夢うつつの状態にあるときに前世の記憶が蘇ることがあるそうなのです。眠りに落ちる直前か、あるいは目が覚めるあたりの薄ぼんやりとした心地の良い一時ですね。前世療法で用いられている退行催眠が、まさにこういう状態を言うのではないでしょうか。

私はこの夢うつつの状態にあるときに、恐らくは前世の記憶と思われる数々の風景を見たことがありました。それは夢とは違うもので、ああ知っている、ああ懐かしいと認識できるものです。判然としない、ともすれば嘘のように忘れてしまう夢とは違い、目が覚めてからもはっきりと記憶しています。

実はここ最近、新たにそれらしい風景を見ました。教会で、右側最前列から祭壇を見ているものです。窓からは陽光が射し込んでいて、温かく、とても穏やかで、心静かに何かを祈っているようでした。

大聖堂のような大きな教会ではなくて、天井がそんなに高くない、わりと小さな教会であるように感じました。なにせ一部分しか見えなかったので果たしてどこの国なのか、いつの時代なのか、その教会が如何なる様式の建築であるのかはとても判断がつくものではありません。

強いてイメージを説明するならば写真のような感じでした。非常に近いですね。祭壇は盛られて派手でしたけれど。自分が座っているらしい場所からは祭壇がとても近く、祭壇のすぐ横には写真のように陽光が射し込んでいる窓がありました。とても美しいものでした。

函館に行ったときにカトリック元町教会と、ハリストス正教会に入ったんですけれども、それを機に自分の中で何かが刺激されたのかも知れない。

まあ、果たして今回見た謎の風景が前世の記憶であるのかどうかは定かではないにしても、もし前世の記憶であるとするならば、遠い昔の自分も、今の自分も、同じような性格を持って同じような生き方をしているのかも知れないですね。

私の魂は信仰心のもとにあって、それが無ければ健全には生きてはゆけないのだと思います。今の自分が日常的にお寺を拠り所としているように、遠い昔の自分も日常的に教会を拠り所としていたのでしょうか。最前列に座っていましたので、なかなか熱心だったに違いない。

今の自分を支配しているのは何も「彼ひとり」だけではないのであって、多くの前世が関わっているのだと、そう感じました。

その昔は、主に西洋の歴史に関心を持っておりました。ずっと教会の写真を眺めていたり、それらしい音楽を聞きながらボーッとするのがとても好きだった若かれし頃の自分。いやあ、実に幸せでしたね。