ブログにて「脱力」については良く書きますし、最近は「脱心」的なことも書いています。

さあ、今度は「脱感」について書こうじゃねえか。
「感覚」はリキミや思考よりも手放すことは難しい。っていうか感覚を手放す必要があんの?ってほど、生物である私達は感覚と共にいる。

感覚は確かに思考よりも近くにある。力んでるかリラックスしてるかを感じるのにだって作用してるわけでありますしね。
でも手厳しいことを自分にも他人にも言うなら、リキミなんてサッサと捨てればいいだけの話です。そこからじゃないと何も進まない。リキミを克服するために一生を使うわけにはいかないのです。

で、脱感。感覚に依存するのは結局、筋肉や重心に依存するのと大した変わりはありません。感覚より先にあるものまで行かないと、感覚に頼る、感覚を鍛える羽目になります。

一体それの何がいけないの? とお思いでしょうか。いけないかどうかというより、筋トレや体重を利用した体操に私は興味がない、そして感覚を鍛えることにも興味がないという話ですので御理解してください

感覚はあります、思考もあります、肉体もあって、人間です。でもいづれも、それは、中心ではない。時間で云うなら、全部、「今」の「あと」に起こる物事。

感覚がなければ、熱湯に手を入れてもそのまま、そしてヤケド。ですから感覚の全否定という話ではない。脱力脱力っていったって、体は動くわけですから。

しかし、感覚は所詮感覚であり、ただの情報である。

感覚というのは、記憶、期待、気分などによって、ブレまくる。感覚はそういうものであり、「感覚に頼る」というのは、そういうことだがこれ如何に。

感覚も、思考のように、生じるものではあるが、所有したり中心に据えるには適したもんじゃないのだよなぁという、今回はそういう話。