3〜6日にかけて、ひとり奈良と京都に行ってまいりました。一人で旅らしい旅に出掛けたのは何年ぶりのことであったろうか。だいぶ久しいように思います。

初日は航空券とセットになっていた大阪のカプセルホテルに、2日目は飛鳥鍋が食べたいがゆえに奈良の民宿に、3日目は京都のホテルに宿泊しました。2日目の民宿でいただいた飛鳥鍋はサイコーに美味かったです。そのうち自分でも作ってみたい。

訪れた場所はシンプルに5ヶ所。東大寺、春日大社、平城宮跡、延暦寺、南禅寺です。

鹿せんべいは鹿が食べるものだということを知らなくて、自分が食べようとしたところで鹿にど突かれてしまい、スカートやらコートをかじられるわで売店の人に助けてもらったところから旅が始まりました。

それぞれ見応えがあったことを前提に、それでも平城宮跡には格別かつ壮大なロマンを感じました。行く前からこの場所には惹かれるものがあったんですよ。去るに去れなくて、奈良ではそこだけで半日を過ごしました。

朱雀門を眺めながら優雅な気分で柿の葉寿司を葉ごと食べていたら、掃除のオバサンから「葉は取って食べるんやで」と優しい笑顔でご教示いただいたことは生涯忘れられない思い出となることでしょう。

知らないって恐ろしいなあと思いました。せんべいにしろ葉っぱにしろ、下手すれば腹下しもん。自分のアホさ加減がほとほと嫌になりました。

そういえば、職場でたまに天然と言われることがあります。恋人からもそれらしい感じのことを言われたりする。いつもアホみたいに微笑んでいるからそう見えるだけなんじゃないの?って自分では思っていたんだけれども、このたび実感した、私は本当にアホかも知れない。



さて、比叡山延暦寺。

ここは若い頃からずっと行きたいと切望していたところで、住所は滋賀県となっておりますが、私の中ではずっと「延暦寺ありきの京都」でした。

延暦寺にて、不滅の法灯を一目見ようと根本中堂を訪れたときは、ちょうど坊さんが熱心にお勤めをしている最中でした。私は座り込んで、坊さんの背中と不滅の法灯とをじっと見つめ続けていました。

べつに悲しいわけでもないのに涙が溢れ出てきて、それが何筋か頬をつたったのです。それを皮切りに、心の奥深いところから「疲れていた」という自分自身の声が響いてくるような、そんな感覚がありました。

自分はどう生きるべきなんだろう?って。この言い知れぬ不安と、目に見えぬ圧力と、自身を戒めんとする抑制と。もう全てが嫌でどうしようもなく、解放されたい一心だったのです。あるいは、答えを見出したかった。

はたして答えを見出すことが出来たのかどうかは分かりませんけれども、比叡山を下るときには幾分か心が楽になっていることを確かに実感しました。

急に、こうして立ち止まっている時間が勿体なく思えてきたのです。自分にはまだまだ学びたいことや知りたいこと、やらなくてはならないことがたくさんあるのだから落ち込んでいる場合ではないのだ、と。

生きていれば苦しむし、悩むし、泣くこともあります。それが人間の当たり前なんですよね。

ただ、そこで嘆いて終わらせるのか、そこから何かを見出そうとするのかはあくまでもその人次第なのであって、またそれに必要な精神力を養っていくのもその人自身であるということを、日蓮も道元も学んだこの比叡山で悟ったような気がしました。



京都に行く際には、ぜひ宿坊を体験してみたいとずっと思っていて、今回旅を思い立った当初はそれを考えていたんですけれども、今の自分には無理だと感じ断念しました。

宿坊は、精神的にもっと余裕があるときに、こちら東北地方のどこかのお寺で静かに体験してみようと思います。

今回は、時間的にも気力的にも、何より経済的にも余裕がなく、特に京都なんかは名所らしい名所にはほとんど行けなかったし、それらしい風景も見ることが出来ないまま終わってしまいました。せめてあと1ヶ所、無理をしてでも御所には行くべきであったと後悔している。

まあ、一度の訪問で終わることも無いとは思いますが・・・。