音を音以外の何かであらわそうとする場合、音譜になります。言葉を言葉以外の何かであらわそうとするとき、文になります。

中心力をあらわすとき、ボディワークであらわれるのば姿勢や動作です。
でも、その姿勢や動作は、人に見せるため(伝えるため)に中心力そのもの以外のものに置き換えた暫定的手段なのではありません。音譜でも説明書でもなく、それは演奏であり発声なのであります。

ベートーベンの第九は、発表当時は、楽譜どおりに演奏や歌唱できる人や楽器がそろわなかったそうです。よって完成された第九を聴くことができた人も誰もいない。結果、難聴の作曲家の大失敗作だと酷評されたらしい。

しかしベートーベンは、『何十年後かにできるようになるだろう』と予言し、この世を去ったそうです。そしてのちにワーグナーがそれを叶えた。

ちなみに肥田春充は『五千年後ですら…』と言い残し、自身が体現したものが理解されない(人類に分かち合われない)ことに絶望し、去ったという。また、絶対自由への道を示したクリシュナムルティも、結局『変わった人は誰もいなかった』と言い残し、去ったという。
肥田さんもクリシュナムルティも、もう個体としては存在していないので、個体としてそのナニカを表現することはない。だが、動画や写真や文は残っている。しかしながら、動画や写真や文はしょせん『楽譜』である。音を出すのはオノオノガタである。
はじめにあるのは楽譜ではなく音である。はじめにやるのはまず音を出すということです。

そしてまた

ベートーベンは音が聴こえないにもかかわらず作曲をしました。先天的な難聴ではなかったことがそれを可能にしたのかもしれない。しかしオトは、アタマでこねくりまわしたりアタマが察知するよりもはやく、
すでに出ているのである。



次回予定
『縁起がよい』