嫁いで初めての盆でした。

我が家には仏壇がありますので、訪れる親族や親戚の対応もしなければならず基本的に家を空けることは出来ません。私もなんだかんだで墓参り以外は自分の実家でのんびり過ごすことも出来ないまま終わってしまいました。

盆の慣わしはそれぞれの家庭や地域によっても異なると思うのですが、うちは田舎ということもあってか昔の慣わしが根強く残っているようです。

墓参りには3日間すべて行くのと、仏壇にも日に3食お膳を供えなければなりません。出かけて、帰ってきたらお膳の準備、後片付け、また出かけて、帰ってきてお膳の準備、後片付けの繰り返しで、ついに頭がパンクして台所で発狂してしまいました。

旦那さんは今まで、必要な買い物も含めたこれら全てを一人でやっていたわけですから凄いなあと思いましたね。

盆休み中に、旦那さん方の先祖代々の戸籍謄本を初めてじっくりと拝見しました。最も古い記載にある人物の生まれは文化11年(1814年)であった。

もし、実に会津に関わりがあることを前提として考察した場合、戊辰戦争があった年にこの最も古い人物は55歳で、その息子が25歳であったという計算になりました。

気になったのは、この最も古い人物と、その息子の出身地の記載だけが無いことです。日本で初めて本格的な戸籍登録が開始されたのが明治5年で、のち明治19年にも方式が改正され、逝去するまでに計2回の機会を経ていたにも関わらず。

昔のものなので、そもそも細かに出身地まで記載する必要が無かっただけなのかも分からないが。

また、墓誌のほうには更に古い先祖が幾人か刻まれているのですが、なぜか虫食いだらけで、名前があれば命日が欠けていて、命日があれば名前が欠けているという何とも奇妙なものでした。

旦那さんいわく親族から聞いた話によれば、当時、何か隠さなければならなかった理由があったらしい。それが何なのかは今となっては分からないそうなのだけど・・・。

世間では斗南藩のこと、会津のことを口にすることは昭和の初期までご法度であった歴史背景を鑑みれば、それも納得できるのかなと思う。

もともと斗南藩の歴史には関心を持っていたこともあり、こうして身近に可能性があればどこまでも限りなく追究したくなってしまいます。だけどきっと真相はこれからも闇の中で、永遠に憶測の域を超えることはないのかも知れない。なぜなら先祖が隠しているのだから。




盆休み中にネットニュースにあがった記事のことです。そこには長きにわたり沖縄戦没者遺骨収集活動に携わっている、ひとりのフォトジャーナリストの半生について書かれていました。

内容を読んでいると、その経歴にどこか身に覚えがあったから「あれ?」と思ったんです。自身も活動でお世話になっていた人でした。

1回目も、2回目に参加した時にも食事を共にさせていただきまして、多くの貴重な話を聞かせていただいて、ものすごい存在感のある人でした。

青森からの参加が珍しかったのか、或は三十二連隊に固執していたから気になったのか、個人的な取材を申し込まれたんですけれども、当時は自身も可能な限りで活動を続けていく気でいたし、そのうえで色々と思うことがあって自分の存在が外部に知られることを恐れて断ってしまったんですね。

今思えば、べつに応じても良かったのかなあって。

現在もなお精力的に遺品の返還や大学での講演を行ったりなど盛んに活動しておられるようです。若い頃は中東や東南アジアを中心に世界の戦場にも赴いていたそうな。

生きた甲斐のある人生って、こういう人生のことを言うのかな?なんて、つい考えてしまった日曜の朝。私にとっては非常に憧れる人生である。

だけど、万一自分が親になったとして、子供がこの道で生きていきたいとか言い出したら自分ならなんて答えるんだろう?って。「自分の人生なんだから好きなことをやりなさい」なんて、やっぱり簡単には言えないと思うんですよ。