2011年3月11日、午後2時46分。

仕事中に突如と大きな揺れに襲われた。東日本大震災であった。

町々は停電し、信号機も機能しない中での帰宅を余儀なくされた。私は、弟が近くの専門学校に通っていたので、まずは弟を迎えに行かなければならなかった。 そこでしばらく足止めを食らうことになったのだが、それが後に幸いとなる。

母親の安否が気になって電話をした。一度だけ繋がったので話すことが出来たが、以降は繋がらなくなってしまった。 私は動揺をしていてハンドルも握れなかったので、運転は弟に変わってもらった。

大通りには出るまでもやっとであったが、出てからが更に困難を極めるものであった。信号機が機能しないので、皆々が我れ先に行こうとする。

ふと、いつもの帰宅路を曲がろうとしたその時であった。目先にうっすらと白い波が見えた。津波が来ていた。気は急いても、先まで続く渋滞で車が進まない。

命からがら自宅に帰ることが出来た時には夕刻であった。そこで既に待機をしていた母親と無事に再会を果たすことが出来たのは何よりであった。

私たち親子3人は、近くに住む親戚の家に身を寄せた。日夜、余震はおさまらず、夜も眠ることが出来ない。体が頻りに震えていたが、寒さで震えているのか、恐怖で震えているのかが自分でも分からなかった。

次の余震で屋根が落ちてくるのではないかとか、津波で職場が流されたら先々の暮らしはどうなるのだろうとか、そんなことばかりを考えていた。

ラジオから聞こえてくるのは相次ぐ地震速報と、津波による被害状況である。とある町は壊滅にまで至り、死者、行方不明者が百、千と、そして万を超えた。

電気が復旧するまでには2日ほどかかった。死を意識した2日間であった。震災以降、しばらくは何をしていても、どこにいても常に心ここに在らずの様であった。生きていることが、どこか不思議に思えたのである。





*前世

「あなたは前世で戦争に参加していたんだよ」

ある日、突如と職場に入社をしてきた中年の女性、T氏に言われた言葉であった。彼女は霊感というものが強いという。オーラの色であるとか 、時には前世が見えることもあるそうだ。

私は彼女を疑い、彼女の言うことを大して信じてはいなかったのだが、あとにR氏から、私たちは前世でも会っていたらしいという話を聞かされたことをきっかけに、少しずつT氏の言葉に耳を傾けるようになった。





*日本神話のふるさと

震災から数カ月を経た、真夏のある日のこと。私は、人生で初めての大がかりな1人旅に出かけた。行き先は日本神話のふるさと、島根県の出雲であった。幼い頃に好きで見ていた「ブルー・シード」というアニメに再び燃え上がったことがきっかけであった。

旅の終わり。惜しみを殺して出雲空港へと向かう途中で、私はふと、次に行くかも知れない旅先のことを考えた。真っ先に脳裏に浮かんだのは沖縄であった。

(沖縄に行きたいなあ)

しかし私は頭をもたげた。沖縄へは1人で行ける気がしなかったのである。車の必要性を感じていたからだ。土地勘が全く無いところで運転をする勇気が私には無かった。

旅行に行くことは誰にも告げてはいなかったが、行ったからには親しい方々に土産物は買っていた。

とりあえず出雲名物の菓子をR氏に手渡すと、彼女はなぜか驚いた表情を見せる。私が出雲に行っている間に、T氏から「あなたは出雲大社に行った方が良い」と言われたというのである。私は身震いをした。





*帰るべき場所

私とR氏が、前世では戦友であったことを知らされたのは、出雲から帰ってから間もなくのことであった。戦地は沖縄であったという。そして、そこで亡くなったそうなのだ 。

いまいち実感が湧いてこなかった。

しかし一方で、それまでの自身を振り返れば思い当たる節が多分にあったのは確かである。否むことも、また出来なかった。自分の中にあれほどのシグナルがあったにも関わらず、それまで何ら疑いもしなかったのが、むしろ不思議なくらいであったのだ。

縁というものは実に不思議なもので、間もなく私はR氏とともに、R氏の生まれ故郷でもある沖縄へと旅立つことになった。時に、24歳。

高校時代に悔やみの思いから立てた、大人になったら沖縄に行くという目標は、 あとに想像すら出来ない妙な形で達成されることになったのである。

私たちは沖縄への旅に向けて、某牛丼店の角席で、観光雑誌を間に挟んでの計画を立て始めた。R氏は嘉手納市の生まれで、祖母の家が読谷村にあるという。日程は彼女の故郷である嘉手納、読谷を拠点にして組んでいくことになった。

観光雑誌を何気なく捲っていると、ふと「恩納村」のところで手が止まる。

「あ、おんなそん・・・」

そう呟いたのは、なぜか私であった。そのとき初めて目にした地名であったにも関わらず、迷うことなくそう読んだのだ。不可思議であった。以前からこの地名を知っていたように思えたからである。

「え、恩納村のこと知ってるの?」

R氏も不思議そうな顔をした。私は否定した。

震災の年の暮れに、私たちは沖縄へと旅立った。那覇空港を出た私たちを迎えたのは、独特の湿気をふくんだ生ぬるい南国の風であった。時は12月。地元では雪景色で路面が凍結までしているというのに、ここでは暖かく深緑が生い茂っているではないか。

空を見上げれば、重苦しい曇天であった。私は、なにかを思い出した。幼い頃にどこかで感じていた、あの懐かしい匂いによく似ていた。


青年期B