東京で開業したころを、ふと振り返ってみる。

「対話セラピー」ではなく「ちぶる整体」つまり無言の整体施術で、まさかインナーチャイルドの癒しというヒーリングが起こるなどとは、私自身も予想していないことでした。ただあれは、一発施術したから癒されてメデタシメデタシとかいうものではなく、それははじまりに過ぎなかったわけで、本人も私も、その後、長期戦になった。ああいう作業は私自身も貴重な体験をさせてもらった。でも、あそこまでの込み入った仕事を、何人も何人も請け負えるかというと、どうだろう。

カルマというものは極論としては私は、「無い」という言い方をしてしまうが、実際、そういう言葉がある以上は、ある。「ブロック」と同じだ。ブロックなんて、ほんとうは、無い。でも、ある。それと同じこと。 で、カルマやブロックにかかわる作業というのは、その価値を金に換算するのは非常に難しい。物やサービスの授受などよりもはるかに、機縁にかかわることだからだ。成果なんて保証もできないし、何をもって成果とするのか、それは一律に定義もできない。
それでもあえて単純に、その労力に対しての対価を頂くという計算をするにしても、全然安くはできない。


ボディワークでいう「脱力」は、神道なら「禊(みそぎ)」、スピリチャリーにいうなら「浄化」と同じである。動作のちょっとしたコツなどというものでは全くない。
脱力という名の禊をするのは他でもない本人である。私はヨガのシャクティパットとかいうやつは何のことなのかよく知らないが、悪い意味での「受身」だけで、覚醒だかクンダリニーだかを伝授されるなんてことは有り得ないだろうよオイオイ!とおもう。もし人為的な行為でそんなことが有り得るとしても、与える人のエネルギーと与えられる人の身心の電圧が合ってなければヒューズが飛んだりブレーカーが落ちたりするのがオチなんじゃないの?つーか、せいぜいアストラルレベルの神秘体験みたいなことを味わえるだけだとおもう。


ところでなぜ私は東京開業当時のことを振り返ってみているのかというと、今、ちぶる整体を再開しますとあらためて告知するとして、はてどういうことをどういうふうにするかなと、ここのところずっと考えているからです。「客商売」というふうなテイストは、なんだかんだいってもあの頃はゼロには出来なかった。だから一般的な整体業のスタイルや価格相場は捨てきれなかった。今一度同じようにあえてやりたいかといったら、別にやりたくもない。整体施術などはオプション(オマケ)の、真体功の伝功をしたいというきもちしか湧いてこない。そしてそれは全然ビジネスじゃない。だから消費者のニーズとか、全然勘案などしない。さしあたってシンタイコウの価値を知っているのは他でもなく私自身しかいない。



つづく