絞首刑に処されても、胸を撃ち抜かれても、腹を切らされても、そうして肉体は死んだとしても、死なないモノがある。
じっさいに確かめていないので妄想と言われればそれまですが(笑)、それは正坐で妄想でき…いや、明確になる。

それは大周天とか強健術とかでも体得できるのかもしれませんが、不死のシセイに還るうえでは必ずしも強健を加える必要はありません。それに、ある一定の健康でよいなら、正坐のみ行うだけで充分に保養される。というか強健や周天の礎も、ここにしかないのである。


無、虚空、あるいは高次元とか、そういったところ?には、いちいち肉体から離れなくとも、片足を突っ込むことはできる。や、この言い方は適切ではありませんな、逆だ。『肉体という片足を出すこと』はできる。

涅槃とまで言うならそれは片足をどうにかしていられる世界ですらないのかもしれませんが、、まぁあんまりこのテの話に突っ込むと、冗談ぬきに妄想でしか私は語れない(つまりよくわからない)ので、
リアルシセイの話にもどします。


『仙骨を立てる』ことと『仙骨が立ってる』ことは同じことではありません。 修行とか鍛錬とかワークといったものが『仙骨を立てる』ことに勤しむものだとするならば、仙骨が立ってる とは、どういうことかというと、思想や決心とかで如何にして生きているかでなくて、 それは『死ぬるなら死ぬにまかせ』なおかつ『活きるなら活きるにまかせきって』いるシセイである。