下丹田でもハートチャクラでもサードアイでもどれでも、人それぞれ、そのうちのどれかが発達しているとか開発させているとか、傾向がある。

それは元々チカラを発揮していたトコロかもしれないし、弱かったゆえ鍛えて研いたおかげで強くなった、かもしれません。
どちらにせよ、まさにそこが使われる反面、そこに執着も起こる。そこに「自分」があるという感覚を持つから。先天的に強かったトコロなのか弱かったトコロなのかは、どちらでもよいが、とにかくそこにフォーカスしておく必要が私達にはある。
しかしそれは、そこまでは、因と果の世界においての話である。


肥田春充は限りなく弱かったハラを鍛えた。非常に強い人になった。そこまでは因果である。しかしあの大正何年だかの夏の夜、それをも捨てたんだ。尋常じゃありません。


私は私の、長い間シカトしていた上肚を、しかと観ている。