たまにおこなう、新聞紙を1インチパンチで打ち抜くエクササイズ(基本、四枚重ね)は、百回打って百回ミスらないほどの完璧さは未だにない。10回連続も怪しい。左で打ち抜けても次の右打ちで失敗したり、その逆になったりします。たまにしか成功しない程度の精度なわけではないけれど、今日はけっこうミスって、ムキになってやったらさらにミスって、イヤな気分になりました(笑)。
もしも1インチパンチに相当の威力があったとしても、百発百中で出来ないのなら、なんの意味もない。 たとえば相手のいる格闘技のシビアな一発勝負で、そんなミスパンチを放ったなら、こないだの井上選手みたいなカウンターを喰らってオダブツである(笑)。そこで『本来のパンチが打てませんでした…』なんて、言い訳にもならない。
ところで『修行』という文字をよく見てみれば、行いを修める とある。
これは私が修行という言葉から抱くネガティブなイメージとは逆である。行いを修める。つまり、あくせくとなにかしらの行為をしつづけることではないことを示している。
私は『人生は死ぬまで修行』とかいう考えなど、とても受け入れられません。んなもんあり得ない。
けれど、文字通りの意味で修行とは『経験の輪を閉じてゆく』ことであるならば。まったく印象はちがうものになる。
それは特に変わった行いをするとかしないとかいうんじゃなくて、ナニカに達するための訓練をするとかじゃなくて、、、いちいちを全うするということ。修了することである。
インネンをあとに残さないことであります。
今日の私は、ネコが猫じゃらしに夢中になってるようだった。でも因縁が残った(笑)。