『私』という感覚つまりそれは自我意識のことであるけれども、『私』は、遅いものです。
リアルタイムが過ぎ去ったあとに訪れる意識である。
その『私』が思考することや行うことは、すべからく、遅きに失したものである。遅くやってきた其れを自己の中枢に据え置くならば、経験の輪は閉じられることもなく、生は苦悩や欲望のエンドレスループにもっていかれる。終われないのです。
『私』という過去の追想は、ほんとうならば人生の主人公には成り得ないのです。そしてそのようなウソくさい人生を辞めることは、リアルタイムで、リアルタイムでこそできるのである。
太極拳の最初の動作あるじゃん。起勢って言ったっけ?開太極だっけ?あの上体の動作を、椅子に腰掛けてやってるんです。強健術風味にね。腕を ゆらぁ と上げるとき、腰を入れる。下げるとき、腰腹をキメる。
立ち姿勢でも、そのようにやります。体はかなり沈めます。
腕を上げたときは身体が地球にグイーと引っ張られる。下げるときは、天に吊されるかの如く。そうしてハラが満ちると、カカトをドスンと地面に叩きつけたくなるような欲求が生じます。満ちたエネルギーを放出したいのだよ。
ほんとうのチカラを得たなら、それに執着などしない。執着していられないんだ。
何も持たず、去る。おれのほんとうのねがい。
こないだバランスボールを買った。
バランスボールに乗る、とは。
ボールの上で深層筋でバランスをとる。…て、いうより、下丹田の下にまた丹田を有したシンタイが、地面に立つのです。身体とバランスボールを分けて捉えるのではないのです。剣術なども、同じことなんでないかな。
で、ひとしきりボールに乗ったあと、スと立ちあがれば、その体感ときたら、、
やればわかるさ。迷わずやれよ。