今日は日曜出勤の代休でした。近頃、またお寺に行きたくて体がムズムズしておりましたので、今日は水子参りを兼ねてお寺に行ってまいったのです。参道の松の木も、冬の装いでした。

これは偶然なのかは分からないのですが、実に水子供養を行ったのも、2年前のちょうど同じ日だったのです。どこか水子さんに呼ばれていたのかなあ、という気がしてなりませんでした。

流産をしてから水子供養をおこなうまでの間には、およそ5年の空白がありました。どこか気持ちに区切りがつかず、先延ばしにしていたためです。

不思議なもので、供養をおこない、こうして定期的に水子参りに赴くたびに、どこか「母親」であるという自覚が増してくるように思えるのです。

生身をこの手で抱くことは無かったんだけれども、腹に命が宿ったことは事実。腹に命が宿れば、その女は一人の母親である。今日は、いつになくそれを強く感じたのでした。

そういう意味でも、やはり水子供養をおこなって良かったと思っています。よく、水子の祟りを恐れるがゆえに供養を行う人たちもおりますけれども、あれは少し違うような気もしますね。供養は真心でおこなうものですから、そういった邪念があるのでは天に届くものも届かないのではないかと。

この子のためにも恥じぬ生き方をしたいと思った、そんな一日でした。