2016年最後の日記

二十代で過ごす最後の正月となります。

現在の心境は、百の言葉も一念には敵わない、といったところでしょうか。

今年も一年、日記を読んでくださった読者の皆さまに感謝をしております。皆さま、どうか良いお年をお過ごしください。

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

短歌

兵あまた

死なせし業の苦しさに

気骨も失せて

くらげと漂う


(山形歩兵第三十二連隊
第一大隊長 伊東孝一)

真田丸を見終えて

「真田丸」が終わり、どこか寂しさを感じています。

もともと日本史が苦手で、自分にはこのジャンルに触れる機会は生涯無いだろうと思っていたんですけれども、恋人が戦国時代に関心がある人で、彼と一緒にこの真田丸を見るようになってからというもの、自らも過去の大河ドラマを掘り返して見るようになりました。

現在は、過去「天地人」と並行して、韓国時代劇ドラマ「チャン・ヒビン」を見ているところです。

今年は、真田丸特集の番組が多く見られました。先日もそれらしい番組が放送されておりましたけれども、感服したのは真田の歴史云々についてのことよりも、それらの発掘、研究に打ち込んでいる人間たちの熱い思いでした。

今の自分には、それが・・・少しだけ理解できる気がするのです。

自覚

今日は日曜出勤の代休でした。近頃、またお寺に行きたくて体がムズムズしておりましたので、今日は水子参りを兼ねてお寺に行ってまいったのです。参道の松の木も、冬の装いでした。

これは偶然なのかは分からないのですが、実に水子供養を行ったのも、2年前のちょうど同じ日だったのです。どこか水子さんに呼ばれていたのかなあ、という気がしてなりませんでした。

流産をしてから水子供養をおこなうまでの間には、およそ5年の空白がありました。どこか気持ちに区切りがつかず、先延ばしにしていたためです。

不思議なもので、供養をおこない、こうして定期的に水子参りに赴くたびに、どこか「母親」であるという自覚が増してくるように思えるのです。

生身をこの手で抱くことは無かったんだけれども、腹に命が宿ったことは事実。腹に命が宿れば、その女は一人の母親である。今日は、いつになくそれを強く感じたのでした。

そういう意味でも、やはり水子供養をおこなって良かったと思っています。よく、水子の祟りを恐れるがゆえに供養を行う人たちもおりますけれども、あれは少し違うような気もしますね。供養は真心でおこなうものですから、そういった邪念があるのでは天に届くものも届かないのではないかと。

この子のためにも恥じぬ生き方をしたいと思った、そんな一日でした。
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プロフィール
ギルドさんのプロフィール
性 別 女性
年 齢 36
地 域 青森県
系 統 普通系