いえ、逆にさすがです。

「あっぱれ正中心」ブログに私の動画を載せてくださっており、それを私は見られないのですが、中心練修会のA井さんからのコメントを拝見しました。「 動画の感想」というよりも、なんとも「見事な解説」をされているではありませんか!

私の紡ぐ文はいささかポエム的なので、意味がわからないと言われることもありますし、独断的ですので、ああいう適切な解説に感心しました。A井さんはコチラのブログを読まれているかわかりませんが、私はアチラにコメントが送れないので、せめてここで御礼します。ありがとうございます。




シンカン

ブログを始めて間もない頃、「地に足を着けるのをやめた」という題で、足指で確り地面を掴む動作をやめたら心身のコペルニクス的転換が起きたかのような記事を書きました。

一般的には、地面を掴む動作は良いことです。悪くないです。でも、逆に指は開放することでもっといいことがあります。 重要な鍵ですらあります。特に母趾は、浮かせて立たせたら全身にいいことが起こります。


しかし。身体が固い人は何にも感じず何にもいいことはないかもしれません。伝達力がなければ末端の形を変えても力が通らないからです。綺麗な太極拳が使える太極拳とは限らないように、クンフー、ケイドウがなければどうしようもないのと同じように。

タビや下駄は、母趾の掴む力を養成する作用のためだけに他の指と分けているのではなく、母趾が独立して動けるように、作られていると思われます。

地に足を着ける。人生の教訓的な理念にも使われる語句ですが、真体功からすればそれは単なるリキミでありシバリです。 要りません。足は地に着いているのですから。

シンソウ

深層筋は直接に揉みほぐしできるものではありません。そして脱力出力や深層心理とも関係しておる。もちろん普通の肩凝り腰痛にもとてもとても関係している。しかし表層筋のトレーニングや治療と同じような次元の文脈では、稚拙なアプローチしかできないと私は思います。

なぜ深層筋を触らず(触れないが)、ストレッチさせるわけでもなく、心理療法をするわけでもなく、意識させるわけでもなく、ちぶる整体はそれにアプローチできるのか というと、私自身が私自身にアプローチできているレベルを至って単純に相手に伝播させることができるからです。つまり私自体が整体技術力に比例するということです。被施術者が深層心理で伝播を拒否している場合は当たり前ですが深層アプローチも成立はしませんけれども。
人格や性格の好き嫌いの話と無関係なわけでもないけれども、それは基準やモノサシではない。

心や体の鍛錬とか浄化とも違います。私はそういうのは旧式のチャレンジの仕方だと思っています。何もしなくていいのだ。「氣づいて同調する」それだけなのだから。
ひとつ大きな問題があるとすれば、深層のフタを開けるのは、皆怖いから、そう簡単な話でもないということ。深層であればあるほど、怖いということ。悪感情や身体毒素の排出があるかもしれないのは、誰だって怖いよね。

そのようなわけでありまして、ちぶる整体&対話セラピは、深刻な症状の人ほど、逆に良くなりやすいのです。その本人が、表層筋、表層心理をいじくったところで何もならないことを知っているからです。そしてその本人が必死で真剣だからです。悪や毒とも向き合う覚悟があったりするからです。


そういえば、仏像とかブッダ画が、なぜアルカイックスマイルとかいう微笑をたたえているのかが、精神論ではなく身体理由があるからだということがわかった。この話はまたいつか。



シンテン

昨日までよりも、より氣の流れが明確になりました

解剖生理学的にも見事に 芯中心線、真中心点の根拠も見つけましたが、詳細な説明をするのは大変なわりに、読者の方にとって退屈な超長文になるかもしれないので取り敢えず控える。私は科学的根拠は最高の重要事項とは思わないし得意ではない。「ちゃんとした言い訳」としか捉えていない。が、それでも身体は本当に見事な構造をしている。イメージ気功法よりも、実際にあるこの構造を認識意識した気功のほうがよい気功ができるのじゃないかとも思う。
どっちこっち、整体にしろ武術にしろ何にしろ、出来るか出来ないかがすべてです

さて私は今まで随分なことを言い放っているような記事を書いているかもしれませんが、その言い方とは裏腹の、リキミですとかリキシンもあります。それを隠して超越をした人のようなアピールをしたいつもりではないのですが、自分のリキミリキシンの記述はいちいちする必要がないと思い、あまり具体的には書きません。
整体や対話セラピーをしているときに、私個人を前面に出す必要はないのと同じように。


「何もしない」という今までの表現を、今回は「注意深くある」と言ってみる。注意深くあるとは、おっかなびっくり ではない。一切の信念や気負いを棄てて身心を観るということです。そうしていれば、一番やりたいことを身体は行い、一番やりたいことを教えてくれたりします。この「出来事」は、苦労でも修行でも何でもないのです。




真体功の呼吸法

一般的に、呼吸法というと二種類に大別できますでしょうか。 一つはスポーツライクな、つまり呼吸筋を鍛えて大きく強い呼吸力をつけようというもの。もう一つは気功法でよくある、イメージ操作による気息の鍛錬。

真体功ではどちらも採用しません。どちらもリキミリキシンによるものだからです。呼吸筋鍛錬は筋トレと同じことですので、目指すものが違いすぎます。イメージ法は、思念のパワーを増大させますので、目指すものがズレがちです。

増強やコントロールを目的としませんのです。閉じらているものを開く、ただそれだけのことをする。呼吸をしているのは誰ですか?

脳がモノゴトの発生源ではないのと同じで、肺や気管が呼吸の発生源ではありません。身体はアトから動いているものです。思念は過去のエネルギーです。呼吸はアトにも過去にもよらなくても、今、今、今今今今今、風のようにあります。人為的なナニにもよらなくともそうあるもの。
(呼吸の疾患がある人に対して行う医学的な処置を全部否定する話ではありません)


過ぎた増強や都合を目的として呼吸力をつけた場合に生じるデメリットは、自然に対してバランスを欠いた営みをした場合の文明の起こす問題と同じであることでしょう。


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