こんばんはー。

空手、中国武術、合気道には「演武」という種目があるから、「上手い、下手」という見方もあるでしょうが、本質的には、「出来るか出来ないか」がすべてでしょうや。肥田式もそうです。「上手い肥田式」には見せ場もなけりゃあ意味もない。

仮に、肥田式が大勢の人に親しまれる世の中が存在したとします。演武や段位が生まれます。なんだかもうこの設定を想像しただけで滑稽ですが、話を続けます。手足の角度、腰の反り、ハラの出し具合、気合の出し具合などを、上手い下手で表現し、審査し、審査される。表彰される。組織の力や都合により変なものが色々と付け加えられ…。ここまで書いたら死にたくなったのでこの話終わり。

「バカか利口か」というモノサシが重要視される社会というのも、どうなんでしょうね。「活きているのか、死んだように生きているのか」 ということとは関係のない審査ですね、そんなものは。

気功には上手いも下手もありません。気功や整体が国家資格とかになったら、オシマイだと思います。そのときは本質の失われた別のナニかになっていることでしょう。

ヒトは、安全や安心や保証を求め過ぎるばかりに、失います。ただ1つのことを。