身もフタもない言い方をするならば、スピリチャリズムはすべて、デッチ上げの御都合主義です。
しかしです。
臨終の際に「御迎えが来た」と言って亡くなる方がいるみたいですけれども。医学は医学で身もフタもなく「朦朧とした意識が見る幻覚」ということになるそうですが、果たして、そうだとしても、亡くなる本人にとっては、御迎えが来たのはリアルであり現実以外の何物でもないのではないかと思います。
御迎えが来るまでは生存する私達は、各々が見たいものだけを見ることしか出来ない生物であるにも拘らず、どうにかこうにか共通認識を作って生きていくわけですが、見たいものだけを見ることしか出来ない生物、人間である以上、それで完全に丸く収まることはありません。
では全てを結ぶものは何でしょうか。愛でしょうか。
私は愛って何のことかわからないので、わかりません。多少わかることがあるとすれば、Kさんの弟子でありエアコンの無い夏を過ごしている人である、ということくらいです。
引っ越し祭がひと段落して、エアコンのない夏をどうにか脱却した愛です。
ようやくまたここに来ることができました。
今回の記事、とても共感しました。
誰かによる分析はともかく、当人にとってのリアルというものは必ず存在しているのだと思っています。
共通認識が埋めることのできない溝があるからこそ、人は思いやりを持とうと努力できるのかもしれません。
そして、覚えていていただけた、という訳でにんまりしております。
愛、は言葉で説明しづらいものの代表格ではないでしょうか。とても矛盾した存在でもあり、それが存在できるかどうかも人にかかっていますし。
考えても無駄とは知りつつも、今宵も思考の海に招かれるのです。
数日前からちぶるさんのことを知り、最初から興味深くブログを読ませて頂いています。
いつか整体を受けに行きたいですが、地方在住なのですぐにいけないのがもどかしい。
さて、「愛」について、触発されて思い出した、武道の師の言葉をのっけさせてください。
(一年後のこのコメントなんて、誰も気づかないでしょうが・・まあ自己満足ということで)
「私は善を知っているだろうか。
もし私が善を知っていたら、それは善ではないだろう。
(自分は善い事をしている)という認識は善ではない。
私は徳を知っているだろうか。
もし私が徳を知っていたら、それは徳ではないだろう。
(自分は徳を積んでいる)という認識は徳ではない。
私は愛を知っているだろうか。
もし私が愛を知っていたら、それは愛ではないだろう。
だが思考は主張する。
愛している、愛されている、これが愛だと。
愛は自分が愛だと主張するだろうか。
思考認識の中にしまい込めるだろうか。
愛は自分が愛だと認識するだろうか。
自覚と目的を伴う事ができるだろうか。
思考認識によって、既知の経験によって、それら全てである自我によって理解できるだろうか。
理解できるのは当のものではなく、その残影であり、愛という未知なるもののイメージでしかない。
私は神を知っているだろうか。
私は美を、調和を、正しさを知っているだろうか。
生きた未知なるものに触れるには未知の状態でなければならない。
それらのイメージを心に象る全てのものから自由でなければならない。
思考認識が知覚できるものは残影であり真理ではない。
玲瓏なるものを発見するには玲瓏でなければならない。」