私の日常は、相変わらず地味で冴えない。目立って華やかではないから、とりあえずそう呼んでいる。

地味で冴えない日常こそが今ある自らの生きるべき人生であるとしたならば、私は、奴隷として売られることもなく、人種差別を受けることもなく、何より戦争に行かなくても良いこの人生を、ありがたく、心静かに生きたいと思うのだ。

私は、今ある自分がとても好きだ。目指したわけではなかったが、なれて良かったと思っている。

現在は、恋人の影響を受けて関心がもっぱら日本史に偏っている。あれほど苦手であった日本史だ。皮肉なもので、今では京都と大阪に行ってみたいと密かに思っているのである。

恋人が特に好んでいる戦国時代をはじめ、最近では互いに会津藩史にも関心を深めている。互いの先祖が、共にこの会津の地に縁を持っている可能性があるからだ。

また、会津藩あらためる斗南藩が、わが青森の南部地方に非常に深い関わりを持っていることから、そこに生きている者としての意識も多分にある。





「前世」は誰にでもある。そしてそれは一つや二つではないという。実に、私は沖縄で戦死した人生のほかに、バリ島かグアム島で生きていた人生もあったそうなのである。

また、いつの時代なのか、どこの国なのかは判断がつかないが、それほど大きくはない教会で祭壇を前に心静かに何かを祈っているような映像や、どこか高貴な身分の住まいらしい屋敷の映像が見えたこともあった。いずれも、それら風景から西洋諸国のどこかではあるまいか、という印象を受けた。

このように、前世は一つや二つではないのだ。この人生をより快適に生きていくために最も知るべきであったのが、今回ここに書いた前世であったのではないかと私は思っている。

前世は無理に知る必要は無い。けれども、知る必要があれば自らが望まなくても自然に知る時が訪れるのではないだろうか。





夏の日。私は二十余年ぶりに水道公園を訪れた。私はここで、やはり沖縄の匂いを感じるのである。


(記・2016年8月)


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