極論をいえば『腰の反り』も『胸の開き』も『脊柱の直立(Sカーブだけど)』も『出力』も、行為ではなく結果です。

では何の結果だというのか、といったら、脱力だとか無為自然とかサレンダーとか、なんかいろいろ言えはするのですが、、 そうして言葉にした途端、それは概念になりがちで、ひそかな行為になりがちで、つまり全然ちがうものになります。

脱力という行為はありません。で、また『なにもしない』とか言いかえたりしたところで、エンドレスです。


パンチの極意は『ただ拳を前に出すだけ』と言ったとしても、それはそれが出来る本人からはそうとしか言えなくなるが、聞き手としてはそれをそのまんま受けとることができない。
もしそのまんま受けとれる人がいたならその人は天才もしくは超ピュアもしくは修行に心底疲れ果て死を覚悟したような人だろう。






アボリジニ『真実の人蔟』の言い伝えによると、人類の超初期の人達の一部は、滝や岩などに姿を変えて地球に残り、しずかに我々に叡智を伝えてくれているのだという。 今風にいえばパワースポットのことだとおもうが、私は、それもまた、《型》なんだとおもう。







つづく かな わかんない