テニスや野球は、球を打つ瞬間にチカラを込めたらあとはどうでもいいというわけではなく、スイングには始動→インパクト→フォロースルー、と軌道がある。
ちなみにイチローなんかを見てると、インパクトの瞬間すらチカラを込めてないというか、むしろそのときこそチカラは込めていないように見受けられる。
指圧マッサージも、グッと押すインパクトがものをいう訳ではない。つーかチカラなんて込めたらすべて台無しだろ。 力自慢のマッサージ師がいるけれど、どうかとおもうよ。ギュウギュウ揉まれたい人も少なくないが、それもどうかとおもうよ。
肥田式強健術におけるインパクト(本動作)のとき、見た目にはビッ!と型は止まるのですけれども、決して中身、内部は、止めないのである。
気功を知らない人が気功のモノマネをするとき、『ハーッ!』とかいって体をチョー固めますけど、まるでそんなかんじで肥田式強健術をやっていては、どうしようもない。『中心に力を込め云々』というような言い方の肥田式の説明をどこかで読んだことがありますが、それってどうなの。
正中心は、筋肉ではないし、的(まと)でもない。そもそも、どうやったって力などこもらないよ。伸ばす、広げる、捨てる。落ちる。どこにも込めないよ。
腰の締まりとか腹の力感とかのことを『込める』と表現してるのかもしれませんが、それは『入る』のであって、いちいち意図で込めはしないものである。
焦点はオートマチックに定まるのであって、手動で止めない。ほんとうはある意味、実に女性的で受動的な運動なのである。スポーツの『ゾーン』とよく似ているら。
人は往々にして、『欲しい』んだ。チカラが欲しい。体感が欲しい。充実が幸福が強健が能力が。それが悪だとは言えない。そりゃ欲しいさ。欲しいよなあ。そして、自分がやってる気になりたいんだ。的に当たる矢が放たれる身体になるのでなく、矢を的に当てたいのだよね。ですが、それは、部分力だからね。それは中心道とはいえない。
迷いの衣を脱いだとて
悟りの衣を着てはなあ
(相田みつを)
中心は、衣でも想念でもないのだから、肉体やエーテル体やアストラル体やメンタル体に、その姿、形があるわけではないとおもうよ。ない。あらわれるんだ。
中心に中心せらるるなり
(肥田春充)