思い出した。

昨日の記事では、太極拳と肥田式強健術の相違点について言及しようとしたのですが、言葉で表すのが難しいこと書こうとしてんなあと思いながら見切り発車させましたら、グダグダに終わりました…すんません


氣を養う、培う作業と、氣を発する作業は少し異なるのですが、どっちこっち、固まった心身は、ほどかれます。

ですが、氣を発する作業はどちらかといえば爆発的な作業ですので、心身のコリカタマリを強制的に吹き飛ばすようなことになります。

ということはつまり、穏やかに氣を育成するよりも、リスクがあるとも言えます。易々とは外れない心身の執着と氣のチカラとの矛盾、抵抗が生じて、ダメージを受けるのです。

穏やかに育成する場合は、ダメージは受けにくい反面、心身(の執着)から軸足を離さないままになりがちになる為、なかなか進歩成長しないとか、あるところから停滞したまま先に進まないことが起こり得ます。


ここで注意しておきたいのは、心身と氣は敵対関係ではないということです。心身の否定=氣の充実ということではありません。

心身や念が氣を育んだり発したりはしないということです。逆です。もともと氣があるから、心身がある。

ですから氣の育成というのは、もっと適切に言うなら、「氣の発見」「氣の観察」です。
そして「心身の再発見、観察」です。


氣を発するということは、「矛盾の発見」「矛盾の観察」でもあります。
しかし矛盾の発見観察が目的そのものではありません。
氣を発するということは、氣を発するということです。