実写版「耳をすませば」を見てきました。

途中「・・・ん?」と思った場面が結構あったんですけれど、なんだかんだ最後まで鑑賞を終えたあとは見て良かったなあと思えた作品でした。

ひとつ、どうにも納得できなかったところを申し上げると、雫が初めて書き上げた自作の物語の最初の読者が何ゆえ聖司であったのか。ここは地球屋のおじいちゃんだから深みがあって良かったのであって、この設定を変えられるとちょっとな・・・という気がしました。

あとは10年越しの国際遠距離ともなればこうなるわな〜ぐらいの、実写だけあって何とも人間くさい、およそ想像していたとおりの展開であったと思う。




先日、親友と一緒にお寺に行ってきました。彼女と訪れたのは8年ぶりのことでした。

並んで正座して、たまにボソボソと話して。何だか途中から笑えてきたんです。素直に、また彼女と来られたことが嬉しかったし、ありがたいなあと思いました。1人のときは30分くらいで帰るのですが、今回は話しているうちに1時間もあっという間に過ぎていました。

このたび初めて途中でお寺の人が本堂に入ってきましてね。時間も夕方近かったので、お寺側もまさか人がいるとは思っていなかったようで驚いていました。

普段から観光客も受け入れている、こちら北東北では古い歴史を持つ由緒あるお寺なので、拝観料を専用の箱に投入すればとりあえずマナーを守ったうえで本堂に入っても大丈夫なんですよ。

本堂の中は夏でも寒いくらいで、ましてや冬も目前の今じゃ凍る勢いなのは分かっていたから自分たちでも膝掛けや羽織るものは持参していたのですが、ストーブをつけてくれた上に、住職お勤め席よりも祭壇に近いところに座らせてくれまして、そこに敷かれていたホットカーペットの電源まで入れてくれました。

住職お勤め席よりも前に座っていいのかと一瞬戸惑ってしまいましたが、せっかく準備をしてくれましたので、ありがたく座りました。

このお寺は、私にとっては今のところ一番のパワースポットなんです。初めてこの本堂に入った瞬間に感じた、あの不思議な感覚が今でも忘れられません。祭壇は他のお寺に見るような様々並んでいる豪華なものではない凄くシンプルなもので、奥行きがあるせいか暗くて仏像の一体も見えないんだけれども、代わりに澄み切った静寂と、引き付けれられる何かがありました。

このお寺にはきっと何か凄いものがいると、私は常々そう感じています。

職場に、若い頃このお寺によく通っていたというオバサンがいるのですが、「今度はあなたが通っているのね」と何だか嬉しそうでした。

話は少し逸れるのですが、自分ごとで今回ひとつ気づいたことがあるのです。このお寺を訪れるとき、私は決まって祭壇を前に右側に座るんですよ。左側だと何故かしっくりとこないことが理由なのですが、以前、前世の記憶らしい教会での映像が見えたときにも自分は同じように祭壇を前に右側に座っていたんです。

右側がお気に入りなのかしら(笑)

今回お寺の人に改めて誘導された位置が祭壇のほぼ真下というか目の前であったから、それもまたしっくりとこなくて、心の中で「私はこの場所から動きたくないのにな」と強く思ったことでハッとしたのやも。




最近はまた狂ったように、お決まりの「ミゼレーレ」だったり、パレストリーナのミサ曲をずっと聴いたりして、頭の中はどこか遠いところを旅している状態でした。定期的にこうなる時があって、こうなると戻るまでにしばらく時間がかかります。

歴史の勉強は、余裕があるとき限定でコツコツ継続中です。やっぱり歴史に触れると元気が出てきますし、歴史に触れている時だけは来世もまた自分に生まれたいと心から思えるんですよね。