先日、祖母の四十九日を終えました。その翌日に改めてお墓参りに行き、墓誌に新しく刻まれた祖母の名前を見て、それでまた改めて実感するものがありました。

今は、亡くなったという事実そのものは確かに悲しいんですけれども、それよりも来世はきっと心身ともに安定した人生を送れることを、またそれを全うして欲しいことを願っています。

私たちには別れでありますが、祖母にとっては新たな出発のための準備の期間であることを思えば、私はただ悲しんでいるだけでは駄目なのだと思いました。ひとつの魂は永遠に滅することはなく、幾度の命名と、その人生で経た記憶を確かに刻みながら生き続けていくと信じる。

私はこれまで祖母のことを、生涯苦労、気苦労が絶えない不運で哀れな人だと思っていました。しかし今思えば、それは私たち周りの人間が勝手に偏見視して決め付けていただけだったのかも知れません。祖母本人にしか分かり得ない喜びや幸せなんて私たちに分かるわけがないのです。

以前、芥川龍之介の「芋粥」を読んで同じことを強く感じたことがありました。

自分の尺度で他人の幸、不幸を量ることなんて出来るものではないし、してはならないことです。ましてや勝手に不幸だと決め付けていたとは失礼以外の何者でもありません。祖母には申し訳ないと思っています。

また、祖母が歩んできた波乱の道のりを思い起こせば、私のこれまでの歩みなんて本当にチッポケで大したことはありません。全く、大したことはない。まあ、そもそも生きた時代が違うのだから、同じ苦労を味わえと言われても出来るものでもないでしょう。

祖母が今の私と同じ年齢だった頃は、ちょうど私の母親を身ごもっていたか、出産をしていたあたりでした。



今日は職場で恒例の健康診断がありました。なんと体重が3キロも減っていたのです。特にダイエットめかしいことをしていたわけでもありませんでしたが、思えばもう一年以上お酒は飲んでいませんし、ということはカロリーが高いつまみ物も食していません。

カロリー制限と食費節約のために社員食堂の利用をやめて自弁に切り替えました。何より自炊をするようになってからは自ずと野菜と魚を取るようになりましたし、朝夕ともに食事の時間が早くなりましたので、それにも因るのではないかと思います。

思い当たる要因は多くあります。まあ、健康的で良いのかなと。