ごあいさつ

ブログを始めて1年経ちました。いつも読んで頂き有難うございます。コメントを書いてくれる方々、有難うございます。

書きたいことは、最初から同じことだけのようです。徐々に傲慢な言い様になってきてる気もしますが。

私達は病人でもプログラミングのままに動くモノでもありません。それがどんだけリアリティがあったとしても、それは自分自身そのものではありません。それを変える努力も因縁もヘッタクレもなく、

ただそれは「違う」だけなのです。

その役を降りることを、選択または決心する場合において、私は何かを手伝うことができます。



以上、人間の役をやっているハミチンドラゴンの伝達でちゅよ。




分けてみて 分かつことが不可能だと わからないる。

zorroさん コメント2つ、有難うございます。



「私の空気」「アナタの空気」などというものは存在しません。本当は土地だってそうなんだけど。


それよりはリアリティがあるように錯覚するのが、「私のエネルギー」 。これはリキミの正体です。「私のエネルギー」は何を生むでしょう。「私の思考」「私の財産」「私のダーリン」「私の栄光」「私の歴史」「私の聖中心、合気」「私の悟り」 …最後の2つはもう本末転倒ですので不可能ですが。

互いにリキミあえば、力のある方が勝つから、リキミはリアルだし私のエネルギーとやらを信じるし頑張る。リキミあいの騙しあいの椅子とりゲームに疲れたり、そんなゲームが何だか腑に落ちない人は、怠ける。病む。それが怖い人はキズナとか仲間とかいう名目で集団行動をする。内心はカラッポだが。


「私のエネルギー」と「エネルギー」の違いは、有限か無限か的な違いです。「私のエネルギー」は、空気が肺に入るのを待たず、空気を入れる。私と私ではないものに線を引く。不足する。奪う。枯渇する。奪い取る。奪われはしないかと怖れながら。

強健術を例に言うと。 「腰は入る」「空気は出る、入る」ものです。腰は空気は任意同行してくれます。しかし「私のエネルギー」の意図がそれを行うのは、腰と空気の強制連行です。はじめはそれでもかまわない。そうする他にわからないから。

やがて「私の」反り腰、空気、エネルギーは要らないなと、そんなものは本当は無かったんだなと、気づくのです。そこにリキミは存在しておりません。

「私の」は、錯覚はすべて削ぎ落ちる。



その3 あなたが ちぶるとき

「正直言って整体を受けるまではナメてました」

馬には乗ってみよ 人には添うてみよ とはこのことだと思いますが、まぁ仕方ないことです。氣功と謳ってる人を無条件に信じる人はそういませんから。

氣功や整体を受けるうえで一番効果が出やすいのは、フラットな気持ちで身を委ねていられる方です。

疑心暗鬼な方は、身体が受け入れていません。どんだけ潜在意識が拒否しているかに大体比例してくると思われます。今回の方はナメてはいたが拒否はしていなかった、全く(笑)。

意外とメンドクサイのは、変なスピリチュアル情報や氣の妄想で意識が一杯の方です。 そういう意識は要らん。 氣は知識やイメージや思いではないので、氣を感じようとか、何かを感じようとか、ことさら集中する必要は全然ありません。


ただあるこれ のことです、氣とは。




その2 驚くべき変化

続きです。昨日の記事のかたから報告を受けました。

大腸の他に肝臓の機能も著しく低下しており、尿が少ししか出ない日々を過ごしていたらしいのですが、術後は大量の排尿をするようになり、実にスッキリしているそうです。

さらに、とにかく体力が衰えていたはずなのに、帰宅は十五キロの道のりを歩いて帰ったらしい(笑)。今日も余裕でまだまだ歩けるらしい(笑)。

歩きたくて歩きたくてしょうがない衝動が湧き続けたんだそうで。気持ち的にも身体は変われるのだという実感があり、とても嬉しかったそうです。

施術を受けている時の感覚は、合気柔術の稽古で 先生に飛ばされている時とどこか共通する体感を感じていたそうですが、 劇的な効果があったのは本人の日頃の稽古の賜物でもあるでしょう。

合気の稽古にせよ、長距離歩行にせよ、「やらないといけないから」「やったらイイことあるかもしれないから」という動機によるものではなく。

「ねばならない」ことなどする必要のない、典型的な例です。良きかな。




施術日記を久しぶりに。


今回の方は、大腸ガン。 医院への通院はしているうえで、とにかく腰をはじめとする全身がキツいということでの、とりあえずの来訪。

当方が行うのは医療行為ではないので、医学診断の話ではないことを踏まえて、以下お読みください。


このかたの身体から感じられるのは乱れたエネルギーの様子でした。生命力が乏しいという感ではない。 合気柔術をやっているかたなので、気の通り道は普通の人より開いているからなのか、弱っているから過敏なのか、どちらにせよ触れられて起こる身体の反応は豊か。

前から書いているように私が行う気功はエネルギーの注入でもないし邪気を全身にもらうわけでもないので、私自身に変な疲労は溜まりません。むしろ逆なこともある。

1回の施術でガンがどうなるかっていうのはよくわかりませんのでさておき、「身体が軽い、思ってた以上に全身スッキリじゃないか」と言って帰りました。何の期待もしてなかったんでしょうね(笑)。このあと一時的にダルくなったり眠くなったりなどの、身体を休ませようとする反応が出るかもしれませんが、全身の、特に腰の辛さ、重さは無くなったようです。

いつもいつも思うことですが、身、心、どちらにせよ、症状が悪いほどに、その人の身、心が悪いとか弱いとかダメだということとは限らない。

弱い→強くあらねば!
悪い→良くしなければ!という短絡的な問題では全く無いのです。

「ねば!」ならんことなど、全く、全く、全く無いのです。




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