シンビガン




新体道には「開放体正座」というのがあるというのを初めて知りました。膝を出来るだけ開いて座るらしい。やってみた。


‥!。 まるでまんま簡易強健術じゃん。脚は90度解放でビシッと姿勢が決まる。それ以上開くと統一身心は崩れる。解放エクササイズととらえるならそれもアリか。

で、私の体感としては、これは正座と蓮華座の中間のような姿勢感覚がある。中途半端というのでなく、いい案配である。良い座法ですね。



さてわたしは「礼儀作法」としての正座の価値なんてのは、どーでもいいことだとおもっています。ドレスコードとかにしてもさ、んなもん全部「錯覚」じゃん。正しい礼儀、マナーなんてものは時代の集団幻想でしかない。

正座の礼儀正しさの本質とは、まず自分自身への礼儀正しさである。
そういう意味では神道の作法にも似たものがある。神社参拝の仕方(手と口をゆすぐ、礼、拍手、礼)は自己に対する礼法でもある。超ボディワークだ。 そして「参道の真ん中を歩いてはいけない」という習わしは、真ん中が神様の通り道だからというのがその理由みたいだけれど、それはそうだとしても私はそこに自己に対してのシンの意味合いもあるようにかんじます。シンタイの真ん中はエゴがズケズケと通る道ではない、ということを示唆しているのさ。








シンダイ




こまかく言えば、中心感覚は、肉体の感覚ではありません。腰や腹の緊張感覚や充実感覚は、「中心の部分的」な感覚(ややこしいね)である。
さらには精神的な透明感とか頭脳的な理解もまた、中心、とは言い切れないようにおもいます。それらは「中心がすこしあらわれた様子」でしかないのである。



つづく






解決する真座



すばらしい坐法というか体操というか、とにかくシンタイコウのシンシリーズを編み出しました。名付けて「真座式体操」。

今までで一番強力に姿勢が決まる。そして正座や蓮華座で瞑想するよりも、変性意識に即座に突入する。


ほんとうは、肥田春充さんが具体的に記した肥田式の説明や、古来の禅や瞑想法を漏らさず理解し実践するならばこうしてアレジナルな動作を編み出す必要もないのだとおもう。しかしながら 私には私の体験ルートがある。そしてあなたにはあなたの体験ルートがある。到達するところのものは「個人」の領域など超えていても個のダンスはある。
よってこの真座を最強のメソッドと謳って動画か何かで安易に見せたところで、大抵なんにもならない。もし縁や機根のある人に機会が訪れるときには具体的に教えられることもあるでしょう。まじわることがあるでしょう。
先日のWBSS決勝戦、ドネアvs井上の決戦はほんとうに見応えがありましたね。両者共に素晴らしいボクサーですね。あんな試合のようにまじわりたいものです。







座ワイショウ






こうして立ち続けていて、ハタと思いついてやってみたことがあるのですが。
正座しているときもこれと同じように、重心、姿勢は定めたまま、とてもとてもとても微妙に身体をグラグラゆらしながら座りつづけてみたのです。これだ!名付けて「ザワイショウ」。
見た目にハッキリわかるほど揺らすわけではありません。

重心、姿勢てゆうのは、身体を「止めて」定めるものとはかぎりません。重心、姿勢はたしかにピンスポットで極めるものだけれども、肉体をそこにとどめようとするような作業は、逆効果である。
座禅とはジッとガマンして身動ぎせず座りつづけることだろうか?そうしていれば悟りが開けると?違うよなあ。それで悟ったとかいう奴がいるんなら出てこいや。ぶん殴ってやる(笑)。


ザワイショウでは腰も腹も解れるべき箇所は解れてゆく。だからこそ腰も腹もキマってゆくのである。ズン、ズンと体は沈み、また同時にギン、ギンと立ち上がる。瞬間瞬間に死に、瞬間瞬間に生まれてくる。ハナッからキマっている重心に身体をのせておろしてゆく。のせてのせて、のってのってゆくのである。
重心を「宿命」、身体を「自分」と言い換えたっていいさ。シンの自由とはこのことさ。


しかしまあこのセイザワイショウにしろバックベントで起き上がるときの「勝手に身体が立ち上がるような感覚」にしろ、ほんとうに、フルボッキした珍宝の感覚にもよく似ているのです。グアーン。バイーン。チョーキモチイー。で、またおもうのです。身体そのものが珍宝なら、ではその珍宝のシンタイは何処ぞ?(゜Д゜≡゜Д゜)??とね。



予告

自分ト フタリッキリデ 暮ラスノダ
(谷川俊太郎、バカボンのパパの詩)



次回
「ハイアーセンコツ」






セット、シット、シン 2



氣をねばらせてみる。


シンタイコウの各動作を、太極拳の如くにシットリとした動作で行ってみる。身心を練るには加速度的動作よりもこちらのほうがよい場合がある。

加速度的動作を否定するのではないが、ハッキリ言って難度が高い。よほどの人でないかぎり「ナンチャッテ加速」しか出来ないようにおもう。 ひそかにどこかにブレーキをかけるのである。そうして身体内部のどこかに強い圧を加えても、それは中心力でもなんでもなく「無理な力」である。

かつて、太極拳の名人(名前忘れました)の演武を見たとき、突如として瞬間的に爆発的な激しい動作もしていたのを覚えています。今おもえばあれは肥田春充の気合応用術とか抜刀術に似ていた。
姿勢動作が完全に理に叶っているとき自然に加速的爆発的動作が生じる。

昔よく格闘技好きの人や空手の人や自称ケンカ強者が太極拳を嘲笑うシチュエーションに出くわしましたが、「ジッセン」しているものが違うのだから噛み合わない。
シットリと出来ない動作は「身に沁み込んでいない動作」といったっていい。何週間か休んだら全くできない動作や、落ちるスピードや、40過ぎたら落ちる一方の体力などは、真体功とは没交渉の刹那的な力である。


シットリと出来ないのに過激におこなう動作は「やっつけ動作」である。顕在イシキと潜在イシキの足並みが揃わない孤立した物質肉体運動になりがちです。

あえて太極拳や合気や肥田式などのことをやらなくとも、動的禅 をおこなう機会はどこにだってあるとおもいます。が、あえてそれをやるイミもある。それは、イミなくそれをやりたいからだ(笑)。







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