2016年2月。

私は3年間の空白を経て、再び遺骨収集活動に参加をするべく沖縄へと飛び立った。28歳になっていた。

このたびの活動場所は、糸満市内にある国吉の丘陵地帯であった。ここは、かつて山形歩兵第三十二連隊が激戦を繰り広げた場所である。これも、なにか縁の為す業であると思わずにはいられなかった。

私はそこで、ひとつ手榴弾を見つけた。この持ち主はどうなったのか、今となっては真相は闇の中である。





*真栄里

その日、活動を終えた後で、私はメンバーの方々にお願いをして真栄里の丘陵地帯に連れて行って頂いた。

ここを訪れた目的は「山形の塔」に参拝をするためであったが、ここに辿り着くまでにはサイモン・B・バックナー中将を悼む碑塔をはじめ、幾つかの慰霊碑塔を目にすることになる。

沖縄戦において連合軍の最高指揮官であったバックナーは、ここで日本兵の銃弾に倒れた。彼の死は、あとに戦場の米兵の狂気を更に煽る結果となり、その報復のために罪の無い一般市民が強姦、無差別殺戮の犠牲になったという説がある。

さらに奥へと入っていくと、歩兵第三十二連隊を悼む「山形の塔」と、そこから数十メートル離れたところに白梅学徒隊を悼む「白梅の塔」が立っていた。

山形歩兵第三十二連隊、愛媛歩兵第二十二連隊、北海道歩兵第八十九連隊、またその他から構成されていたのが第二十四師団である。白梅学徒隊は、主にこの二十四師団の世話にあたった看護学徒隊であった。

白梅の塔の横には、南禅廣寺という小さな寺がある。実は、私がこの真栄里に行く必要があるように感じられてならなかったのには、この寺も大いに関係していたのだ。

それより以前、仕事中に「南禅」という文字が頭に浮かんで、しばらく離れなくなったことがあった。どこか疑問を感じていたところで、あとに知った真栄里には南禅という寺があることが分かったのである。

この真栄里は、そのはじめ愛媛歩兵第二十二連隊が陣を取って戦っていたが、この部隊は終戦時には全滅に等しかった。

あとに終戦したことすら知らないまま国吉の壕の中にいた山形歩兵第三十二連隊の兵員が、投降とともに真栄里へと赴き、軍旗を奉焼したことから、ここが彼らの終焉の場所となっている。

山形歩兵第三十二連隊が全ての武装を解除した日が、終戦から数週間を経た9月3日のことであった。この「9月3日」というのが、私が現在の職場に入社をした日とちょうど重なっているもので、個人的にこの月日には特別に深い思い入れがある。





*はじまり

私は「山形の塔」を前に、線香を灯して手を合わせた。

(お疲れさまでした、どうか安らかにお眠りください・・・)

心の中でそう念じた。それは他でもない、自らへの思いであったに違いなかった。そのとき私は、なにか果たすべきものを果たしたような気がしたのである。

私の心は、それまでに感じたことのない幸福感に満たされた。それは、ともすれば、まことの意味での生まれ変わりであったのかも知れない。

地元に帰ると、またいつもと変わらない地味で冴えない日常が待っていたが、私の心は大きな重石が無くなった様に、どこか晴れ晴れとしていた。

それまで「つまらないもの」と思っていた自らの日常が、とても素晴らしいものと思えるようになったのである。一切の呪縛から解き放たれたようで、どこか気持ちが楽になった。

まもなく私は、活動メンバーの1人から薦められていた、1冊の本を読むことになった。

当時、山形歩兵第三十二連隊第一大隊長を務めていた、伊東孝一という男の半生について書かれたものである。それは、ちょうど前年の春頃に出版されたばかりのものであった。私はその1冊を、時間をかけて真剣に読んだ。





*読谷村

山形歩兵第三十二連隊は、満州から沖縄へやってきて間もなくに読谷村で陣地構築をしていたことが分かった。そしてその本部が恩納村に置かれていたという。

彼らがこの読谷村に滞在していた当時、まだ沖縄では戦争が始まっておらず、すぐそこに迫り来ていた惨劇を前に、のどかにサトウキビが揺れていた。

なぜR氏の故郷が読谷村であるのか、なぜ私は恩納村をどこか知っていたような気がしたのか、やはりこの山形歩兵第三十二連隊という部隊を通すことで、どこか腑に落ちるのである。

そのむかし、私はあくまでも「戦争に参加をしていた」「場所は沖縄である」「R氏とは戦友であった」と言われただけで、「沖縄戦に参加をしていた日本兵である」と言われたわけではない。ましてや具体的な部隊名など、本当のところは分からないのだ。

しかし、これまでの不可思議な偶然の数々を思い起こしたときに、また否むことも出来ないのである。導きに身を任せていたら最終的にここに辿り着いた、ただそれだけだ。

仮に、私たちが実にこの部隊に縁があったとしたならば、「平和な沖縄」というものを知っていた、恐らく唯一の場所であるこの読谷村に、もういちど共に帰りたいとする思いが生じるのも何ら自然的なことであると私は思っている。


あとがき