街路樹は邪魔、無駄、意味不明としか思えない人もいるみたいです。街頭インタビューでそのような発言をする夫婦を見たことがありました。

無駄なもの、と思うってことは少なくとも認識はある。しかし何気なく立っているケヤキを「そこにある」 と認識すらしない方が多いかと思います。
雑音にしろ音楽にしろ、人は認識した音だけしか聞こえません。

整体で人の体に触れる、これも然りです。

私は、筋肉が硬い、骨が少しずれてる、血行が悪い とかっていうことにさほど留意はしません。そんなものは、誰が触れても分かるだろ。それは一番あからさまに、結果的に、体が顕したメッセージです。「そうなる前に」 「そうなるように」起きているもっと細やかな響きを訊くことが出来なければ、話になりません。

天地人を貫く中心線にしたって、認識の問題です。信じるとか信じないとか、空想妄想の出来事ではないのです。

科学は、数年前、とうとうヒッグス粒子を観測しました。観測に成功するまでは理論だけがありました。理論も存在しない時代には、ヒッグス粒子の「有る」空間は、ただの空間とされていたのかな。

何にもない
何にもない
全く何にもない

という認識と、「全ては有る」という認識は矛盾しないと思います。が、ヒトが何をどう認識するか、したいかは、個別の世界みたいですね。相性もあります。