。アストラル体とか何とかのことは今イチ私には見えないので明確なことが言えないですが、明らかに、肉体でない体と肉体がシンクロしてナンボです。

肉体の解剖生理的なことも全然言えていないですが(笑)そういえば第二練修会に投稿しておられる山中さんという方は、理学療法士としての知識と肥田式の研究が相まって、着眼点が抜群に良いですね。

整体業をしていて、背骨や骨盤の矯正などは、商売としてはアリでも慢性症状に対して本当に良くなる為の施術とは思わないので私はやりません。 外からの矯正と外からの姿勢の鍛錬はソックリです。必ず元に戻る。

目に見えないレベルの身体と肉体が同調する、響きの同調がある。それには肉体と意識はまずフラットである必要がある。「何もしない」というのはそういう意味です。



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