ここで言う直感は、思い込みや損得勘定からくるものが多分に混じる感性のこととします。それはデータほどの正確さはありません。
データは勉強で得られます。役に立ちます。但し「常に更新され続ける今」を扱わない場合において。
極端な言い方をすれば、データは死体であり直感はゾンビです。

直感ではない『直観』はサレンダー(明け渡す)によって働いていると思います。…明け渡すって何を?…自我とか意識とかでしょうか?自我は自我を絶対に明け渡しません。緊張は緊張を絶対に明け渡しません、脱力しません。

明け渡すもへったくれもないもの(そもそも自分のものではないもの)が働いているのが直観なので、直観を明け渡すってんでもありません。

未知のものごとに明け渡す。既知を。…出来ないねぇそんなこと出来るわけがないじゃないか!人は何かを学んで記憶して使っての繰り返しでそれを時々更新させたりするのが成長ってもんです。

でも、未知のものごとを受け入れている状態が、瞬間が必ずあります、誰にでも。年をとるほど小さくなりがちですけれども。何かを学んでいる瞬間は未知をそこそこ受け入れています。記憶して使用してるうちに怠惰が忍び寄ってきますが。

未知のものごとに対する恐怖感が直観を鈍らせます。未知は未知であって、幸せとか安全とか希望とかを見せてあげるっていう看板など出ていないのですから。

明け渡す受け入れるという言い方ばかりだと受動的なニュアンスが強くなりがちですが、逆もまたあります。何かしかの決心、覚悟があり、その覚悟の他一切を明け渡さない、受け入れないという状態。ここでもまた直観は現れます。

ちょっと長くなってしまいました。直観と氣効や整体、癒しの関係については、また追々、少しづつ、砕きながら書ければと思います。
今のところ当ブログでは読んで頂いた方のコメント等を受付していないのですが、わざわざ読んでくださる方、ありがとうございます。また。