新年早々、人に整体施術&ボディワークを指導する機会がありました。
そこで、ものおもうことがありました。


私は、鍛練、修行 というコトバを嫌う。 でも、そういったようなことは、なんだかんだいって、やってきたといえばやってきたんだなぁとおもいました。私にとっては、ある簡単な動作でも、出来ない人はまったく出来ないのを目の当たりにしてそうおもいました。私の中では、鍛練、修行=苦しいことやイヤなことを我慢して事を為そうとするもの という思い込みがあるので、私はそれはやってこなかった。だから自分は鍛練、修行などしていないという自負(笑)があった。

ボディワークに全然時間を費やさない時期もあったとおもう。でも、今おもえば、そういう時期はひたすら内観をしていたような気がする。「やらない」をやっていたんだ。

そして、もっともっと俯瞰で自分を観るなら、「ブレる」だの「落ち込む」だの「苦しむ」だのも、ブレるをやって、落ち込むをやって、苦しむをやっていたんだ。
ここまでいうならほんとうは誰でもそうしているのです。タマシイの視点から観るなら、すべての人はすべての「経験をしている」のです。


整体施術でその人の痛みをみたとき、(身体の使い方を変えればよくなりますよ) と思うケースはよくあります。
一般的には整形外科医やカイロプラクターなどは「普段から運動をしなさい」といいますが、大多数の人はそこでマトモに運動をはじめたり継続したりはしません。「運動をしなけりゃいかん」というモチベーションでする運動なんて、誰もやりたくもないからです。やる必要もありません、効果などないでしょうから。

「痛くなったら薬なりイイ治療師なりに治してもらえばいい」。そういう「経験」をすることばかりを「やめる」ということを本人がしないかぎりは、それは続きます。それ自体イイも悪いもありませんが、それだけでは何も変わらんなと骨身心魂で感じた人だけに、はじめて別の道が、自己の内側の宇宙から開示される。

内側から開示された道だから、それは自らの道である。えてしてそういうときこそ、師に出会ったりもする。見えなかったものが見えはじめるからだ。それはまた「縁 」ともいう。


♪縁あるひと万里の

道をこえて ひきあうもの

縁なき人 顔を合わせ

にべもなく すれ違う

(中島みゆき)



つづく