氣をねばらせてみる。
シンタイコウの各動作を、太極拳の如くにシットリとした動作で行ってみる。身心を練るには加速度的動作よりもこちらのほうがよい場合がある。
加速度的動作を否定するのではないが、ハッキリ言って難度が高い。よほどの人でないかぎり「ナンチャッテ加速」しか出来ないようにおもう。 ひそかにどこかにブレーキをかけるのである。そうして身体内部のどこかに強い圧を加えても、それは中心力でもなんでもなく「無理な力」である。
かつて、太極拳の名人(名前忘れました)の演武を見たとき、突如として瞬間的に爆発的な激しい動作もしていたのを覚えています。今おもえばあれは肥田春充の気合応用術とか抜刀術に似ていた。
姿勢動作が完全に理に叶っているとき自然に加速的爆発的動作が生じる。
昔よく格闘技好きの人や空手の人や自称ケンカ強者が太極拳を嘲笑うシチュエーションに出くわしましたが、「ジッセン」しているものが違うのだから噛み合わない。
シットリと出来ない動作は「身に沁み込んでいない動作」といったっていい。何週間か休んだら全くできない動作や、落ちるスピードや、40過ぎたら落ちる一方の体力などは、真体功とは没交渉の刹那的な力である。
シットリと出来ないのに過激におこなう動作は「やっつけ動作」である。顕在イシキと潜在イシキの足並みが揃わない孤立した物質肉体運動になりがちです。
あえて太極拳や合気や肥田式などのことをやらなくとも、動的禅 をおこなう機会はどこにだってあるとおもいます。が、あえてそれをやるイミもある。それは、イミなくそれをやりたいからだ(笑)。