*天皇陛下

2012年5月。

私は神風特攻隊について学ぶべく、鹿児島県の知覧に出かけた。多くの少年、青年飛行兵が、この知覧から沖縄へと飛び立った。国のため、天皇陛下のために殉ずることが誉れであるという当時の教育が、多くの若い、尊い命を奪ったのだ。

亡き隊員らの遺影と血書とを見て歩いているうちに、どうにも虚しさが込み上げてくるのを感じた。

(天皇陛下とは、それほどに偉いものだったのだろうか)

私はそこで、ふと自分は昔から天皇という存在に嫌悪感を抱いていたことを思い出した。それゆえに、それが中心である日本史も嫌いであったのだ。

テレビで皇族一家が崇められている様子を見ようものなら、どことなく気分が悪くることが度々あった。

知覧特攻観音へと通じる並木の参道は、歩く者の心を引き締めるように感じられた。心して進めよと、声なき声が風に紛れて聞こえてくるようであった。あの参道で感じた寂しさと切なさは、未だ私の心肝を掴んで離さないのである。





この年の下半期、私は当時交際をしていた恋人とどうしても反りが合わず、半ば逃げるようにして別れた。時に、25歳であった。

まさに結婚と出産の適齢期で、周囲の同級生たちも続々と結婚、また出産を経ていた頃でもあった。先のことを思えば、そう簡単には彼から離れることが出来ない。けれども、ストレスで心身に歪みが出ていて限界を感じていた。

そんな何とも煩わしい日々が続いたので、しばらくは自分ごとは何も手に付かない状態であった。あとに、とある女性先輩から、「自分が幸せにならなければ、人を幸せにすることも出来ない」と言われ、その言葉に動かされた私は、ようやく迷いに終止符を打つことが出来たのであった。





*BEGIN

年の暮れ、私は何かを思い出したように無性に沖縄の音楽が聴きたくなった。ツタヤに行ってBEGINのCDをレンタルする。

するとどういうわけか、そのBEGINが沖縄から遥々とこちら地元にやって来るという、まさかのタイミングが重なったのである。これはタダ事ではないと感じた。

日時はあくる年の1月であった。私は迷わずライブのチケットを購入し、その日を待った。

大晦日も目前になると、仕事は多忙を極めた。破局から、晴れて自由の身となったことで心身ともに調子を戻しつつあった私は、いよいよ本格的に沖縄戦について調べてみようと思い立ち、手始めに沖縄戦の記録写真集を1冊購入した。

自らの運命とも言える、まさにその時が迫っていた。





*運命

2013年、正月。

たまたま閲覧していたウェブページのリンク先で、「沖縄戦没者遺骨収集活動」という一文が目についた。時はちょうど、いよいよ本格的に沖縄戦について調べるべく、記録写真集を購入して読んでいた頃であった。

どうしてか私は、何かに呼ばれているような気がした。気がつけば一心不乱に活動を行っている団体を調べ始めていた。 間もなく、ひとつ気になった団体に問い合わせてみる。

なんと次回の活動は早くも翌2月であるとのこと。参加は出来るのかと問われ、私は出来ると答えてしまった。

そう答えてしまったものの、自然を相手にするこの活動には危険が伴うことは素人の私でも分かっていた。何より、人骨に触れるのである。単なる趣味のうちとはワケが違うのだ。

もはや自分ひとりの問題ではない。第一に家族の、母親の了承を得なくてはならなかった。とても言えなかった。しかし時間が無い。

(ど・・・どうしよう)

新年早々、私は頭を抱えることになってしまったのである。

いざ、意を決して家族にそれを伝えても、まともに話を聞いてはもらえなかった。予想はしていた。

母親は口論の末に頭を抱えた。弟からは「頭がおかしい」と言われた。しかし、どんなに否定をされようとも行くのを断念しようとは思わなかった。ただ、運命を感じていたのだ。

「それでは、那覇でお会いしましょう」

翌2月、私は一人、再び沖縄へと飛び立った。





*記憶

ところで私には1つ気になっていたことがあった。どこか中国らしい風景の記憶を持ち合わせていることである。それも電柱が並んでいる、そう遠い時代のものではない風景だ。

自らの前世が、仮に沖縄戦で亡くなった一兵士であったとするならば、間違いなく私は日本兵であったと思うのだ。

どうにもアメリカが苦手に思えてならなかったのは、当時アメリカが最大の敵であったからだ。ドイツに関心を抱いてやまなかったのは、当時の日本はドイツと同盟を結んでいたからだ。どれも、うまい具合につじつまが合う。

何より、私の中にはずっと、在りし日の日本の風景を懐かしむ心があった。

しかし、それならば中国にはいったい何の縁があったのか。それとも、私の思い違いであったのか。





*山形歩兵第三十二連隊

遺骨収集活動から数カ月後。 ゴールデンウィークも間近であった。私は無性に山形県に行きたくなって、このたびの連休を利用して、どうにか行けないものかと思惑をめぐらせていた。

まさに中学の頃からの憧れであった山形である。行ったあかつきには必ずや「おしん」さながらに最上川を下ってやる、そう意気込んで、ひとり笑みを浮かべていた。

ある日のこと。私は沖縄戦について調べるべく図書館に来ていた。1冊を手に取って席に落ち着く。本を開いて数ページをパラパラと捲っていた時であった。 「山形歩兵第三十二連隊」という部隊名が目に飛び込んできたのだ。

私は凍りついたように、その部隊名から目が離せなくなってしまった。時は、まさに自らも山形に行こうとしていた頃である。これは偶然か、それとも必然か。

「山形に行こう」

私は、連休を利用して山形に出かけた。


青年期C