心が死ねば真は生き生きとし






この一年の間に2回か3回あったことですが、睡眠中、身体がバキバキ!グワ! ってなって(擬音の説明だけではよくわからないかもしれませんが、ごめんなさい)、あんまりの急激な苦しさで目が覚めていました。身心がまるきりコントロール不能になるみたいな感じ。 肉体の病気もしくは心霊現象、そのどちらともおもえなかったし、少しして収まれば、そのまま寝て、忘れてました。


昨夜、久々に、それに似た様子でバキ!グワ!っとしてまた目が覚めた。く、くるしい。けれど以前と少しちがう。 以前は圧倒的に丸ごと身体がひきつる感じだったが、今回は、下肚がジーン、胸はギュウー、頭はスー。あ、あと、珍宝はヤケにフルボツキしていたように記憶している。なんといいますか、身体を貫こうとするエネルギーみたいなものが、ある程度、身体と融合しているといえばしているみたいな、身体が全面的に拒絶反応を示さないで、いくらか受け入れている的な感じだったのですが。たぶん、胸は一番抵抗していた。

肉体主導動作、気功(ケイラク)動作、真氣主導動作、はそれぞれ、ちがう。 とくに気と真氣は、卓球→テニスとか空手→柔道とかっていう運動神経の移行の話とはちがうし、卓球→柔道というチェンジ具合の話ですらない。とにかくそうゆうんじゃなくて。

フツーは、気功とかいったら健康とか武術とか、あるいは開運とか?、とにかく益になりうるからこそ、そのエクササイズをしたりするものでしょう?。しかしもうこれは、そういう話ではありますまい。
ケイラクの気は、なんだかんだいってもいくらか自分のコントロール下にあるものである。副交感神経や不随意筋を意識化する作業である。
だが、真氣動は、更なる自己の放棄が要求される。かといって、放棄すりゃあなにかスゲーものが得られるから放棄するとか、そんな取引ではない。


さてそこで、こんな話を不特定の人に向けてブログ記事にするのは如何なものかという気もしてくる。これはもうあきらかに、エクササイズ、ワークの話ではないのだ。
こんな話、関係ない人がほとんどなのではないか。気功とか姿勢による脱力とか出力とか、そういうことならレクチャーできる。でもこれは、そんな話でもない。


面と向かって誰かとシンタイコウの話をするなら、発する言葉はその時々その人々によって様変わりするものです。ほんとうに通じ合うためには波動言語を使う。シンタイコウのほんとうのところを文章で伝えようとしなくてもいいのじゃないか、いやむしろ文章にするべきではないとすらおもうようになってきている。