瞑想行とかだと、スピリチャルの沼に落っこちてしまいがちだけれども、肥田春充(肥田式強健術)がどこまでも健全なのは、筋トレが原点だったからだとおもう。筋トレを否定する私でもそれは肯定的にみる。

肥田強健術には気功的な指図は無いが、肥田さんは氣を氣として頓着していなかったのかもしれない。氣が無かったわけではないだろ。

ことさら気功をしていない人にだって氣の走行や氣の走行の乱れはあるのである。そうじゃなかったら気功施術は気功をしている人にしか効かないものになる。だが現実はそんなことない。


筋トレだろうがオシャレヨガだろうが、極みへと向かう人は向かうんだと思う。禅だろうがスピリチャルだろうが、脱線する人は脱線するんだと思う。
ミもフタもない言い方だが、その人の資質ですべては決まっているとおもう。
才能ではない。資質です。