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キム・ジョンウンの髪形は、どうにかならないのか?

函館旅行

先週金曜から家族で2泊3日の函館旅行に行ってまいりました。

函館には小学時代に修学旅行で行ったきりで、当時の記憶はほとんど残っておりませんし、だから初めて行ったも同じでしたね。夜景も見事でしたし、2日目に行ったトラピスチヌ修道院や、教会群もとても素晴らしかったです。

しかしそれよりも衝撃を受けたのがハンバーガー店の「ラッキーピエロ」でした。安くて美味しくてボリュームがある。2日とも行きました。是非こちら本州にも出店して欲しいと切望していますが、道南地方の名物とされているだけに、だから良いのかなとも思う。

旅中の3日間は調子に乗って高カロリーのものを食べまくり、飲みまくりました。念のため今日まで休みを取っていたのですが、その暴飲暴食が祟ったのか胃を患ってしまい、今日は一日の大半を寝て過ごしたという悲劇。

今回の旅行は私が言い出したもので、日ごろの両親への感謝の思いと、また祖母のことで母親も酷く冴えない日々を送っておりましたので、私が家族分の宿泊費と交通費を負担するという条件で無理にでも連れ出したような感じでした。

母親は昔から北海道が好きでして、行くならどこに行きたいかと尋ねると、ほぼ北海道と答えます。母親いわく、南方に行けば体調を崩すが、北方では不思議とそういうことが無いんだそうです。彼女自身にしか分からない体のサイクルというものがあるのでしょう。

母親を外に出して元気づけたかったのと、来年3月にいよいよ49年の仕事人生に終止符を打ちます義理の父親を労いたかったのと、今月初旬に誕生日を迎えた弟を祝いたかったのと、また自身も外の空気が吸いたかったのとで、家族旅行に行くなら今が一番良いタイミングであると思いました。

母親も楽しそうに、あっちを見て、こっちを見て歩き回っておりました。元々少し子供っぽいところがありまして、誰かが手を引っ張って歩かないとすぐ迷子になるような感じの人なんです。好きなキャラクターはアンパンマンらしい。

私は祖母が亡くなってからしばらく、生前にもっとああしてやれば良かった、こうしてやれば良かったと後悔の念を抱いて日々を過ごしておりました。

そんな心持ちで仏壇に手を合わせていたある日、「そのぶん母親を大切にするべきだ」と考えが改まるようになりまして、以来、祖母に対して後悔の念を抱くことは全くではありませんが、ほぼ無くなったんです。きっと祖母からのメッセージであったと思っています。

単純に、次は自分の番なのです。先に死ぬようなことがない限りは、次は自分が母親の死を見なければなりません。私は函館の夜景を見ながら、母親も、義理の父親も、弟も、そして自分自身もいつかは死ぬのだと、だからこそ生きている時間を大切にしていかなければならないのだと、そんなことを考えていました。

改めて、祖母の死は私に大切なことを教えてくれましたし、気づかせてくれました。



さて今回行った北海道でありますが、沖縄戦で亡くなった日本兵の多くが実は北海道の出身者であったという事実を知りまして、現在はそれについて更に追及をしているところでもありました。

部隊については本当に複雑で探れば探るだけ分からなくなっていくのですが、特に思い入れが深い山形歩兵第32連隊も、山形出身者より北海道出身者の方が多かったそう。

兵員の召集は主に函館、旭川、釧路で行われていたようです。釧路と言えば、日中戦争で戦死した父方の曾祖父も釧路で召集を受けて中国に送られたそうであるから、それも踏まえて今後の更なる追及に挑んでいきたいと思います。

父方の本家は茨城にありますから、てっきり曾祖父は茨城で召集されたものとばかり思っていたのですけれど、次男であったため、家は長男に任せて自分は遠く離れた釧路で漁師をして暮らしていました。そこで曾祖母と出会い、やがて召集されたのだそうです。

いつか、旭川と釧路にも行ってみたいですね。

大人の階段を、また一段

先月の社内で起きた車同士の衝突事故。あれから相手が会社を辞めてしまいまして。契約社員として雇用されていた人でありましたけれど、とにかく日ごろから欠勤が多かったそうで、だから辞職であったのか、それとも解雇であったのかは分かりません。

あの事故は相手が悪かったのですし、私が気にすることは何も無いのですが、このタイミングで会社を退かれてしまうと何だか気になるんですよね。後味が悪いというのか、すっきりしないです。



先日、R氏に付き添っていただいて人生初であるバーに行ってみました。R氏というのは職場の4つ年上の女先輩であります。

行ったバーというのが、高校時代に職員室で先生同士が「じゃあ今夜○○で待ち合わせね」と言っていた店の名前と偶然にも同じでありました。看板を見てすぐに「あ!」と思い出しまして。確かに通っていた高校から随分と近かった。案外どうでもいい出来事が記憶に残っていたりするものですね。

バーではカクテルを2杯とジントニックを1杯飲みました。その前に沖縄料理店で泡盛を2杯飲んでいたから自分では結構な量を飲んだ気分でいたんですけれど、気分とは裏腹にほとんど酔わなくて。どうせならもっとヘロヘロに酔い潰れたかったなあ、なんて。

この年になってバーに行くのが初めてとは我ながら少し恥ずかしい気もするのですが、何せ、これまでそういった洒落た場所に縁も無ければ、自身もまったく興味が無かったんです。最近になってようやく「そういえば、行ってみたいなあ〜」と思うようになったんですよ。

また一つ大人の階段を上ったような気がしています。たぶん、そのうち一人でも飲みに行くようになるかも分かりません。

先日、弟が誕生日を迎え25歳になりました。前日の晩から彼女と外泊なんかしちゃっていたらしいです。若いって良いですね(笑)

自分の頃は、ちょうど鹿児島県の知覧にいましたっけ。当時ケータイの待ち受けにしていた特攻隊員の出撃日と、自分の誕生日が偶然にも同じであったものですから、知覧に行くのは誕生日だと定めていました。

隊員らの遺影と血書と、多くが出撃前に故郷に別れを告げるべく振り返り見たと伝えられている開聞岳を見て、「ああ、ここから沖縄に飛び立って行ったんだなあ」とか、まあ複雑な心境で手持ちのノートに色々とメモ書きをしながら歩いていたのですが、どうしてか心は疑いもなく安らいでいたのを覚えています。

少し言葉が悪いかも知れません。きっと、自分はそういう場所を歩くのが好きなのだと思います。声なき声が聞こえてくるようで。母親と別れるのは本当に苦しかったろう。



昨日、帰宅をしたら玄関に飲食品が詰め込まれた袋が置いてありました。母親が部屋の合鍵を持っていますので「ああ、お母さんだなあ」と。

朝に、ストーブの灯油が空で音楽が鳴っていましたから、家に帰ったら灯油を詰めなければならないなあ、面倒くさいなあと思いながら車を走らせていました。その灯油も詰められていて、なんだか思わず泣けてきたんですよね。真面目に泣きました。

「こういうのテレビで見たことあるわあ」と思いながら涙を拭ってですね。

本当、家を出るまでは母親の偉大さは分かりませんでした。少なくとも分かったような気でいたのです。これで自分も子供を持って母親にでもなれば更に分かることも多くあるんだろうけれど、今でも十分に思い知らされていますね。

何か苦しいことがあって行き詰まりを感じたときに、決まって自分のことを生きる価値が無いダメ人間だといって卑下にしてしまうんですけれども、我に返って頭を冷やせば、やはり母親に申し訳ないと思いますよ。

誰彼も皆さんそれぞれ同じことを思っていることでしょうが、自分の母親がどこよりも一番の母親です。そう素直に思えるような母親に育てられたこと自体が、まず人としての第一財産だと思うんです。

母親は、「なんでお前と離れて暮らさなければならないんだべえ、お前が家を出るのは嫁に行くときだと思っていたのによ〜」と、たまに嘆いたりしていますが、私は自分のためにも、やはり出て正解であったと思っています。

実はこの数日、恋人に対して募らせていた不安と不満が爆発してしまい、ことに昨日は酷かったんですよ。

彼はだいぶ年上で、仕事が忙しい人なんですよね。とりあえず連絡は取り合っていても、そう頻繁には会えないという。そうなれば女は不安と不満を感じるようになり、一人で狂い出すじゃないですか。

前進する気力が無い、かと言って諦めて後退する勇気も無い。同じ境遇にある女性なら分かると思うんです、この答えが出ない迷いの苦しいこと。昨晩はそれでなかなか眠れなくて、深夜2時頃に酒に頼ってようやく眠りについた感じでした。

心の中は荒れ放題。同じく外も台風の真っ最中で荒れ放題でした。もう風が凄くて凄くて。

前進も後退もできないなら一体どうすれば良いのか。ただじっとしているしかありません。心の中の台風が通り過ぎていくのを静かに待つしかないのです。晴れれば川の水のように人の心も透明に戻りますから、また冷静に考えられるようになるのではないかと。たぶん。

とりあえず、まだ完全に立ち直れていないから何とも言えないんですけれどね。
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ギルドさんのプロフィール
性 別 女性
年 齢 36
地 域 青森県
系 統 普通系