いくつか前の記事で書きましたが、「バランス良好」のサインみたいに神仏像が脳裏に見えることがあった、そしてそれは今後出てこないだろうという話のつづき。

ハラだろうが胸だろうが、中心軸だろうが、そこに感覚があるのは、「それが無くなるまでの過程」です。サインです。 こっちへおいでよ、と誘われてはいますが、感覚があるということはズレがあるということです。「それを知った」「それを観ている」という段階です。その感覚をおぼえるのはいいが、その感覚に中毒すると、ものごとはストップします。痛みのサインに対して適切もしくは不適切に対処して痛みを消すように、「良きかな」 のサインも同じこと。サインはサインでありチカラではありません。中心感覚であっても中心力ではありませんし、身心の中心感覚を感じているところはカリソメの天国です。

あって当たり前のものを失ったら、ヒトはそれに気がついたりそれを求めますが、そのときそれを分別します。「脱力」なんてものはほんとうなら無い。

ズレ=悪とかじゃなく、この世はズレで出来ていて(自分他人、時間空間)ズレるということはモトがあるということで。ズレから言うなら中心はあるという。モトからはぐれたところから言うなら中心て何?という。やがてズレを認識する。そして中心を探す。中心を認識する。モトに還る。中心など無いしズレがあることが可笑しくて、笑っちゃう。