ノイは私が普段レポートの採点や報告書をつくる椅子に座っている。古い木製のそれは重厚で、背は私とそう変わらないくらい高くても酷く痩せている彼には聊か大きく感じられる。
避けられている。
勿論そんなことを思うのは初めてではない。
自分のしたことに自覚もあるから傷付くようなことは無いけれど、それを許容していた筈の彼らに裏切られた気分になるのも事実だ。ノイだから特にそうなのかもしれない。
肉のない身体は強さや感情の高まりを感じさせない。
ただ在る、物のように。
「なぜ避けるんだ」
ノイはペンのキャップを開け閉めしている。表情もなくカチカチと鳴らすから傍で聞く私を苛々させる。
「避けてない」
「馬鹿を言うな」
「…ただ少し、怖かっただけだよ」
怖かった?
「私が?」
ノイはキャップを閉めるとそのペンで机を撫でた。彼の細くて白い病的な指が揺らめく。
机に座るのは行儀が悪いが、ノイを斜めに間近く見下ろせるその位置に腰掛けてもこちらを見ようともしない彼にとっては構わないことだろう。
「……、結婚」
「はい?」
「僕じゃ先生とは結婚できない」
「……」
何を今更、とは言えなかった。
ノイが怖いと言う。目も合わせずに私とは結婚できないと言う。嘘も本当もない戯れを、怖いと言う。
それでは上がる体温も差し延べられた手も分かり合えたと思えたあの瞬間も恐怖でしかなかったというのか。今この時間も彼には恐怖となるのか。
ならばあの言葉は、嘘だったのか。
「先生は他の生徒とも仲がいいよね」
「…どういう意味だ」
「先生は怖くないの?」
「何が」
ノイは手を止めた。
「……」
手に入れたと思ったのに、自分のものになったのだと思ったのに、ノイは顔を歪めて離れようとする。
拒絶しながら引き留めるのはあの頃と全く同じだ。拒絶しながら引き留める。気を引きながら拒絶する。進んでいない。成長していない。
結局、何も手に入れていなかった。
籠に閉じ込めて飼い殺すつもりだったのに私のそれはあの頃から今までずっと空のままだったらしい。感情だけが重く沈んで何かが居るように錯覚していた。私の感情はそれ程、確かに分かる程の大きな塊になっていたのだ。
それをノイは怖いと言うのだろうか。
触れてもない、私の心を。
「ノイ、私が嫌いならそう言いなさい。ここへももう来るな。私は子どもじゃない。君たちとは違う」
近くにいると君をまた束縛したくなる。離れた心と心の距離を思い知らされるから嫌がっても泣いても許さないで縛り付けたくなる。
この狂気は、愛と呼ぶには純粋過ぎる。
「……」
捕まえたら決して離さない。
学生時代の好きとか嫌いとかいう感情は忘れてしまったけれど、独占欲と嫉妬に塗れたこれを恋と呼ばずに何と呼ぼうか。自分だけのものにして閉じ込めることを結婚以外の方法で実現できるなら疾うにしている。
君が怯えていたのは知っているし君が泣いているのを笑って見ていた自分も憶えている。
けれど怖いと言われたのは初めてだ。
籠に入りもしないで怖かったとどうして言うのだ。捕まえたら離したりはしないけれど、ノイは一度も私の手に落ちなかった。
だからノイと別れてからは忘れようとした。いっそ無かったことにしたかったくらいに。
狂気からも恋心からも目を逸らした。
私と結婚してくれるのではないのか。そう言って笑ってくれた時にどれだけ嬉しかったか分からないのか。本当にあれは全て嘘だったのか。恐怖から逃れる為の虚言だったのか。
だったらどうして、戻って来た。
「君を諦める為にどれだけ待ったと思ってるんだ。忘れていたとでも思ったのか」
忘れたくてもできなかった。
遠くにノイの姿を捉える度に薄汚い感情が湧いた。
そしてぐつぐつと煮え立つ。
「……」
ノイの細い腕が私の身体に向かった瞬間、私はほとんど本能と反射でそれを強く捕まえた。目が合っても睨まれているのか単に凝視されているのかの区別もつかない。
コントロールできない。
掴んだその腕は冷たくて生きていない蝋人形のように思えた。
違う。ノイは私と結婚するんだ。
「ふざけるな! 何故私を避ける!? 抱き締めた時には結婚しようと言っていたのに、どうして…」
卑怯で残忍なのは、君の方だ。
「先生、」
「……なんだ」
「僕は先生が好きでした」
「……」
「先生だけが僕を迎えに来てくれた。醜く泣いてもそれで捨てたりはしなかった。僕の世界は先生と二人だけのもので、だから僕は先生に愛されたくて仕方なかった」
世界に二人だけ?
「そんな筈、ない」
そうではないから狂わされる。
「先生はいつも冷たくて、僕は一人にさせられる度に自分が惨めで生まれる価値もなかったもののように思えた。愛されたくて、でも誰も僕を愛してはくれなかった」
「……」
「ピノだけは僕にも優しかったけれど、ピノの世界には誰もいないから、残りの全てに愛を平等に優しく振り分けているだけだから、やっぱり僕は一人だった。先生と僕の二人の世界に、僕だけ一人でいたんだよ」
「……」
「愛されたくても愛されなかったあの頃の気持ちを、無視すること、できません」
愛していたよ。
私の世界はごちゃごちゃと煩雑で、いつもノイは静かにその中へ埋没していた。それが許せなくて乱暴にノイを引き摺り出すけれど冷たくしたことなんて一度もない。熱すぎるから感情が沸騰して彼に手を出してしまっていたのだ。
「……随分と、衝撃的な告白だね」
私は笑ってしまった。
笑うしかなかった。
ノイの腕を掴んでいた手から力が抜けて彼を縛り付ける力も抱き寄せる力もなくずるずると離れた。ノイの目は久しぶりに真っ直ぐ私を見ていて、そういえば昔はこの目で見られるのが好きだったことを思い出す。
「せんせ、」
ノイの世界には私だけが映っている。
そう、確かに思った。
「叩いたりしてごめんね。愛していたよ。君だけが私の余裕を奪う。君だけを閉じ込めてしまえればと思っていた。愛していたよ。乱暴なことをしても伝わらないよね。ちゃんと気持ちに向き合って言葉にしていれば良かった」
笑う私を見るとノイはその場にへたり込んだ。立てた膝を細い腕で抱えて弱々しく座っている。
「やっぱり卑怯だ…」
「え?」
「ただもう残忍ではないみたい」
「……」
「卑怯で純粋」
「その言葉、」
「今だって嫌いだとは思ってないよ」
「……」
「僕だけを見て僕だけを愛して欲しいって思っています」
「……」
「きっと先生には煩わしいものが多いんですよね。世界に二人だけならよかったのに」
「……」
「怖かったって言いましたけど、やっぱりそれとは少し違うかもしれません」
「……」
「怖い予感が、していたんです」
そうか。
「それなら良かった」
君のことが漸く少し分かった気がする。
「よくないよ」
ノイは笑った。その声は低くて彼がもう無抵抗で小さな子どもではないことを知った。必死に藻掻いて生きてきたに違いない。誰にも縋れずにたった一人で、生きる自分の価値をも否定しながら自虐して拒食して、けれどその中にある微かな光を探して。
殴ったりしてごめんね。
諦めなければ良かった。無様に求めて彼を愛すれば良かった。
「すまない」
床に座り込んだらノイと目が合った。長い前髪に隠れた切れ長の綺麗な目は初めて見た訳でもないのに鮮やかに焼き付く。
「憶えていて。僕は先生が好きだったけど叩かれるのは嫌いだった」
狭い準備室に二人だけの世界。
「絶対に忘れない」
ノイの目には私しか映っていないし、私の目にはノイしか映っていない。
「それならよかった」
ノイが笑うのを初めて見た気がした。