こうして立ち続けていて、ハタと思いついてやってみたことがあるのですが。
正座しているときもこれと同じように、重心、姿勢は定めたまま、とてもとてもとても微妙に身体をグラグラゆらしながら座りつづけてみたのです。これだ!名付けて「ザワイショウ」。
見た目にハッキリわかるほど揺らすわけではありません。

重心、姿勢てゆうのは、身体を「止めて」定めるものとはかぎりません。重心、姿勢はたしかにピンスポットで極めるものだけれども、肉体をそこにとどめようとするような作業は、逆効果である。
座禅とはジッとガマンして身動ぎせず座りつづけることだろうか?そうしていれば悟りが開けると?違うよなあ。それで悟ったとかいう奴がいるんなら出てこいや。ぶん殴ってやる(笑)。


ザワイショウでは腰も腹も解れるべき箇所は解れてゆく。だからこそ腰も腹もキマってゆくのである。ズン、ズンと体は沈み、また同時にギン、ギンと立ち上がる。瞬間瞬間に死に、瞬間瞬間に生まれてくる。ハナッからキマっている重心に身体をのせておろしてゆく。のせてのせて、のってのってゆくのである。
重心を「宿命」、身体を「自分」と言い換えたっていいさ。シンの自由とはこのことさ。


しかしまあこのセイザワイショウにしろバックベントで起き上がるときの「勝手に身体が立ち上がるような感覚」にしろ、ほんとうに、フルボッキした珍宝の感覚にもよく似ているのです。グアーン。バイーン。チョーキモチイー。で、またおもうのです。身体そのものが珍宝なら、ではその珍宝のシンタイは何処ぞ?(゜Д゜≡゜Д゜)??とね。



予告

自分ト フタリッキリデ 暮ラスノダ
(谷川俊太郎、バカボンのパパの詩)



次回
「ハイアーセンコツ」