結局のところ、私はシンタイコウを、やってきたのではなく、やらされてきたのだとおもう。そして、其れにますます同意しているのだ。
では誰にやらされているのかって、それはどこぞの何者かを限定してその名前を云う必要は、無い。言ったがために曲解されるからである。この説明がサッパリわからなければ、わからないでかまいません。

他人だとか誰かしらの都合によってやらされることと、そうではないものにやらされることは、とても質が違います。その体感的な違いをひとつ、おしえます。前者からの指令は頭の斜め上とか横とかから入ってくる。後者は、脳天直上から直下に入ってくるものです。頭を身体よりも前に出して首を固くしていると、入ってきません。たとえばパソコンとかに夢中な姿勢では入ってきません。

そしてもうひとつ。それはシンゾウが、きいている。

チカラ、重心、氣をハラに落とすとき、ついつい横隔膜を圧下させるようなことになりがちかもしれませんが、それではダメじゃんか。そんな力業でつくる姿勢とかハラとかが不愉快でしかない人、あなたの身心は正解です(笑)。横隔膜を圧しないでハラに落とすには、肋骨を開けばいいのです。卵の殻(肋骨)を割って、中身(チカラ、重心、氣)が落ちるようなもんです。 受け皿(腰、下肚)の位置はしっかりと。肋骨つまり胸つまりハートはですね、水平にどこまでも広げるつもりで、おもいきり解放してしまえばいいのです!…だが、これができないのである、みんな。怖いんだよね。みんな、さびしいんだもんね。

さて重心はさらに足の下へ落とすわけですので、ハラにため込むのではない。肚の鍛練は、胎教と似ている。十月十日経てば、出産をするのです。その間、つわり(偏差)があったり、安定した至福感(肚の充実)があったりとかして。よって自分の健康はたしかに大事なことですけれども、それはほんとうの目的そのものではないのだ。


また、身体の鍛練は、天上と地下と地平との協奏曲を奏でる楽器の調律とでもいえるかもしれません。この世界を生きるということは、音を出すということである。
しかしながら、無音がなかったら、音もないのです。







シェーッ!!