決着をつけることと、あきらめることは、同時。時間差は無いです
次回予定『主客の転換、合同』
中心軸は自分軸とはちがうよな。
変な夢を見て目が覚めた。が、続きが見たい。のでまたこれから横になる。
大和心ですとか大和魂という言葉はありますが、出雲心、出雲魂とは聞いたことが無いですね。
さて、私は今の仕事場に通い出してからのち数ヶ月前までの間、頭痛がちになってしまっていました。けっこうなキツさになったある日、私は、つい、
『ごめんなさい』と謝りました。
謝罪したのは、私の『心』です
謝罪を受けたのは、私の『体』です。
それからといえば、頻繁な頭痛は無くなりました。 ですけれども、私が体に謝った という言い方は適切ではありません。
『心』は自己そのものではない。心が浴びる太陽のほうが自己である。
心と体を和解させたのは太陽である。
エヴァ2号機の、コード777 ってあるじゃないですかー。リミッターが外れて暴走するみたいなの。
野口整体の活元運動も、ちょっとしたコード777だとおもうんですよー。『リミッター外し』だとおもうんですよー。
けれども、活元でリミッターを外したらビースト化するのかといえばそんなことはないが、ビーストっぽくなることはある。。心身のアクを放出するからだ。それは放出作業中の姿であるから、その人の本性というわけではない。
脱力ワークをするうえで、心と体のどちらからアプローチしたらよいか。どっちでもよい。『同じ』だからだ。人は体が傷つくのを恐れるのと同じように、心が傷つくのを恐れる。だからそれらを守ろうとする。つまり自分を守ろうとする。が、
勘違いしてはならない。心は、
イシキではない。
つづく
仙人ってのは、どエロな人達なんじゃないかとおもいます。仙術ってのは、至高のオナ……
いやちと違うな
正坐で得られる快楽は、『自慰』によるものではない。自分を慰めるのではなく、ジシンとまぐわっているのです。 これは単なる言葉のアヤでは無しに、ほんとうにまぐわうのです。ほんとうにキモチがよく、ほんとうに苦行でも修行でもなんでもないのです。『どのように坐るのが正解か』なんてことを、自身の快が何にもないところから考えても、しょうがないのである。
こないだ珍しく、軽いギックリ腰になりました。キネシオテーピングと自己整復法で、2日位で治りましたが、痛みのある渦中でも、姿勢を決めきった時だけは、痛みが無く、それどころか快感に見舞われていました。
生きているかぎりはいろいろある。ある一点に没入したままではいられない。だけれども、揺るぎないある一点があることを知るならば、揺らいだとてそれもまた一興、なのです。