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結衣

真井さんはよく第3保健室に来るようになった。私がいる時にはだいたい現れるので、私より余程常連になっているのだと思う。

「今度どっか遊びに行こうぜ」

彼の口から出てくる言葉は馴れ馴れしくて幻滅してしまう。

「そうですね」

哲先輩ならこうは思わせない。真井さんはすごく綺麗な人だしお姉ちゃんにも釣り合うかもしれないと少しでも思った自分を酷く後悔するくらいには彼は最低な人種だった。

「先輩、」
「ん?」
「私、城内さんに会ったんです」
「はあ?」

真井さんを見ると彼は靴を履いたままその足を長椅子に上げていて、中山先生が見たら怒るだろうなあと思った。

「京平とこそこそ会わないでって言われました」

城内さんが真井さんと最も長く付き合うことができているイイ女だということは真井さんを取り巻く女の子の中ではそこそこ有名な話で、それは羨望と嫉妬が綯い交ぜになって噂されている。

真井さんは金色の髪を右手でゆっくり撫で付けた。それはもしかしたら天然の色かもしれないと思える程丁寧に染められていて、それだけで見蕩れてしまう。

「…あ、そ」

鬱陶しそうにそう呟いた。

顔は端整で肌理も細かく、長い腕や脚は優雅に振る舞い、髪の一筋から爪の先まで隙なく手入れされ、それらは尊大な真井さんを正当化する。百獣の王が、人として生まれたかのような。

そして今彼が醸す陰鬱な雰囲気に色気まで感じて私はそういう俗な自分に溜め息が出た。

こういう男が、女を駄目にする。

それもきっと無意識に。

城内さんは美人で、真井さんでなくとも他にいい人がいるに違いない。それをこの男がただ近くにいるだけで、あの人はもうただの真井さんの女になってしまった。

私は溜め息を吸い込んで飲み込むと真井さんの前まで歩いて行った。

凛として、堂々と。

「女を、あんたの奴隷にしないでよ」
「……」
「特別な人なんてそう簡単に見付からないんだから。城内さんのプライド、ズタズタにしてどうして放っておけるの。弱くて寂しい生き物をどうして優しく扱ってあげないの」

真井さんは立ち上がると入れ代わりに私を長椅子に押し付けた。

「……、へえ?」

にたりと嫌らしく笑うと煙草の臭いが下りてくる。

「城内さんは真井さんと付き合って色んな新しいことを発見して幸せを感じて、真井さんにも同じように感じて欲しかったんじゃないの?」
「奇遇だなあ。俺もあいつと付き合って幸せ感じてたところだ」
「世界は広がった?」
「ああ。毎日が新大陸発見」
「じゃあ幸せ?」
「……」

真井さんはもう笑っていなかった。

食べられる。そんな恐怖感もあったけれど戸田先輩が守ってくれる気がして不安は大きくなかった。

「だったら、城内さんに伝えればいーじゃん」

私は重畳そうに笑った。

真井さんの言葉を信じた訳ではないけれど、彼が100パーセントの嘘でごまかしたとしても私がどうにかできることでもない。深入りして逆上を誘う必要性もその義理もどこにもない。上辺だけで幸せだと言うならそうですかと返すのが一番なのだ。

それに、そろそろ中山先生が帰ってくると気付いていた。

真井さんは私の両腕を強く掴んで伸し掛かり、膝で脚を割った。

「…、……」

小さく聞こえた声を掻き消すようにキスされた。そして口を開かない私の唇を舐め上げる。

ヤバい、ヤバいヤバい。

ライオンの生まれ変わりだとしてもこの手の早さは犯罪だ。

そもそもこれは犯罪だ。

中山先生を呼ぼうとしたけれど、真井さんは左手で、掴んでいる私の右腕ごと口に押し付け、自分の腕を自分で噛んでいる為に助けを呼べない、という不憫極まる行為を強いられた。

叫べないし、酷く屈辱的で人に見られたくもないし、体格差があり過ぎるし、私はとうとう諦観してしまった。

せめて先生、早く来て。

真井さんは口で私のシャツを引き上げ、臍、脇腹から脇、鳩尾から胸などをキスなのか唇による愛撫なのか分からないくらい執拗な方法で刺激して、なんの迷いもなくブラもずらした。

気持ちいいとか悪いとか、やはり最低の人種だったかとか、そんなことよりも私はいつ開くとも知れないドアが気になっていた。真井さんはそういうこと、気にならないのだろうか。

行為に夢中になる程彼は欲情していない。私に触れるその手は冷たい。

停学じゃ、済まないよ。

真井さんは膝でパンツ越しについにそこまで刺激しだした。

慶明は私立で小学校から大学院まである比較的高偏差値の学校で、中学や高校で怠ければ容赦なく追い出されるという、保護者にしてみれば安心の教育水準を保障している。裏金5000万で大学まで持ち上げてくれるとか、社会的エリートの家の子どもは多少の校則違反なら目を瞑ってくれるとか黒い話も聞くけれど、正直生徒自身にも慶明生であるという矜持はある。

真井さんは慶明の中でも超優秀。その上見目麗しく運動もできて欠点など見当たらない。

こんなこと、馬鹿らしい。

それとも東大を目指している彼の学力なら慶明を退学になっても人生に於いて問題ないのだろうか。

そんなことを考えていると急に行為が中断し、真井さんは私を見下ろした。

右手が口から離される。

「……、止めてって、言えばいいんですか」

無抵抗なのが面白くなかったのだとしたら世の中思わぬことが功を奏するものだなあと呑気に思う。

「お前ってビッチ?」

真井さんは至極真面目な面持ちでそう言った。白い肌に赤い唇が濡れいて映える。一部の女の子にはこの距離でこの映像は失神ものだろうと思えるくらい、それは艶っぽくて卑怯だった。

「……」

無言の抗議、だ。

「答えろよ…」
「ちょっと待って!」
「ぁあ?」

無言の抗議をどう受け取ったのかは分からないが、真井さんは当然のように行為を続けようとしていた。

「犯罪だよ。これは立派な」
「未成年同士で同意の上なら、」
「強姦です」
「……また口塞ごうかな…」

真井さんが右腕を口に宛行ったところで私は涙ぐんで上目遣いに彼を見た。勿論演技だけれど人生で初めてなので上手かどうかに自信はない。

「……」

真井さんは両手を一纏めに掴んだ。そして空いた手でパンツを弄る。

一遍、死ね。

「幸せって言ってみて?」

そう言う真井さんは、けれどどこか寂しそうだった。頭を浮かせて見てみるとやはり欲情していなくて、この行為の延長にセックスはないらしいことを確信する。

私は助けを呼ぶタイミングを逸した。

「城内さんに言ってあげてください」

その言葉が真井さんの神経を逆撫でるか或は傷付けるかはするだろうと思ったけれど、最早他人事で済まされるレベルではないことにも違いなかった。

「お前さあ、俺のこと気になってんじゃねえの」
「……」
「時々、俺のことじっと見てるの分かってんだけど」
「……」

真井さんは私のお腹を撫でながら言う。

「俺のこの顔で迫られて、嫌な気分じゃねえだろ?」

それは、真実だ。

けれど間違っている。

「言いましたよね、女は奴隷じゃないんです。私が真井さんを好きになる時は、きっとちゃんと伝えます。私が抵抗しなかったのは、真井さんが怖かったからです。そんな恥ずかしい自惚れは、私の前では忘れてください」

真井さんは眉を顰めた。

「…あ、そ」

そう言うと私の下着やシャツを戻してくれた。そのまま解放されるのかと思ったら最後にまた腕を掴まれて長椅子に押し付けられる。

真井さんの表情は酷く暗くてぞっとした。

「真井さん?」

無言で顔が近付いた時、ドアが開いた。

一瞬の間を開けてから、私がそれが誰かを確認する前にその人は真井さんを私から引き離した。ブレザーの襟を掴まれて無理矢理投げ飛ばされたらしく真井さんは床に派手に転んだ。

「誰…、」

真井さんが言い切る前にその人は真井さんに跨がった。

それは戸田先輩だった。

私が間に入って止めると戸田先輩は複雑そうな顔をしたけれど、理由はどうあれ戸田先輩が人に暴力を振るう姿というのが私には衝撃的で見ていたくなかったのだから仕方ない。

「面倒だからリセットしません?」

私のその提案に、しかし2人はなかなか乗ってくれなかったのだった。

ルーセン

ルカと敵対する全てを嬲って詰って虐殺するつもりがグリーンに会って心変わりした。グリーンは殺しはいけないことでそれ以上はない罪深い行いだと言った。酔った勢いの戯れ事だと店主たちは受け流したけれど、酔っていたからこそ嘘偽りない本音であることにも違いなかった。

「食器なんて揃えて、本当に良いの…?」

グリーンは不安げに俺を見た。

「あなたが言ったんじゃないですか。もう少し色気のある同棲をしようって、」
「ちょっと!こんなところでっ、」

こんなところでこんなことで赤面するこの男を近頃の俺は可愛いと思ってしまっている。

いいなあ、と漠然と思う。

殺すことは造作ない。けれどそれを思い留まるようになったのはこの色気のない同棲相手の所為だった。どれ程残酷な拷問でも殺すことは次元が違う、と受け売りの理論で遣り過ごしているのは信念を曲げたからでも技術が衰えたからでも度胸がなくなったからでもない。

「人が見ていますよ」

耳元で甘い声を出すとグリーンは茹だったように首筋まで赤くなった。

それがまた、可愛い。

この男が俺の声に弱いことは知っている。時々馬鹿みたいに俺に見惚れて剰えそれを馬鹿正直に告白することが少なくないことも分かっている。俺の顔に弱いことも性交渉がなくても満足してしまうくらい俺という存在に惚れていることも知っている。そういう自分を自覚した上で、俺にいつ捨てられても良いと覚悟を決めていることも知っている。

他方で向こうは俺のことを知らない。例えば俺が仕事上の定石を破ってまでグリーンを精神的に受け入れていることも、グリーンを置いて家を出る時の寂しさも。

既に切って捨てられるような存在ではなくなった。

「……目星、付けたんだけど」

分かり易く話しを逸らすとグリーンは皿を1枚取り上げた。顔にはまだ赤みがあるがこれ以上からかうのは止めて俺もそれを見ることにする。

「爽やかでいいですね」
「だよね!?」
「あとは、どれがいいんですか?」
「こっち!」

次に指差したのも至ってシンプルなものだった。

「あなたの趣味が少し分かった気がします」

グリーンがそれなりに上流の家庭で育ったことは伝わってくる。弟については時折話しても家のことは話したくないらしく会話からは正確な家族構成すら把握できないが、やはり独特の上品さは感じる。

遠慮があるにしても存外な趣味だ。

「え、あ、え、俺って趣味悪い?」

グリーンは皿をディスプレーに戻して俺を見た。

「いいから好きなの選んでください。他にも候補はあるんですか?」
「……すみません、俺、いつも自分のことばっかで…」
「……」
「あの、君はどれがいいの?」

辛うじて涙が溢れていないだけの泣き顔でグリーンは口角を無理矢理引き攣った。

そういうところが好きだ。

斜めに傾いた自尊心とか螺子の抜けた羞恥心とか不健全な自己犠牲とか、恐らく自虐的なだけなんだろうけれどそれらは俺にはないものだ。

自分と違うから惹かれるのではないが多少はその部分に影響されることもある。

時宜が良いとは思えない今では折角の告白も台無しにされ兼ねないので胸の内に留めておくけれど、例えばあなたの喜ぶ顔が見られるならいくら趣味の合わない服でも着てみせるとか、言っていくらでも聞かせてみたいと思うこともある。

我慢するのは自分の為。

優位に立って、あなたを支配したい。

笑って頭を撫でてやるとグリーンは更に顔を歪めた。手放しに甘やかされるのを嫌がるのは育ってきた環境の所為だろう。

「好きなもの選べって言っただろう?」

キスをしようと顔を近付けると垂れ気味の丸い瞳から、つ、と涙が流れた。驚いてそれ以上動けないでいると狼狽したのはグリーンの方で、彼は弾けるように顔を逸らすとあっという間に小さな食器店を出て行ってしまった。カランとドアの鐘が鳴ったのを合図に俺も慌てて後を追った。

ドアを出ようとした瞬間、目の前に年配の男が現れた。避けたけれど余程驚いたらしいその男は一人で蹌踉けて転びながら抱えていた荷物を放り投げ、それがカチャカチャと高い陶器のぶつかる音を発するのを聞いて俺は反射的にそれを空中で拾い上げた。

「……おお、」

年配の男は地面に座り込んで目も口も鼻の穴も開き切って無責任に感心している。

俺は俺で普段なら他人の物に寸毫の関心も寄せない奇行に近い自分の行動に言い知れぬ気恥ずかしさを感じ、その間に気配だけは捉えていたグリーンを見失ってしまった。

家に帰っていれば良いけれど。

「……大丈夫ですか」

自棄で無用な優しさまで見せるとその男は豪快に笑って立ち上がった。

「兄ちゃん、凄いねえ! 腰が抜けたよ、全く!」

荷物を渡すとにこにこしながら受け取った。やはりカチャカチャと聞こえるから陶器の何からしい。

「……中身、割れていないといいですね」

こんな男だとしても大切な人と選んだ大切な食器が無下に壊れたら落ち込むに違いない。むしろそういう思いで地面に落ちないようにと拾い受けたのだから勝手だとしてもそうであった方が都合が良い。

男は眉を下げた。

「うん、まあ、そうなんだけど、でもこれはもう割れてるんだよ」
「……そうなんですか」

予想外の答えに言葉が詰まった。既に壊れているとは思いもしなかった。

「直してもらえないか持って行くところだけど、捨てる覚悟もしてきたところでね」

捨てる覚悟。

「大切なものだったんですか」

抱え直された荷物が再び鳴った。忘れないでと言っているようにも聞こえるか細い音で。

「そうだね。でも壊れてしまったものは仕方ないし、無理に直したって使えなきゃ意味がねえや」

豪快な笑い声が、前とは違って聞こえた。

軽く会釈して別れを告げると男は礼を言って去って行った。

いっそ粉々になってしまえと、無意識に手放したということもあるのかもしれない。可能性を探ることに疲れたのなら偶然の悲劇で花を添えることの方が思い出としても上等だ。

捨てられる覚悟はある。

しかし捨てる覚悟は、あるのだろうか。

店のウィンドウ越しに先程グリーンが手にした皿を見た。どちらも簡素だけれど洗練された綺麗さと使い勝手の良さを感じて、そこに食事を盛り付けるのさえ想像できる。

俺も気に入ったと言えば良かったのか。

趣味ぐらい破滅的に乖離していたって構わない。食事の好みや暮らしにおける性向はともかく、服や家具の趣味は生活にとっては重要度の低いことだ。俺ならそう思う。

キスで有耶無耶にしようとした俺にも非はあるが冷静になってみるとくだらないことで感傷に浸るグリーンに苛立ちのようなものも覚えてしまう。

簡単に俺の元から離れた。

捨てられる覚悟は俺にもある。別れを受け入れるしかない原因を積んできた自覚はあるし生きてきた世界が違い過ぎると思い知らされることも少なくない。

しかし捨てる覚悟は端から無い。捨てる気なんて無いからだ。

店に入って選んだデザインの食器をセットで買うと家に戻った。そこにはグリーンはいなかった。がらんどうの部屋はあるべき姿に返ったようにも、あるべきものを失ったようにも思える。

俺は苛立ちを隠すように予定になかった仕事を入れた。

アヤ

リュウは静かに私に触れた。触れられたところからゆっくり温かくなって、それはとても気持ちいい。

「安定してきたみたいです」

リュウはひくりとも笑わずに私を撫でた。

ああ、やっぱり気持ちいい。

「気持ちいい?」
「…へ!?」
「ごめん。変な意味じゃなくて、猫撫でた時みたいな反応するから、つい、」
「ね、こ」

どうしよう。ドキドキしてる。

「可愛いって意味だよ」

いま絶対に顔が赤い。緊張してなんと返事をすればいいか分からない。リュウが笑った。女の人みたいに綺麗な肌と髪と目と歯と手と爪とで出来ている美しい人間が私に触れている。滅多に崩れない顔がいま笑った。

『可愛いって意味だよ』

ドキドキする。

「猫が、好きな、の?」

猫みたいで可愛いってことは私のことも少しはそう思っているってことかもしれない。顔を上げられないから向こうの様子は伝わらないけれどさっき見せた笑顔が頭の中で浮かぶからそれが本物だろうと空想だろうとこの緊張を助長することに変わりはない。

「好きって、言って欲しいの?」

屈んだリュウと目が合うと彼は無表情に私を眺めていて、急に自分が恥ずかしくなった。笑ってなんていなかった。

彼は私のことなんて気にしていない。

「べつに…」

三谷くんが言った通りリュウは誰かに特別思い入れたりはしない。深追いしないからいつも一人だけど、彼にはそれがいいのだろう。リュウは美しいから目立ってしまうし能力者は元来利用され易いし肩入れすれば簡単に均衡を崩してしまう。

彼は自分を弁えている。

そういう冷静で禁欲的な雰囲気も含めて周りは騒ぎ立てるのだろう。

けれど私には滅多に笑わない彼が珍しく笑ってくれたから特別なのではなくて、きっとどんな彼でも特別になってしまうのだ。話しかけられたら戸惑うし近寄られたら緊張するし可愛いと言われれば意識してしまう。

「アヤ?」

リュウは私を直視したまま呟いた。「怒ってるの?」と更に尋ねたけれど私はそれに今自分は怒っているように見えるのか、とぼんやり思っただけだった。

「いいえ。それよりさっきの、猫、好きなんですか?」

リュウは少しだけ黙ってから視線を逸らした。その姿もまるで予定された動きのように綺麗だった。

「……どうだろう。嫌いではないけど」

好きでもない?

「そう、」

残念。

私の心臓はリュウを見ると相変わらずドキドキするけれど彼は心踊るほど浮かれるようなチャンスをそう易々と私に与えてはくれない。むしろその他大勢であることを痛感させられる。けれどそのくらいでちょうど良いのかもしれない。

私は自分を弁えたい。

好きになってしまいました。貴方が触れるととても気持ちがよくて安心するけれど、貴方に私がしてあげられることのない内は甘えたり頼ったりしたくないのです。もうこれ以上は。

可愛くない女でごめんなさい。

「……ごめん、アヤは猫が好きだった?」

好きよ。

お願い、もう少しだけ待っていてください。必ず貴方に追い付いてみせるから、孤独を私が終わらせてみせるから、それまではどんなに冷たくされても耐えてみせるから、だからお願いです、待っていてください。

「好きですよ」

リュウはそれにひくりとも笑わずに答える。

「そうか。ごめんね」

リュウの笑顔は心臓に悪いからそれでいいのだと私は思った。頭を優しく撫でる手に気持ちなんて篭っていない方がいい。

「いいんです。好きですから」

だからいいのです。

ダリア

本当はその時に気付くべきだった。

その部屋は軽い休憩用の場所で、安っぽいベッドが並ぶ寝床よりは広く食堂よりは狭い。どこかの粗大ごみ置き場から持ってきたようなソファとカードをする為に拾ってきたような円形のテーブルと椅子が置いてある。

「どうした? 何かあったか?」

俺の声にも気付かないらしく軽く頬を叩いてやると漸く起きた。

その男はソファ横の床に倒れていた。顎に引っ掻き傷があるが当人は何かをごまかすように笑うばかりだ。

「いや、ちょっと寝てたみたいで、」

こんなところで。

「誰かといたのか」

丸テーブルの2つのカップにはコーヒーが入っている。一方はほとんど空だが、もう一方は手を付けられないまま氷が溶けたのか上澄みがかなり薄くなっている。

「まあ、」
「歯切れが悪いな」
「半ドンだったんで、サボってたわけじゃないんすけど、」
「いいよ。怒ってねえ。でも女連れ込むならベッドある部屋使えよ。こっちが閉まると時間潰しができねえ」
「すみません」

襟元を整えながら答えているのでよく表情は見えないが女がいなくなっているところを見ると調子の悪いことでもあったのだろう。そのまま不貞寝でもしたのかもしれない。

「ああ、そうだ」

俺はドアの前で振り返った。

「はい」
「女を連れ込むのも探しに街に出るのも構わないが、所内の人間にはあまり手を出すなよ」

男はほんの一瞬固まってからまた笑った。ごまかすように笑って目線をさ迷わせたので、そういうことだったのかと、そこまでは分かった。

「…あー、はい」

相手が誰かは、しかしその時には分からなかった。

マイヤー

ノイは私が普段レポートの採点や報告書をつくる椅子に座っている。古い木製のそれは重厚で、背は私とそう変わらないくらい高くても酷く痩せている彼には聊か大きく感じられる。

避けられている。

勿論そんなことを思うのは初めてではない。

自分のしたことに自覚もあるから傷付くようなことは無いけれど、それを許容していた筈の彼らに裏切られた気分になるのも事実だ。ノイだから特にそうなのかもしれない。

肉のない身体は強さや感情の高まりを感じさせない。

ただ在る、物のように。

「なぜ避けるんだ」

ノイはペンのキャップを開け閉めしている。表情もなくカチカチと鳴らすから傍で聞く私を苛々させる。

「避けてない」
「馬鹿を言うな」
「…ただ少し、怖かっただけだよ」

怖かった?

「私が?」

ノイはキャップを閉めるとそのペンで机を撫でた。彼の細くて白い病的な指が揺らめく。

机に座るのは行儀が悪いが、ノイを斜めに間近く見下ろせるその位置に腰掛けてもこちらを見ようともしない彼にとっては構わないことだろう。

「……、結婚」
「はい?」
「僕じゃ先生とは結婚できない」
「……」

何を今更、とは言えなかった。

ノイが怖いと言う。目も合わせずに私とは結婚できないと言う。嘘も本当もない戯れを、怖いと言う。

それでは上がる体温も差し延べられた手も分かり合えたと思えたあの瞬間も恐怖でしかなかったというのか。今この時間も彼には恐怖となるのか。

ならばあの言葉は、嘘だったのか。

「先生は他の生徒とも仲がいいよね」
「…どういう意味だ」
「先生は怖くないの?」
「何が」

ノイは手を止めた。

「……」

手に入れたと思ったのに、自分のものになったのだと思ったのに、ノイは顔を歪めて離れようとする。

拒絶しながら引き留めるのはあの頃と全く同じだ。拒絶しながら引き留める。気を引きながら拒絶する。進んでいない。成長していない。

結局、何も手に入れていなかった。

籠に閉じ込めて飼い殺すつもりだったのに私のそれはあの頃から今までずっと空のままだったらしい。感情だけが重く沈んで何かが居るように錯覚していた。私の感情はそれ程、確かに分かる程の大きな塊になっていたのだ。

それをノイは怖いと言うのだろうか。

触れてもない、私の心を。

「ノイ、私が嫌いならそう言いなさい。ここへももう来るな。私は子どもじゃない。君たちとは違う」

近くにいると君をまた束縛したくなる。離れた心と心の距離を思い知らされるから嫌がっても泣いても許さないで縛り付けたくなる。

この狂気は、愛と呼ぶには純粋過ぎる。

「……」

捕まえたら決して離さない。

学生時代の好きとか嫌いとかいう感情は忘れてしまったけれど、独占欲と嫉妬に塗れたこれを恋と呼ばずに何と呼ぼうか。自分だけのものにして閉じ込めることを結婚以外の方法で実現できるなら疾うにしている。

君が怯えていたのは知っているし君が泣いているのを笑って見ていた自分も憶えている。

けれど怖いと言われたのは初めてだ。

籠に入りもしないで怖かったとどうして言うのだ。捕まえたら離したりはしないけれど、ノイは一度も私の手に落ちなかった。

だからノイと別れてからは忘れようとした。いっそ無かったことにしたかったくらいに。

狂気からも恋心からも目を逸らした。

私と結婚してくれるのではないのか。そう言って笑ってくれた時にどれだけ嬉しかったか分からないのか。本当にあれは全て嘘だったのか。恐怖から逃れる為の虚言だったのか。

だったらどうして、戻って来た。

「君を諦める為にどれだけ待ったと思ってるんだ。忘れていたとでも思ったのか」

忘れたくてもできなかった。

遠くにノイの姿を捉える度に薄汚い感情が湧いた。

そしてぐつぐつと煮え立つ。

「……」

ノイの細い腕が私の身体に向かった瞬間、私はほとんど本能と反射でそれを強く捕まえた。目が合っても睨まれているのか単に凝視されているのかの区別もつかない。

コントロールできない。

掴んだその腕は冷たくて生きていない蝋人形のように思えた。

違う。ノイは私と結婚するんだ。

「ふざけるな! 何故私を避ける!? 抱き締めた時には結婚しようと言っていたのに、どうして…」

卑怯で残忍なのは、君の方だ。

「先生、」
「……なんだ」
「僕は先生が好きでした」
「……」
「先生だけが僕を迎えに来てくれた。醜く泣いてもそれで捨てたりはしなかった。僕の世界は先生と二人だけのもので、だから僕は先生に愛されたくて仕方なかった」

世界に二人だけ?

「そんな筈、ない」

そうではないから狂わされる。

「先生はいつも冷たくて、僕は一人にさせられる度に自分が惨めで生まれる価値もなかったもののように思えた。愛されたくて、でも誰も僕を愛してはくれなかった」
「……」
「ピノだけは僕にも優しかったけれど、ピノの世界には誰もいないから、残りの全てに愛を平等に優しく振り分けているだけだから、やっぱり僕は一人だった。先生と僕の二人の世界に、僕だけ一人でいたんだよ」
「……」
「愛されたくても愛されなかったあの頃の気持ちを、無視すること、できません」

愛していたよ。

私の世界はごちゃごちゃと煩雑で、いつもノイは静かにその中へ埋没していた。それが許せなくて乱暴にノイを引き摺り出すけれど冷たくしたことなんて一度もない。熱すぎるから感情が沸騰して彼に手を出してしまっていたのだ。

「……随分と、衝撃的な告白だね」

私は笑ってしまった。

笑うしかなかった。

ノイの腕を掴んでいた手から力が抜けて彼を縛り付ける力も抱き寄せる力もなくずるずると離れた。ノイの目は久しぶりに真っ直ぐ私を見ていて、そういえば昔はこの目で見られるのが好きだったことを思い出す。

「せんせ、」

ノイの世界には私だけが映っている。

そう、確かに思った。

「叩いたりしてごめんね。愛していたよ。君だけが私の余裕を奪う。君だけを閉じ込めてしまえればと思っていた。愛していたよ。乱暴なことをしても伝わらないよね。ちゃんと気持ちに向き合って言葉にしていれば良かった」

笑う私を見るとノイはその場にへたり込んだ。立てた膝を細い腕で抱えて弱々しく座っている。

「やっぱり卑怯だ…」
「え?」
「ただもう残忍ではないみたい」
「……」
「卑怯で純粋」
「その言葉、」
「今だって嫌いだとは思ってないよ」
「……」
「僕だけを見て僕だけを愛して欲しいって思っています」
「……」
「きっと先生には煩わしいものが多いんですよね。世界に二人だけならよかったのに」
「……」
「怖かったって言いましたけど、やっぱりそれとは少し違うかもしれません」
「……」
「怖い予感が、していたんです」

そうか。

「それなら良かった」

君のことが漸く少し分かった気がする。

「よくないよ」

ノイは笑った。その声は低くて彼がもう無抵抗で小さな子どもではないことを知った。必死に藻掻いて生きてきたに違いない。誰にも縋れずにたった一人で、生きる自分の価値をも否定しながら自虐して拒食して、けれどその中にある微かな光を探して。

殴ったりしてごめんね。

諦めなければ良かった。無様に求めて彼を愛すれば良かった。

「すまない」

床に座り込んだらノイと目が合った。長い前髪に隠れた切れ長の綺麗な目は初めて見た訳でもないのに鮮やかに焼き付く。

「憶えていて。僕は先生が好きだったけど叩かれるのは嫌いだった」

狭い準備室に二人だけの世界。

「絶対に忘れない」

ノイの目には私しか映っていないし、私の目にはノイしか映っていない。

「それならよかった」

ノイが笑うのを初めて見た気がした。

ローリー

子どもが届けてくれたその手紙を僕は何度も読み返した。なんの前触れもなくやってきたその手紙は、間違いなくあの人の書いたものだった。

『いつでも追い出して良かったんだよ』

あれは本当に脅迫だっただろうか。僕の心を知った上での確信的な提案だっただろうか。彼は僕のモーテルを腐らすことを本当になんとも思わなかったのだろうか。

それとも、何か他に?

僕には分からない。

僕は静かに泣きたくなった。

あの人なら八重歯を見せて笑うだろうけど。

『笑顔をありがとう』

『美味しい食事をありがとう』

笑うだけ笑って、食べるだけ食べて、あの人は騒々しい世界へ消えてしまった。騒々しくて煌びやかでハイテクで知的な、僕のいるところとは全く違う世界。

お金は無理に使ってもみたけど減った気がしなかったよ。

『君の優しい手に触れたかった』

僕はあの人に触れたことがある。廊下で倒れていたから死んでしまったのかと思って思わず触れた。

『こんなにも心地好いラボなら、一生いても良かった』

ずっと一緒にいたかったのは僕の方。隣で難しいことをするあなたをそっと支える人間でありたかった。

好きだからです。

好きだったからです。

客でも契約先でもなんでもない関係ならあの人は見向きもしなかったかもしれないけど、あの人がどこかへ消える前に僕が我が儘を言えるくらいには自由な関係ならよかった。違う出会い方をしたかった。

好きだからです。

『好きだと言ったら、』

『その告白を許してもらえていたら、』

思い出したら泣けるくらい、不毛だと分かっているのに、好きです。

こんな手紙にして風化させるくらいなら、ちゃんと言ってくれたらよかったのに。好きだと言われたら僕は取り乱してしまっただろうけど、互いを喰い潰して別れた今よりはもっと遥かに素晴らしい現在があっただろう。

告白を許さなかったのは僕?

あの人?

仕事の関係だから?

僕は手紙を机に置いて、泣いた。溢れる涙が手紙を汚さないようにと思ったけど、視界が悪すぎて防ぐ手段が浮かばなかった。

あの時に感じた些細な隔たりなんてさっさと破ればよかった。

そうすれば泣かなくて済んだかも。

やっぱり泣いたかも。

好きです。好きでした。

涙で見えなくなった手紙の最後の一文を震える手でなぞる。あの人の気持ちを探るように、辿るように、八重歯を思い出しながら。

好きだと言っていたら、その告白が許されていたら。

きっと僕は泣く。

あの人は笑う。

そんなハッピーエンドの僕たちを夢想して文字をなぞる。優しくなんてない僕の荒れた指先で。

『君を奪っても良かったですか?』

「……はい…」

嗚咽に混ざって絞り出した僕の声は静かな部屋を回って僕にだけ届いて、それに僕はまた泣いた。
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