これから私の眼鏡を『預かっている』という先輩に会いに行く。
気乗りしない。当たり前だ。
『悪ふざけしてる』。
陽平君がそう言っていた。あの紳士的な陽平君がそんな風に言うくらいだから、きっと余り良い先輩じゃないに違いない。
眼鏡は返して貰わなければならない。あれは私の物だし父から戴いたものだから、他の誰かが力任せに奪うことは許されない。だから私はあの眼鏡を取り戻す。
私はこれ以上の口実を与える積もりはない。
詰まらない人間だもの。
私は詰まらない人間なのだとしっかり分かって貰えば良い。
それでお仕舞いにする。
それで眼鏡は私の元へ返って来る。
【取り引き】
あやめは元気いっぱいだった。これから部活動の仮入部に行くらしい。正式に入部する前に部活動を体験できる仮入部は、あやめでなくても多くの人が楽しみにしている。ゴールデンウィークが始まる前までに新入生は順次入部届けを提出していく、その準備だ。
彼女の満面の笑顔を見ると私もなんだか楽しい気持ちになる。
それは牡丹さんの笑みには敵わないけれど。
「だから私ね、ほら、行ってみたい候補を書いておいたの。もし梅香ちゃんが行く積もりのところと同じのあったら、一緒にどうかなって」
「候補?」
「そうそう。興味があること、憧れてること、好きなこと、知らなかったこと。部活はそういう色んなものがあるでしょ。でも選べるのは一つか二つ。よく考えないと後で後悔しちゃうから、私、そういう失敗よくするの。だから候補を挙げてちゃんと検討するつもりなんだ!」
あやめは両手を広げてそう言った。
「私はまだ、考えてなかったな」
部活動どころではなかったのが正直なところだ。牡丹さんと暮らすことが決まってからはその準備で慌ただしかったし、入学式では先生の話しをゆっくり聞いている余裕もなかった。
「そっかあ。そうだよね。入学式あって直ぐに今度は部活のことなんてさ、考えらんないよね。私もね、昨日までそんなの全然でさ、今日頑張ってね、これだけ書いてみただけで、あと部活のアピール大会みたいなのがあるって言ってたし、まだまだ決めるとかそんなんじゃないんだ」
あやめはそう言ってから私に可愛らしいメモ用紙を渡した。キャラクターもののそれは薄桃色で、小さくて丸い形をしていた。
「すごいね。こんなに行くの?」
そこには10個以上もの部活動が書き連ねてあった。
女の子らしい角のない字で剣道部やら物理学部やら書いている。統一感のないそれらが急に目に飛び込んでくると字が踊っているように見えて圧倒される。
「足りないよー。もっと行くよ!」
あやめは迷わず即答した。
彼女のバイタリティの原動力は何かしら。
「そう。楽しみね」
「すごい楽しいよー。ねえ、梅香ちゃんも一緒に行く?」
あやめはメモを見ながら、上目遣いで私の方をちらっと見た。まん丸い目が潤んでいる。長い睫毛がゆっくり上下している。
彼女の瞳が写すのは蛍光灯の光なのに、私にはきらきら光って見えた。
「ごめん。今日は用事があるの」
好意が真っ直ぐ伝わってくるから、罪悪感も強い。
あやめはにこにこ笑いながら「あやまんないでいいよー」と答えた。
「実はさ、私の知り合いがここの先輩で部長してるんだって。私その人とはそんなに仲良くないけど、って言うかその人には嫌われちゃってるんだけど、私その部活には興味あるんだ」
「なんの部活なの?」
私が尋ねるとあやめは「あっ」と言った。部活の名前をまだ出していないことに気付いていなかったらしい。
「文学部だよ」
何、それ。
あやめは、えへへ、と笑って続けた。
「私ね、文学部が本命なんだ。梅香ちゃんは文学部興味ある?」
それって何をするところだろうか。
「文学部は、よく知らない」
それが正直な答えだった。
「そうだよねえ。でも興味あったら来てよ。梅香ちゃんと一緒だったらすごい楽しいと思うから」
「うん。ありがとう」
とても嬉しいことを言われた。
あやめを見ると、恥じらうように視線を逸らして少し頬を赤くしていた。
あやめが照れているところ、好きだな。そう冷静な気持ちで思ったら私の方は照れるタイミングを逃してしまった。悲しいことに私は自分が常と変わらない愛想笑いをしていることを自覚した。
「一番好きなところに一番に行くべきでしょ? だから私は最初の日に文学部に行くの。あなたが本命よ、って正面から言うの。梅香ちゃんと行けないのはすごい残念だけど、文学部に行きたいのは今日だけなの」
愛を語るような口調だ。
あやめは言葉に違わずうっとりした表情をしているから、いよいよそう見える。
「じゃあ、早めに用事が終わったら文学部に行ってみるね」
あやめと一緒ならきっと楽しい、と私も心の底から思った。
「絶対だよ」
あやめが悪戯っ子のように笑った。
あやめが笑うのをもっと見ていたい。あやめの近くでもっと楽しい気持ちになりたい。
「じゃ、私もう行くね」
あやめは大きく手を振って教室を出て行った。
あやめの居ない喧騒に包まれて、私は無性に心許ない気持ちになった。まだあやめの笑い声が聞こえる気がする。
よく笑うところ。頬を赤く染めて照れるところ。明るくて健やかなところ。そういうことの一つひとつに好意を持った。あんなに真っ直ぐで可愛らしい人が居るなんて、きっとご家族は誇らしいだろうと思う。
私はあやめとは違う。
その違うところがきらきら光る。
触りたくなる、あやめはそんな女の子だ。
さっさと用事を済まそう。眼鏡を返して貰って文学部に行ってみよう。あやめが楽しいと思うことを私も体験してみたい。
私は荷物を片付けて教室を出た。
意を決して。
階段を昇って。
2年4組の看板を前にして、私は息を整えた。いよいよだ。きっと大丈夫。その眼鏡は私のものだと言えばいい。
よし。
「ハク、大好き!」
教室に入る少し前、聞き覚えのある声が聞こえた。それは私から眼鏡を奪った張本人のもののように思えた。
顔は憶えていないけれど、この声は。
その人が教室から出てきた。茶色い髪のその人は今風の若い人だった。昨日のあの時の、あの人だ。この声、この感じ、覚えがある。ともすると年下にも見えるその人こそ、きっと私の探していた人だ。
「あの、すみません」
私は心を決めて声を掛けた。
その人はさっと振り返った。
「あの、眼鏡のことなんですけど。藤瑚先輩が持っていると聞きました」
その人は爽やかな笑顔を作った。
あやめに似ていると思った。
「藤瑚ならまだ教室に居るよ。そこね」
え?
その人はそう言ってそのまま何処かへ行ってしまった。
先の口振り、あの人は『藤瑚先輩』ではなかったらしい。しかも私のことを全く憶えていないようだった。昨日あった出来事はあの人にとってはそれだけの些事だったのだろう。
眼鏡を持っているのは別人だ。
その人こそ陽平君の言うところの『悪ふざけ』を嗾けた張本人なのかもしれない。
私は2年4組を覗いて見た。
数人の人が居る。皆自習しているらしい。
ここで引いたら意味がない。今日で終わりにすると決めた。だから眼鏡を返して貰うまでは、或いは『藤瑚先輩』のヒントを得るまでは帰りたくない。
私は教室に踏み込んだ。
「どうしたの?」
声を掛けてくれたのはドアの近くに居た女性の先輩だった。
「藤瑚先輩いますか」
なるべくはっきりと言った。藤瑚先輩とは始めから知り合いだったみたいに思われた方が良いから、当たり前に堂々と呼んだ。それで怪しまれなければ明日には忘れて貰えるだろう。
「中条君」
その先輩は教室の中へ呼び掛けた。
近寄って来た人を見て、その人が『藤瑚先輩』だと理解した。
冷たそうな人だな、と思った。
目線が。刺すようなそれが、とても冷たかった。
「あの、私の『忘れ物』を預かってくださっていると聞いて」
「ああ。一年生の」
藤瑚先輩は私のことを頭から足の指先までゆっくり眺めてから、「こっち、来て」と気怠げに言った。そして私の返事を待たずにどんどん歩いて行く。
あやめとは真逆の人だ。
冷たくて、感情が平坦で、きらきら光って見えない。
「あれ、どうしたかなあ」
先輩はそんなことを言って鞄を探った。
「ねえ、君さ。名前なんて言うの」
「高階です」
「俺は中条藤瑚。2年4組。あの人、伝言をお願いした人から聞いてるかな」
あの人とは陽平君だろうか。
私が黙っていると藤瑚先輩は手を止めて私を振り返った。
「はじめまして、って言った方が良かった?」
そんなことより、眼鏡は。
藤瑚先輩は鞄を探るのを諦めたのか、もう探す素振りさえ見せない。
「いいえ、すみません。こちらこそはじめまして。私は高階梅香です。眼鏡、ありませんか?」
「高階梅香さん。可愛い名前だね。普段呼ばれる時は名前で?」
そんなことより。
「いいえ。あの、眼鏡ありませんか。あれが無いのは困るんです」
私はなるべく困った風に言った。
実際は代わりの眼鏡もあるし実害は無い。けれどもこれ以上只のあの眼鏡の為に全く接点の無かった先輩との繋がりができてしまうのは嫌だった。
強く言って、様子を見ることにした。
「無いみたい」
「え?」
そんな、馬鹿な。
「家にあるかも」
「では、明日また来ます。眼鏡が無いと困るんです。せっかく預かっていただいているのに、こんなこと言ってすみません。でも明日、また来ますから、その時に頂いてもいいですか」
「困る?」
藤瑚先輩は私を見続けている。
私は真っ直ぐ藤瑚先輩を見返した。
藤瑚先輩は私に近付いてから体を屈めて、私がかけている眼鏡の縁に触れた。また眼鏡を取られるのかと思って体を引いたら、藤瑚先輩は追わずに簡単に手を引いた。
「ねえ、桜は好き?」
藤瑚先輩の目には、少し熱があるような気がした。
「この辺の桜は今が見頃だってね。実は今週の土曜日、友達と花見するんだ。君も来ない?」
それは、引き換え条件の積もりだろうか。私は少し敵意を露わにして藤瑚先輩を見た。
「眼鏡は必ず返すよ。それとは別に考えてくれていいからさ、これも『縁』だと思って、まあちょっと付き合ってみるのはどうかな」
縁?
随分と乱暴な『縁』もあったものだ、と思った。
しかし私には藤瑚先輩の本心が全く分からなかった。彼が眼鏡を返すと言ったのが、「花見に来れば眼鏡は返す」という脅しなのか、言葉通り「眼鏡のこととは別で、花見はどうですか」という好意からくる誘いなのか、判然としない。
表情が冷たいから。
目が笑っていないから。
あやめと余りに違う存在だから。
これが取り引きなら誘いを断る訳にはいかないけれど、そうでなければできれば断りたい。その判別は私にはできない。
答えは、決まった。
「土曜日は予定があります。でもせっかく誘っていただいたので、時間が許すだけぜひ参加させてください」
私はそんな半端な答えをした。
私は桜が大好きだ。桜が今週にも満開になることは勿論知っているし、土曜日には散り際の桜がさぞかし美しいだろうと個人的な花見の計画もあった。もし藤瑚先輩が好意で誘ってくださったのなら、私は花見を楽しめばいい。
詰まらない花見なら途中で抜ける。
藤瑚先輩は嬉しそうに笑って「良かった」と呟いた。
その日、その「良かった」という言葉だけが、私が藤瑚先輩の感情らしきものを唯一感じられた彼の反応だと思った。