夕方、へっこらと帰宅をして玄関ドアの鍵を開けていたときに、ふたつ隣りの部屋から女住人と、そして男が出てきたのです。以前と男が違っていたので、思わず二度見をしてしまいました。

その部屋の住人は二十代前半と思しき若く、可愛いらしい女性です。台所でご飯の支度をしていると、たまに外の廊下から声が聞こえてくることがあります。それも会話の内容までしっかりと。「大好きだよ」と男。「ねえ、もう一回言って?」と女。「大好きだよ」と男。

まあ、慕い合う男女たるもの熱いに越したことはない。ただ、こちら殿方は口が裂けても、逆さに吊るしたとしても「好きだよ」なんて言う人ではありませんので、目も当てられないくらいにアツアツな彼らを少し羨ましく思う。

先日、職場の女後輩から休日は何をして過ごしているのかと尋ねられ、私は答えに困ってしまいました。私はこのような質問をされることが苦手なのです。だって、特に人に紹介できるような過ごし方をしているわけでもないですし、というか、べつにどうでも良いではないかと。

他人の休日の過ごし方なんて特に気にしたこともない私は、逆に尋ねたこともありません。とりあえず、「好きなことをして過ごしている」と言って逃れましたけれど。

休日は、恋人と会う約束が無いときは家で映画やドラマを見てゴロゴロするか、海とか山の方面へ出向いて読書に耽るなどして大半を過ごしています。ひとり、色々なことを考えながら物思いに耽るのが好きなので、このようなパターンに固まってしまいました。

方やその女後輩には、恋人がいて、たくさんの友人もいて、休日とあらば家にいる事はまず無いらしい。イマドキの言葉でいうところの「リア充」ですね。朝から晩まで、歩くときでもスマホを手放さないという徹底ぶりで、また社内の公共カレンダーにまでプライベートの予定を絵で描き表したりなどしています。

手帳とか持っていないのだろうか。一見、予定が無さそうな私でさえ持っているのに・・・

それとも、もしやそこまでして自分が「リア充」であることを他人に知って欲しいのか。だとすれば、きっと心が満ちていないのでしょう。

彼女の場合、他人に休日の過ごし方を尋ねるのもそうした心理から来るものなのかも知れません。満足のいく答えが返ってくれば、自分がいかに充実しているのかを実感し、安心するのではあるまいか。

私はどうも、人脈に富んだ賑やかな暮らしを送ることが美徳であるという風潮が流れる現代に、疑問と生きづらさを感じることがあります。時代の背景と、自己の内面との差に悩むときがある。自分がおかしいのではないかと。

しかし、こればかりは悩んだところでどうにもなりませんし、また、おかしい事でもないのです。皆さん等しく「自由な時間」を持っているんだけれども、その使い方が、それぞれで違うというだけのこと。

それぞれが何かを学び、悟りながら生きているのですが、それを誰かと分かち合うことに意義を見出すのか、あるいは、ひとり自分の内面と向き合うことに意義を見出すのか、極端に言えばその違いなんですよ。

どちらとも違った味わいがあって素晴らしいと思います。どちらが正しい、間違っている、というものは無い。

ただ、上記の女後輩を見ていると、何だか可哀想に思えてくるのです。何がどうとか上手くは言えないのですが、きっと寂しい人なのだと。心の充実とは、やはり目には見えないものなのでしょうか。