ある法話会で、瀬戸内寂聴さんは言った。不幸も幸せも長くは続かない、苦しい時は次に訪れるであろう幸せを楽しみに、幸せである時はやがて訪れるであろう苦しみを覚悟しておく、だから死にたくなっても頑張って生きなさい、と。

私はそのとき、寂聴さんの法話にどこか救われたような気がしたのである。体の底から得体の知れないパワーが湧き出てくるのを感じた。もう一度頑張ってみよう、そう思った。





*出会い

長らく続いた自暴自棄にようやく終止符を打つべく、とある会社に入社をしたのは20歳の頃であった。

その後に及んでも尚、自分という人間の存在理由は相変わらず分からないままで、また悶々と考える日々であった。私は自らの日常を酷く冴えない、つまらないものと思っていた。こうしている間にも、時は一刻と過ぎていくのだ。

単に若さゆえではない。ひとりの人間として悔いのない人生を送りたいと思っていた。魂に刻まれるほどの一大革命を、いつも心のどこかで待ち望んでいた。

そんな、ある日のことであった。私はここで、自分と顔が似ている女性、R氏に出会った。R氏は沖縄県の生まれで、私よりも4つ年上である。

顔が似ていると思っていたのは自分だけではなかったようで、周囲からも彼女と間違われることが度々あった。私は彼女のことが気になって、いちど話してみたいと思うようになった。

そう思っていたある日、たまたま作業で彼女と組むことがあって、話すチャンスが訪れた。第一に、初めて話したにも関わらず不思議と初めてのような気がしなかったのである。

彼女は私のことを同じ沖縄の生まれだと思っていたらしい。私の苗字が、たまたま沖縄に多いものであることが理由であった。

話しているうちに、ものの好みなど共通しているところが異様に多いことが分かり、更に関心は深まった。彼女とは何か縁があるのかも知れないと、自ずとそう感じた。





*転換

戦争とは関係なく、どうにも大正、昭和という時代に心惹かれて、当時の暮らしや風俗を写した白黒の写真集を見つけては手に取るようになっていた、ある日のことであった。

両親の離婚後、一度と行っていなかった父方の先祖のお墓参りに改めて行こうと思い立ったのだ。時に、22歳。

幼い頃の記憶はまちまちで、お墓にはそのときに初めて訪れたような気さえしていた。

墓石には大きく「故陸軍歩兵曹長●●●之墓」と、その一文の筆頭には、日章旗と旭日旗とが交差したものが刻まれていた。

墓誌を見れば、曾祖父らしい人物の名前の傍らに、昭和14年に中国の河北省慶雲県というところで亡くなっていることの旨が書かれていたから、日中戦争で戦死していることを悟った。

少しずつ芽生え始めていた、在りし日の日本の姿を追い求める心と、曾祖父のことが重なったとき、私の中で何かが大きく動き出した。

関心の主はドイツから日本に転換し、私は曾祖父の足跡を追及するべく旧日本帝国陸軍について調べるようになった。

旧日本帝国陸軍について学ぶようになると、なぜかそれと並行して仏教学についても知識を深めてみたくなった。

元々、母方の祖母の影響で毎日仏壇に向かって経を唱えることが学生の頃から当たり前の日課とはなっていたものの、供養とは何なのか、成仏とは何なのか、より具体的に学びたいと強く思うようになったのである。

日々これらを学ぶようになると、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。何かひとつのものを追求していくことに生き甲斐を見いだしたのだ。





*もうひとりの自分

ある夏の日の出来事であった。私は世にも不思議な体験をする。

夕方、帰宅をした私は居間の窓を勢いよく開いた。西日の橙色が眩しいくらいに射し込んでくる。

あたりには草木が生い茂り、その匂いと、また土の匂いとが漂い、その中を近所の子供たちが声をあげて元気に走り回っていた。

それを微笑ましく見ていた時であった。突然、頭の中に鮮明な風景が広がり始めたのである。畑、砂利道、校庭、工場、錆びた煙突。どれも身に覚えが無い風景であった。にも関わらず、それはあまりに懐かしいのだ。

私は窓の縁に手をかけたきり、しばらく身動きが出来なくなってしまった。動いたら途端に覚めてしまうような気がしたからだ。

私の心は懐かしさでいっぱいになった。それに満たされると、どうしてか「帰りたい」という切なる思いが湧き起こってくるのを感じた。それはやがて、帰郷を懇願するものへと変わっていく。

(帰りたい、お願いだから帰らせて欲しい)

自分の中で、何かが叫びをあげた。そのとき私は、はじめて自分の中に、自分さえ知らない全くべつの誰かが共に息づいていることを強く意識したのである。

しかしながら、どこへ帰れば良いのかが分からないのでは、どうしようもなかった。

あの人が職場に入社をしてきたのは、そんな時である。


青年期A