タマシイのルフラン

肥田春充さんは、自己の身体を、溶けるバターのように柔らかくもあり姿勢を決めれば鋼鉄のようでもあり、とかなんとか表現していましたかね。
強健術は鋼鉄エクササイズが主で、バターエクササイズがいろいろとあるわけでもないけれども、まずバター体になれなければ、鋼鉄体にだってなれないんですよね。バターをおろそかにして昭和的軍隊的に鍛練をしても、ひび割れた粘土にしかなれません。

バターと鋼鉄を、もっと極端にいうなら、「死と再生」です。人は往々にして、死にたくないがために、死ぬことも生きることもしないでいる。かくいう私だって、バックベンドとかのシンタイコウ動作がシンカするたび、一体今までどんだけ保身のための固い動作しかしてなかったのかとおもうことの繰り返しである。

ハッキリ言って究極の楽は死だとおもう。ビートたけしさんは、どうせ死んだら楽になれるんだから生きてるうちは苦労するべとかって言っているみたいです。私は生きてるうちでも苦労したくないが(笑)。てゆうか、もうあんまり生きていたくないが(笑)。中心練修会千葉北西支部に行って鍛え直すべきは正に私のような奴かもしれん(笑)。

ついに宇宙のブラックホールが撮影されたという報道がありました。光すら脱出できない重力をもつというブラックホールの写真を眺めつつ、宇宙の相似形である自己のシンタイを観照しました。シンタイのブラックホールはいずこにあるのかと。

♪ワタシに還りなさい
生まれる前にあなたが過ごした大地へと
(高橋洋子、魂のルフラン)

次回予定
「シンタイのブラックホールレポート」
「チ・ンポノポノ」
「エロイ エロイ レバ サバ食ったに」








ヤントラ(姿勢)とタントラ(氣)のシンタイコウ

キネシオテーピングというものがあります。とても伸縮するテープを痛めた筋肉に沿って貼りつける治療法です。高い効果があります。筋肉の働きを代行してくれるような作用があるため、貼りつけた部位の筋肉は安静にしていられるといったような仕組みです。


さて、姿勢の訓練をするとき、おのれのリキミでスガタカタチを固めるのでなく、まるで代行してくれているかのようにスッと中心姿勢にいざなってくれるキネシオテープのようなチカラは、どうしたら出るのか、そのアプローチをひとつ紹介します。

私は、肥田春充の肥田式強健術の精華である「聖十字体操」は、性交時の女性のエクスタシーの様子と、とても似ているようにおもいます。しかし聖十字体操は男女性交ではありません。では一体、何に身を捧げているのかということなんです。

漠然とした抽象的イメージ(たとえば宇宙愛とか神とか)を想像しても、そこにリアリティが無ければそれはただの妄想です。私は、すくなくとも私がリアルに感じられるレベルの、私とまぐわうものに身を捧げます。それはなにかというと、ワタシの化身です。セイミョウなる私の化身とまぐわいます。 このときどちらかというと肉身の私はオトコではありません。チンコ立ててるわけではありません。むしろ化身のチンコを受け入れています。あくまでも超リアルに、シンタイを使って、受け入れるのです。脳内で夢を見てるだけではありません、シンタイで、シンタイをキッチリ使って、受け入れるのです。

このようなことそのものにリアリティを感じられない方もいるかと思いますが(笑)、まあ、こういうアプローチの結果、脱力とか上虚下実なシンタイは実際に生じるわけです。でも、こうした幻想や快楽に中毒することは、道を外れることになる。すべては答えをあらわすための方便、数式にすぎないものであります。仏像というものは人々にとっての方便であることに似ています。しかし偶像崇拝を禁ずる宗教がひたすら禁欲的で、女性を蔑視したり男性性が暴走(テロとか)したりするのも因果なものですね。

ともあれどうでもいいけど、肥田式的ボディワークにおいて、正中心点にチカラを込めるとかするよりも、もっと下(股関節とか)を緻密に意識できて動作できたほうがよいのです。中心力は、構造と姿勢と動作の「結果」、生じるもの(とはいえ、実は其ははじめからある。疑問と答えのパラドックスと同じで、疑問(動作)が生じるということは答え(中心)がそもそもあるということである)です。

「中心」とかおもって中心を観念したり中心点を意識しすぎたりしていると、中心は青い鳥や火の鳥みたいに逃げていきます。

♪追いかけて
追いかけても
掴めないものばかりさ

(チャゲアス、曲名知らない)








タントラと強健術と両性具有

肥田式強健術やシンタイコウは実は女性的というか、中性的な身体感覚が磨かれる運動であるということがわかってきました。

肥田式って「男!」なイメージがチョー強く、女性に全く人気のないボディワークですが、ほんとうは、女性にも向いているというか、女性がやると内なる女性の力、魅力が増すような気がしてならない。てゆうかシンタイコウはまちがいなくそうであるようにおもうのです。ぜひ女性にやってもらえるよう、女性インストラクターを養成したいものだ。

炭水化物を抜いて腹を6個に割って細マッチョにする体を女性がつくることも今ドキは人気があるみたいですが、それがカッコいいとされてテストステロンだか何だかが分泌されて元気になってエトセトラで本人が満足なら文句を云う筋合いは私にはありません。でも個人的な好みをここでコッソリ云う筋合いはあります。全然いいとおもえません。

まあビジュアル的なことはさておき、肝心なのは中身である。肥田式はまだしもシンタイコウは「筋肉(アウターマッスル)の、固い発達」などは眼中にない。では運動によって何がなされているのかって、それは骨盤や胸を内側から活発にさせているのであるからして、女性の生理的健康にとっても良くないわけがないのです。


では男性にとって、女性的とか中性的身体感覚を磨くことは必要なのか。 別にニューハーフになるとかいう話ではありません。ただ、肥田式姿勢やシンタイコウ動作は、実は、非常に「受け身」なところがあるのです。雰囲気の話ではなく、実際に、マジに、メチャメチャ受け身にならなければ腰腹同量の姿勢なんてできないのである。


何に対して受け身なのか。受け身になったら何がいいのか。そんなもんはこのブログの過去記事のどこかしらに書いてあります。てゆうか頭で理解する話ではありません、シンタイが知ってナンボです。
シンタイコウやってください。








散文です

銚子方面の春は東京よりもやや遅く訪れるので、桜の開花もやや遅いです。が、今年は例年の遅さともまた違い、なんだか桜は咲くべきか咲かぬべきかと戸惑っているようである。

太陽フレアとか地軸の移動とか、環境の大きな大きな変動を鑑みたとき、気功などの天地人をつなぐボディワークは、むしろ厄介なことになるのかな?っておもうこともある。変調とシンクロしてキツくなるような。 だけれども、大船をこしらえて乗り込む(ひたすら環境に抗える身体にする)方向ではなく、ナルトの渦に飛び込む方向だってある。


♪宇宙にきらめくエメラルドー(エメラルドー♪)
地球の最期がくるというー(クルトイウー♪)

誰かが立たねばならぬときっ(チン!)

誰かがいかねばならぬときっ(マン!)


(ウルトラマンレオ主題歌)


大震災で津波警報がけたたましく鳴って、町のみんな、必死に逃げたときがあったんですよ。で、津波避難の大原則は、誰かを助けなきゃなんて思わずとにかくおのおのがおのおののチカラで全力で逃げろってことなんですけれども。


♪風は北向き
心の中じゃ
朝も夜中もいつだって吹雪
だけど死ぬまで春の服を着るよ

そうさ寒いとみんな逃げてしまうものね
みんなそうさ

(中島みゆき。 曲名忘れた)


でも、反射的本能的に、全力で誰かを守ろうとすることもあるんですよね。そういうときって、自分の存命欲求なんて無いんですよね。


♪一番最後に見た夢だけを 人は覚えているのだろう
幼い日に見た夢を 思い出してみないか

ああ あれは最後の女神
紛れもなく 君を待ってる
ああたとえ最後のロケットが 君を残し 地球を捨てても

(中島みゆき 最後の女神)






てんめいひらく

結局のところ、私はシンタイコウを、やってきたのではなく、やらされてきたのだとおもう。そして、其れにますます同意しているのだ。
では誰にやらされているのかって、それはどこぞの何者かを限定してその名前を云う必要は、無い。言ったがために曲解されるからである。この説明がサッパリわからなければ、わからないでかまいません。

他人だとか誰かしらの都合によってやらされることと、そうではないものにやらされることは、とても質が違います。その体感的な違いをひとつ、おしえます。前者からの指令は頭の斜め上とか横とかから入ってくる。後者は、脳天直上から直下に入ってくるものです。頭を身体よりも前に出して首を固くしていると、入ってきません。たとえばパソコンとかに夢中な姿勢では入ってきません。

そしてもうひとつ。それはシンゾウが、きいている。

チカラ、重心、氣をハラに落とすとき、ついつい横隔膜を圧下させるようなことになりがちかもしれませんが、それではダメじゃんか。そんな力業でつくる姿勢とかハラとかが不愉快でしかない人、あなたの身心は正解です(笑)。横隔膜を圧しないでハラに落とすには、肋骨を開けばいいのです。卵の殻(肋骨)を割って、中身(チカラ、重心、氣)が落ちるようなもんです。 受け皿(腰、下肚)の位置はしっかりと。肋骨つまり胸つまりハートはですね、水平にどこまでも広げるつもりで、おもいきり解放してしまえばいいのです!…だが、これができないのである、みんな。怖いんだよね。みんな、さびしいんだもんね。

さて重心はさらに足の下へ落とすわけですので、ハラにため込むのではない。肚の鍛練は、胎教と似ている。十月十日経てば、出産をするのです。その間、つわり(偏差)があったり、安定した至福感(肚の充実)があったりとかして。よって自分の健康はたしかに大事なことですけれども、それはほんとうの目的そのものではないのだ。


また、身体の鍛練は、天上と地下と地平との協奏曲を奏でる楽器の調律とでもいえるかもしれません。この世界を生きるということは、音を出すということである。
しかしながら、無音がなかったら、音もないのです。







シェーッ!!







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