真体功 土の巻

3年ぶりに砂浜を裸足で歩く。足跡のつきかたが3年前までと違う。このガリガリの体重にしては随分深くめり込んだ跡がつく。

ちぶる整体をはじめてから、整体の内容も自身の体感も随分変わっていった。商売的には全くうまく出来なかったけれども、とにかく「やってみた」 ということは重要なことであった。(自分はまだまだだから)と思ってやらないでいたら、一生、そのままで終わるのである。そもそも「自分」などというものは、誰であれ一生未熟者である。悟りの修行みたいなことをする人のほぼ全員が悟れないのはたぶん自分を悟らせようとしているからでしょう。

今後は、全く足跡のつかない歩きかたもできるようにしようとおもいます。

足の、重心が落ちる位置(土ふまず後端、踵)と真中心(動作の基点。腰の最上部)の氣の道を分断させないこと。 股関節は、子供を遊ばせるように遊ばせる。骨盤正中心は結果、生誕する。

氣をメッチャ下げればムッチャ上がる。メッチャ下げるというのは「脱力」に相当する。ムッチャ上がるというのは「腰が決まる、チカラが出る」に相当する。身体前面は下がる。後は上がる。


中国気功では、足まで気を回すのを、大周天とする流派としない流派があるみたいですが、これは、真体功としては、中周天(笑)というのが適切な気がします。



真体功 水の巻

一人じゃないって

素敵なことね



こんにちは、マキナミツヲです。好きな言葉は「ゼロ距離ならば!」です。みんな生きてしまえばいいのに。



実際あるものに対して、「すべては無だ」と観念したところで、どうにもなりませんそして実際ある氣に対して、「そんなものは無い」と断定したところで、どうにもなりません。

氣というものが共通認識として曖昧なものならば、筋膜や腱に着目したらいい。腱に力をこもらせない。筋膜を伸ばす。氣が感じられないならまず水を感じたらいい。

氣を観念する必要はありません。実感できるのですから。氣といってしまえば何か特別な修行をしなければならないといったイメージがついてまわるのなら、それは要らん。修行なんて要らん。ヒトはただ当たり前のことをしてなさ過ぎなのである。何もしないということをしなさ過ぎです。





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