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山岡 龍貴/初恋

※BL
※拗らせた片想いを指摘されてキレる
※普段は名前、人前では苗字で呼ぶ




2年前に異動したのに、神田さんは今でも西東京支社の人達に歓迎されているらしい。特にパートのお母さん方に人気があるらしく、一緒に居る俺達まで差し入れしてもらえるから笑える。

あれは、マダムキラーってやつだ。

その神田さんは、平野にバイクの乗り方を教えていて、遠くから見ていても確かにいい男だ。

「お前さ」

神田さんを眺めていると、突然、隣に座っている深水が呟いた。

「先週、森田と遊ぶ約束してた?」
「俺はしてないけど。吉田はしてたんじゃねえかな」

そんなことを言っていたはずだ。

「待ち合わせ場所に行ったら、森田しかいなかったんだけど」

ウケるな。

俺が笑うと深水はイラっとした顔で俺を睨んだ。琢磨が見たら怖がりそうな顔だけど、今は琢磨がいないからなんとも思わない。深水は目付きが悪いから、後輩は深水の顔を羨ましがっていたけど、俺にはよく分からない。

俺は琢磨みたいな顔が好きだ。

「お前、吉田と居た?」
「いつ?」
「先週の土曜の午後」
「あー、土曜は授業あったろ。学校に居たわ」
「ハァ?」

深水は多分、学校に来てない。授業サボっておいてこっちの文句を言う辺り、我が儘だよな。

深水は土曜にほぼ登校しない。俺は学校なんてダルい時に適当に休めばいいと思うけど、深水は律儀に土曜ばっか休むから、深水の性格が出ててそういうとこ面白いのに、教師はそれを嫌っている。土曜授業に抵抗してると思われているのかもしれない。深水のは、そんな深い考えじゃねえと思うけど。

先週も授業が終わってから、中澤に深水のことを言われたんだった。その後、琢磨とコンビニで買ったものを適当に食べて、それから、どうしたっけ?

「岩尾は?」

あー、そうだ。思い出した。

「それだ。なんか岩尾がしつこくて、吉田が嫌がったから飯食った後すぐ帰った」
「だったらこっち来いよ」
「吉田の機嫌が悪かったんだよ」
「機嫌とかどうでもいいわ。こっちは森田と二人だぜ」

深水は舌打ちしてタバコの火を消した。

森田はクラスでいじめられてたとかいうんで、琢磨が最近仲良くなった奴だ。琢磨のことだから、理由は同情とかじゃなくて、大好きな京平先輩に関係するもの全部知りたいとか、詰まんないことを楽しくしたいとか、そんなことだろう。

京平先輩が森田を助けたとか、森田をいじめてた連中をシメたとか、一時期話題になったから俺も少しは聞いたことがある。京平先輩を信奉している琢磨は、だから森田のことに興味を持ったのだろう。森田自身の魅力とは関係ない。

俺だって、あの京平先輩のお気に入りなら、会ってみたいと思った。

深水はそういうの興味ないだろうけど。

しかし、現実は違った。

森田は詰まんない人間で、京平先輩が助けたとかいうのも多分勘違いで、琢磨の友達にしてはなんの取り柄もない平凡以下の奴だった。気に掛ける価値のない奴だった。

でも琢磨にとっては、どんなものであっても、京平先輩と関わりのある人間が居たら近付かずにはいられないらしい。馬鹿だからな。

それで琢磨が満足するなら構わない。

森田と仲良くしようとは思わなくても、琢磨を森田から遠ざけようとも思わない。

『俺がいじめられても、京平先輩は助けてくんないよな』

先週の土曜、琢磨はそう言った。

それで岩尾と喧嘩になった。

琢磨にとって森田は、今でも京平先輩の特別な存在らしい。岩尾が否定しても琢磨は耳を貸さない。

森田のせいで、最近、琢磨と岩尾がよく喧嘩をする。俺としては琢磨さえ良ければなんでもいいのに、岩尾はそうは思わないから喧嘩になる。

その森田と二人?

「どうでもいいだろ。そんなの、置いて帰ったんだろ?」

俺ならそうする。

琢磨が森田と仲良くなりたいだけで、俺とは全然関係のないことだ。だから森田と二人ってのは俺一人だけと変わらない。

深水を見ると、もう一本タバコを出して火を点けていた。

そして深い溜め息をひとつ吐いた。

「そういうの、ひでえよな」
「は、何が」

酷いか?

何が?

「お前って吉田のこと好きなの」

深水はそう言って俺を見た。キレた時の猛獣みたいな目付きじゃなくて、もっと複雑な、ちゃんと人間の目だ。だから多分、怒ってる訳じゃないんだろうな。

よくわかんねえ質問。

琢磨のこと?

「好きだろ、そんなの」

当たり前過ぎる。

俺は即答した。

大体、琢磨が好きだっていうのは深水には何度も話している。

「つか、流れわかんねえんだけど」

なんでこんな流れになったんだよ。俺には全然分からない。深水は割とわかんねぇこと言うキャラだけど、今回のは、ほんとに分からない。

「分かれよ」
「ハァ?」
「吉田以外好きじゃねえのかってことだよ。森田と吉田がそんなに違うか?」
「別人だろ」

当たり前の事実だ。

神田さんに聞いても同じことを答えると思う。

「だから、てめぇの好きは、おかしいっつってんだよ!」

深水は何故かキレた。声がでけぇ。

「なんだ、急に。まじでわかんねー」

分かれってなんだよ。

深水って我が儘だし、よくわかんねぇこと言うけど、俺に対してキレるっていうのはレアだ。琢磨にはたまにキレてるのを見るけど。俺とは気が合う方だから意外だしビビるわ。

「お前、吉田とデキてんの?」
「は?」
「そういう好きかって聞いてんだよ」
「は?」
「おかしいだろ。俺が連れて来た平野とは普通に話すのに、なんで森田はダメなんだよ。それって嫉妬だろ」
「ハァ?」
「いま吉田が誰かとセックスしてたとして、お前は別にいいって言えんのか」

何言ってんだ?

馬鹿か?

俺は深水の口からタバコを奪って投げ捨てた。ついでに胸倉を掴んでやる。

「琢磨は童貞だ!」

俺は叫んだ。叫んでから、神田さんの居る方を見ると、二人には聞こえなかったらしくまだバイクに乗っている。俺は決して冷静ではなかったけど、なんとなく、助かった、とだけ思った。

琢磨は童貞。

俺はなんでそんなことを言ったんだ?

深水に目を戻すと唖然としていたし、俺も自分の言ったことに呆然としていた。意味なんてない。事実かどうかも分からない。

そういうの、願望って言うんじゃねえの。

琢磨は童貞。

「悪い。そうじゃない」

俺に同情したのか、深水は目を逸らして優しく否定した。

深水のこういう言い方は初めて聞いたかもしれない。それぐらい不慣れで優しい言い方だった。こいつは女にもこういう言い方はしない。

俺は固まった掌を無理矢理開いて、深水の胸倉から手を離した。

『悪い。そうじゃない』

深水はなんで謝ったんだ?

琢磨が童貞だと聞いてしまったから?

不適切な例えだったから?

琢磨で俺を追い詰めたから?

俺には琢磨のことばかり頭に入ってくる。そんなの、幼馴染みだから当然だ。琢磨だけが俺を変なあだ名で呼ばないんだから、俺だって琢磨を特別扱いして当たり前だ。幼馴染みで、付き合いが長くて、琢磨はたぶん童貞だし、俺のことを頼ってくるし、俺は琢磨のことが好きだし、お互い好きなら仕方ないだろ。

琢磨がセックスしてる訳ない。

だってあいつは童貞だから。たぶん。

でも、もし、してたら?

俺は相手を寝取る。

ああ、それが答えか。

「そうじゃないって、どういう意味?」

俺が尋ねても、深水はこちらを見ずに、力無く足元に視線を落としている。

「お前、マジだろ、それ」
「は?」
「誰か知らない女とセックスしてたら許すのかって聞いたのに、お前、そんなの微塵も信じねえじゃん。それ、恋愛の好きだろ」

『恋愛の好き』

衝撃だった。

俺はまた深水に掴み掛かった。でも深水を殴りはしなかった。できなかった。

「ハァ?」

俺の恋の相手は琢磨か?

「キレてんじゃねえよ。クソ、シャツが伸びる」

深水に腕を掴み返されて、俺は素直に指の力を緩めた。

「恋愛?」
「そうじゃねーの」
「俺は琢磨を好きじゃない」
「馬鹿言え。お前は吉田のこと大好きなんだろ」

そうだな。

でも違う。

「恋愛とか気持ちわりー」

琢磨に対する好きは、そういうんじゃなくて、もっと深くて、時々は喉の奥が詰まるような、でもすげーハイになって抱き付きたくなるような、そういう、見返りを求めない、掛け値もない、深くて、熱くて、簡単には捨てられないものだ。

こんなの、他の誰でもない、琢磨にしかできない。

琢磨じゃなければ、こうはならない。

これは、なんなら、琢磨が居なくても、俺一人だけでも十分成り立つくらいの強烈なものだ。最初に琢磨が三回笑ったら、あとの百万回は俺が笑う。セックスしたいかどうかに行き着く女に対する好きとは全く違う。

ある瞬間、思い出す度、心臓を掴まれるようなこの感情が恋なら、世界はもっと変わっていると思う。

「だから、お前いま気持ちわりぃんだよ」

深水は眉間に皺を寄せて言った。

そうか?

でも琢磨も俺に対して同じことを思っているはずだ。

琢磨も気持ち悪いってことか?

「死ね」

俺が言うと、深水は苦々しく笑った。




【初恋】

平野 頼仁/獰猛跋扈

※ビビりストレート




普通の男子高校生であれば、隣の席に座るクラスメイトの機嫌が悪くて思わず避けてしまうことがあるのも仕方のないことだろう。

「ジョン、元気?!」
「てめぇ……」

そしてここには、そんなこととは無縁の人間も居た。不機嫌なんて関係ない。吉田は確かに他人の不機嫌を吹き飛ばしてしまえる無神経で底抜けの明るさを持っていた。

だいたいなんで深水が吉田に『ジョン』と呼ばれているのか、俺には想像もできない。きっと吉田の中には俺には知り得ない不可思議な回路があるのだろう。

吉田は深水の机の目の前で嬉しそうに笑った。

「おはよう!!」

深水は眉間に皺を寄せて「ああ」と答えた。

俺にはなんとなく深水の機嫌の悪いのが助長されているようで恐ろしくなる。

すっげー怖い。

吉田はなお嬉しそうに笑った。

「ヒカルと仲良くなった?!」

しかしながらその問いに深水は意外にも「ああ」とぶっきらぼうに答えた。森田を殴ってその場を立ち去っても全く違和感無いような容貌で、彼が少し照れたように微笑んだのが分かった。

俺は初めて深水の顔がまあまあ整っていることを知る。

深水は強面なのによく笑う。

「ヨッシーがさ、ジョンとヒカルは気が合うって言うんだよ。だから俺も絶対そうだって思った!」
「なんだそれ」

深水は訝しげに吉田を見た。

登場人物が多くて俺には話しの流れが分からなくなってきた。それにこのまま聞いているのも盗み聞きするようで深水に対して悪い気がする。

「ヒカルと友達になった?」

吉田がそう尋ねて深水は口ごもった。

これ以上は聞くまい。深水のプライベートに立ち入るのはちょっと後戻りできなくなりそうで怖くもある。後で口止めされにひと気のないトイレなどに呼び出されて自分が無事でいられるとも思えない。何せ深水はド金髪をオールバックにする高校生離れした出で立ちなのだ。

俺は静かに席を立って一度教室を離れることにした。

「ねえ!」

俺にはその声が無知で残酷な子供の悪口のように思われた。それは勿論、吉田が無知な子供だという意味ではない。

俺はなるべくゆっくり振り返った。

呼ばれたのは俺ではない、という細やかな望みを託して。

「名前教えて!」

脈絡がない。俺は何故か自分でもどうしてだか咄嗟に深水を見てしまった。助けを求めたのだ。

しかし当然、深水は俺を助けなかった。

「あ、おれ?」

俺が尋ねると吉田は「あはは、ウケる!」と笑った。侮辱されたのか楽しんでもらえたのか判断がつかなかったので、俺は切実に深水に助けを求めた。理由はないけど少なくとも深水には吉田よりは常識が備わっていると思う。

「朝からひとに絡むなよ」

深水はなんと、俺の味方をしてくれた。

俺は心の中で深水に感謝の舞いを捧げた。祭殿の前で半裸でやるような逞しい感じのやつだ。

「名前教えてって言ったらいけないわけ?」

深水には感謝しているけど、吉田が深水と言い合ううちに俺は逃げることにした。吉田は俺を無理には引き止めなかったし、深水も俺を引き止めなかったのは幸運なことだ。

吉田は深水を怒らせて怖くないのだろうか。

まあ、そうなんだろうな。

俺は吉田とは違う。

人間ってみんな違うもんだしな。

俺は勇気ある撤退をした。

教室を出る時、余所見をしていたせいで人とぶつかってしまった。深水と同じくらいの体格の彼はすごく様になる舌打ちをしてきたので、俺は恐ろしくて足早に立ち去った。

俺には舌打ちだけでも十分怖い。




【獰猛跋扈】




昼休み、俺は10分足らずで弁当を食べ終えて自席でスマホをいじっていた。

「平野」

俺の名前を呼んだのは深水だった。朝から変わらず不機嫌で恐怖心を煽る低い唸り声なのは俺の気のせいではないだろう。

「ん、なに?」

隣の席に座るクラスメイト同士として俺達は毎日当たり障りなく無難にやってきた。

喧嘩?

有り得ない。

連絡先交換?

必要ない。

朝の爽やかな挨拶?

まあ、それくらいのことはあったかもしれない。

俺が「うっす」と言って深水が「おう」と答えるくらいのことならば。

だから俺は今、深水に名前を覚えて貰えていたことに感動さえしていた。俺に無関心なのは特別俺を嫌っているからではないし、俺に笑顔でおはようと言わないのは俺を殺したいからでもない。

俺はちょっと愛想笑いしてみた。

「なに?」

うふふ、名前を覚えてくれていたのね、とは伝わらなかっただろうけれども。

「お前って意外と穏やかだな」

深水は半ば呆れるような声音で言った。

初めての会話らしい会話でそれかよ。

「深水も、思ったより穏やかだよね」

俺はついつい言い返していた。確かにそんなことも思った。吉田をぶん殴るかと思ったら深水は不機嫌そうに詰るだけだったから。でも今の言い方では「てめぇなんか怖くねぇよ、カス!」みたいに捉えられかねない。

緊急事態だ。

「ははは!」

俺はなぜか笑っていた。雰囲気を和やかに保つ為とは言え、これでは自分のことを貶めているだけだ。

依然、緊急事態だ。

「深水はもう飯食った?」

俺は自分の発言を発言履歴の中に埋れさせる作戦を起用して先ほどの自分の言葉が深水の記憶から少しでも早く消えることを願うことにした。

深水は「まだだけど」と答えた。

え?

もう昼休み半分終わってるけど。

「つーか、平野ってバイク好き?」
「バイク?」

高校一年生の男子が昼抜きなのかよ。こえーよ。逆になんかボクシングとか格闘技を本格的にやってるっぽくてこえーよ。とは思いながらも、とても口に出しては言えないので、深水の会話にそれとなく合わせるしかない。

俺はちょっと身を引いて深水の動きを注視することにした。

「これから山岡と乗るんだけど、来る?」

これから?

俺はこれから午後の授業だけどお前は違うんだっけ?

「山岡って誰だよ……」

俺はそれを言うので精一杯だった。もう息切れしている。深水のスピードに完全に付いて行けてない。トラック半周くらいは遅れを取っている。

俺は平静を装って深水をじっと見た。

攻撃されても、致命傷は避けたい。

深水は「知らねえってことねぇだろ」と呟いた。

いや、山岡って誰だよ。

俺は自分の失敗を悟った。深水には常識があるのだから、こんな風に笑って誤魔化して忘れて貰おうとしなくても、はっきり言って理解を得れば良かったのだ。

深水は午後の授業を受ける気がない。

『山岡』も授業を受ける気がない。

昼食はこれから外に出て食べる積もりだ。

そして『バイク』に乗る。

好きか、と聞かれたのだから、違うと答えれば良かった。嫌いではなくてもそれと好きとは全く異なる。ましてや相手は物怖じしないどころか物怖じさせるのが常の深水だ。曖昧に答えるべきではなかった。

「お前は、飯は?」
「俺は大丈夫。もう食った」

俺は深水の誘いを断れない、と覚悟した。

それから深水は山岡に電話して、学校の敷地を出たところで合流することになった。相手も当然午後の授業を受けないらしい。

サボる、ということだ。

「山岡!」

深水の呼ぶところ、山岡は居た。

見たことある。

今朝の、舌打ちの男だった。

俺は恐怖に竦むのがバレないように「はじめまして」と冷静でいる積もりで自己紹介してみた。

「おれ、平野です」
「ナニソレ。気持ちわりーな」

え?

俺は自己紹介して気持ち悪がられるということに慣れていなかった。たぶん俺だけではないと思う。初対面ではなくてもちょっと面識がある程度の人間同士だったらお互いに自己紹介するべきではないのか。

それとも声?

挙動?

俺は余裕を見せる為に笑ってみた。

「ははは、うるせえよ。お前も自分の名前言えよ」

笑う以上のことをしてしまった。

まさかとは思うが、これで山岡が怒って俺を追い払ってくれたらそれはそれで嬉しい。俺を紹介した深水には悪いけど、俺だっていきなり流れで授業をサボることになったんだ。

「ああ、わりー。俺は山岡な」

山岡は素直に自己紹介した。

受け入れられてしまった。

なんてことだ。

「山岡かー。たぶんクラス違うよなー」

俺は現実逃避したくてなんでもないような態度で言葉を返した。言葉に意味なんてない、脊髄反射のオウム返しだ。

深水は整った歯を見せて笑った。

「お前面白いよな」
「はあ?」

駄目だ。上手い返しが思い付かない。

うふふ、どこが?

なんて聞ける訳もない。隣の席の深水に気持ち悪がられたらたぶんもうやっていけない。彼女気取りのブスかよ、ってクラス中で笑われることになったら高校生活では友達が一人も作れなくなる。

内部進学したら大学でも友達ができなかったりして。

さみしい。

俺はあくまで硬派な男の振りで深水を睨んだ。

ごめん、深水。

「取り敢えず行こうぜ。飯は神田さんが奢ってくれるって」
「ラッキー」
「大濠橋で待ち合わせてるからそろそろ、あ、電話きた」

山岡は電話に出ると「いま学校出るところです」と、敬語で話していた。

神田さんとは誰なのか。校外で待ち合わせているところを見ると在校生ではないらしい。そして山岡が敬語を話すような立場の人。食事を奢ってくれるような人。高校生に学校をサボらせてバイクに乗せるような人。

俺は、神田さんが堅気であることを願った。
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森田 光/白い夢

繋いだ同級生の手が男らしくて驚く。

長身で強面の男性の手を引いて警察官から逃げる僕。その直前に僕はその人の前で泣いてしまったことも忘れてはいない。情けないったらない。

どうにも説明できない状況だ。

「お前、大丈夫か」

僕の背中にはそっと手が添えられた。

それもまあ当然と言えば当然のことかもしれない。

僕は泣く程感情が高まった直後に全力疾走したおかげで、運動不足の身体が悲鳴を上げて息が切れて変な呼吸音は鳴っているし脂汗は出るし、運動したというのに悪寒がして指先が冷たくなっているし、そんな風に明らかに普通じゃなくなっていた。

不良に心配される僕。

やっぱりどうもよく分からない。

「……」

返事をするのも億劫だ。

けれども僕は身体に鞭打って歩く決意をした。これ以上心配を掛けたくないから。あとは今一緒に居るこの時間が途轍もなく気まずいから。

それに身体が痺れるくらい疲れてる。

ああ、寝転びたい。

「どっかで休むか。走って俺も疲れたわ」
「い、いい。あの、大丈夫だから」

とても大丈夫には見えないだろう。

「満喫行くか。あそこに見えてるし、もう少し歩けばもっとあるかもしれねえし。まあどれも一緒か」

断ったのに、話しが続いている。

また断った方がいいのかな。どうしよう。帰りたいのに。

それに、なんか、見られている気がする。直視できないから確認はできないけれども視線を感じる。こんなに直ぐ近くに立っているから当たり前か。じゃあどうしたらいいんだろう。

なんだろう、この状況は。

背中に置かれた手はさっきまで僕と繋がれていたのだっけ。いや逆の手だったかな。

なんかよく分からなくなってきた。

これってどういう状況なの?

なんでこんなとこに居るんだろう。

身体が重い。

「横になりたい」

あ。吉田くんは?

遊ぼうって言ってたのに。

なんでこんなことになったんだろう。

「あー、じゃあホテルで休む?」
「へ?」

上擦った僕の声に、向こうの方が驚いたかもしれない。僕だって驚いたくらいだし。

「横になれる」

な、なに?!

横になるってなに?!

「あ、ぼ、ぼ僕は、あ、えっと、えっとあの、あ、ああいや、あの」

ホテル?!

横になる?!

えええ、横になる?!

「歩けるか?」

背中にあった手を腰に回されて、身長差の為に彼の身体が僕に覆いかぶさる体勢になった。

わ!

え!

な、なん?!

なんで?!

「帰ります」、とそう言おうとしたとき、僕の視界は真っ白になった。ただの立ちくらみかと思ったけどそうではなく、視界が真っ白のまま身体から力が抜けて立っていられなくなった。

ホテルは嫌だ!

帰りたい!

もうやだ!

そして僕は気絶した。

ゆらゆら揺れて目を覚ます。

……背負われている。

おんぶ、だ。

エレベーターに乗っている。目的の階らしいところで降りたら、そこはホテルみたいな場所だった。

「……」

ほ、ほて、ほほホテル?!

え!

え?!

カードをかざすとロックが解除された。軽い屈伸で僕を背負い直すと迷いなく部屋に入っていく。そして僕はベッドに下ろされた。

「あ、起きた」

目が合った。

どうしたらいいの?

なんて言うべき?

寝た振りをしても事態が好転することは無いだろうから、これで良かったとは思う。でも彼の視線には耐えられない。

「あ、かかか帰ります」
「は? 何言ってんの? 休んでけよ」

なんでこうなったんだろう?

なんで?

なんでなんで?

起き上がって帰ろうとしたら立ちくらみがした。正確には上体を起こしただけなので立ちくらみではないかもしれないけれど、起きていられなかったから目を瞑って右手で身体を支えた。大丈夫、直ぐに治る。

でも、それは突然。

強い力でベッドに押し倒された。

何?

くらくらする。

目を開けると、顔があった。綺麗な顔。

直ぐにそれは彼が僕に跨って僕の両肩を押さえ付けているからだと理解した。僕よりずっと大きい身体が上にあるから、蛍光灯の光が洩れ注いでくるようだった。

虎だと思った。

黄金に輝く毛並みを持つ美しく恐ろしい猛虎が、僕を見下ろしている。

「お前さぁ、俺の名前わかってる?」

質問だった。簡単な質問。

名前?

名前。

「……」

それは答えられなくて当然だろう。僕は吉田くんの友達であって目の前の不良っぽい同級生とは友達ではないし、僕が彼に「森田光です」と自己紹介したことはあってもその逆はなかった。

僕はサイキック男子高校生ではない。

知りようがない。

僕の両肩を押さえ付けていた両手が今度は僕の両腕を掴んだ。怒らせてしまったのか少し痛いくらいにその手に力が込められている。

怖い。

正直、怖い。

「名前を覚えてほしけりゃ自分から名乗れ!」とは言えない僕は、そっと目を逸らした。

「俺のこと怖いの?」
「……」

怖いよ。でもそんなことは言えない。

「こういう場所で、何するか、知ってる?」

虎の目は、きっと僕を見ている。舐めるように、僕のことを見ている。

「なあ、聞いてる?」

聞いてる。聞いてるに決まってる。

「風呂に入ろうぜ。もう湯は張ってあるから」
「な、ななに」
「知ってんだろ。初めてなの?」
「ちちちち違う」
「へえ。意外。じゃあもう遠慮しなくていいんだ」
「違う!」

何が違うんだ。

僕は頭の中ではすらすら言葉が出るのに、口からはおかしな吃音ばかりが出てくる。

彼は何がしたいの?

何をしたいの?

「ふかみ、くん」

僕が言うと彼は手で僕の腕を押さえ付けるのを止めた。大きくてごつごつした男らしい手は丸で僕のことを優しく包容するかのように僕の頬をゆっくり撫でた。

こんなのはおかしい。

「なんだ。名前知ってんじゃん。焦らすのうまいね」

違う。

何もかもが違う。

それでも彼が心底安堵したように、母の胸で眠る子供のように安心した表情を見せたから、僕は途方に暮れてしまった。

「悪い、変なこと言って。全部忘れて。あー、せっかくだから俺はちょっと寝るわ。あんま寝てなくてだりぃ」

大きな身体が寝転んでベッドが軋んだ。解放された僕の身体は途端に軽くなった。

「お前、帰っていいよ」

そう言われて僕はゆっくり上体を起こした。

虎を見る。

閉じられた眦の裏には、あの鋭い眼光が今も光っているのだろうか。

「僕と友達になりたいの?」

なんでそんな不遜なことが言えたのか、それは僕にも分からない。

僕は虎を見る。

虎も僕を見た。

「……」

今度は、黙るのは向こうの番だった。

「意地悪されるのは慣れてるんです。クラスでいじめられてたから。本当に嫌われてるなら、分かりますよ」

僕のことを嫌っている人、影響されている人、楽しんでいる人、詰まらなそうな人、そういうのがなんとなく分かるようになった。

この虎は、そのどれとも違う。

「ああ」

彼の溜め息みたいな相槌は、なんだか大人っぽかった。

「寝よ」

僕はそう言って薄い掛け布団を捲って中に潜った。中はひんやり冷たくて気持ちいい。

暫くすると大きな身体が隣に並んだ。体温が伝わってきて温かいから緊張してた筈の心がリラックスできてうとうとする。

「森田、俺の名前呼べよ」
「ん?」
「寝ぼけてさっきの忘れる前に、俺の名前」
「んー、名前しらない」
「はぁ?」
「自己紹介しないもん」
「俺がってこと?」
「んー」
「深水譲。譲でいいよ」
「ん」

なんか、うるさい。

「譲」
「んー」
「なあ、お願い。呼んで」
「よー」
「ああ、おしい。譲だよ。譲」
「よー。んるさい」
「ごめん。でも名前呼んで欲しいんだ」
「じょー」
「……うん。おやすみ」

その日、僕は深水と抱き合う夢を見た。


【白い夢】
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深水 譲/お巡りさん、こっちです

森田と初めて会ったのは、実は森田と吉田が知り合うより前のことだった。森田がそれを忘れているのが明らかで、俺にはそのことがなんとも気持ち悪い。

「吉田くん、遅いね」

森田が言った。

森田の声が震えて聞こえるのは気のせいじゃないんだよな。

「どうせ岩尾のせいだろ」
「え。あ、そうなの?」

森田が俺を見た。

見て、目が合った途端に逸らされた。

なんつーか、虎と初めて会ったウサギの目、って感じ。怖いことだけ知っていて、あとは何も知らない、怯えた目。

「あいつら待ってても来ねえよ。お前、どうする?」

俺が尋ねると森田は視線を泳がせた。

「どうって。えっと、もう少し待つよ。ぼくは一人でも大丈夫だよ」

は?

なんか、よくわかんねえ。

お前を一人にする心配なんてしてねえよ。なんで俺がお前を一人にして大丈夫じゃねえとか思わなきゃいけねえの。もう来ねえよ、吉田は。森田に懐こうとする吉田に、岩尾が嫌がらせでもしてんだろ。ここに来ようとする吉田を邪魔してんだろ。

「だりーじゃん。どっか店入ってようぜ」

俺がそう言っても、森田は気が進まないのか、いい返事をしない。

「あぁ、俺と居るのが嫌か?」

俺が聞くと、森田は慌てて否定した。

「違うよっ、違う。でももし吉田くんが来たら困るから。僕がいないと。約束したから、ぼ、僕はもう少しここで待ってるよ」
「約束を破るのがあいつらなんだよ」
「そうとは限らないよ」
「そうなんだよ!」

あいつが時間通りに待ち合わせ場所に現れたことなんて一度もない。なんとも思ってねえんだから、待ってた方が損だ。この状況で吉田を待つのは注文してないハンバーガーを待ってるようなもんだ。

俺が強めに言えば聞くだろうと思ったけど、森田は頑なにその場を離れようとはしない。

「意味ねえから。だいたい遅れて来るなら連絡入れるだろ、普通。連絡来たらどうせまた違う場所で待ち合わせんだし、時間がムダだろ」

それがいつものこと。

吉田は遅刻するし、岩尾は遅刻させるし、山岡は遅刻を咎めない。あいつらみんなそういう人間なんだよ。

バカみてえじゃん。

「や、約束は、破りたくないんだ」

森田の声が震えてる。

俺が怖いんだろ。ビビッた声出しやがって。

「2時にここに来たんだから、お前は約束破ってねーじゃん」
「で、でで、でも、『待ち合わせ』たんだよ。あ、会えてないのに、連絡がないのに、ここ、ここから離れるのはダメだよ」
「約束の時間に待ち合わせ場所に来ない。理屈はそれだけだろうが?」
「ち、違うっ!」
「ぁあ!?」

森田はもう泣いてんじゃねえのってくらい震えた声で、弱った声で、話し続けた。

「や、や、約束した場所には、人がいないとダメなんだよ!」
「は?」
「待ってくれる、ひ、ひ、人がいるから、ま、待ち合わせるんだよ。じゃ、じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、吉田くんはこれから先も絶対に時間を守らない!」
「現実を見ろよ。あいつらは来ねぇ!!」
「それでいいよっ!」
「はぁ!? 何がいいんだ!?」

森田は俺を見た。

怯えたウサギの目が、それでも必死になんか言ってんの。

あーあ。

「あ、あ、あの、わ、分からなかったら、いいよ。ぼ、ぼ、ぼ、僕は、こ、ここ、ここで待つし、吉田くんには、その、そ、それを、し、し、知ってもらいたいから」

泣かせてやろう、って思った。

俺のこと忘れやがって、俺のこと怖がりやがって、時間を守った俺のことには触れずに森田は吉田のことばっか喋ってる。

よしだ、よしだ、よしだ、よしだ。

吉田しか友達じゃねえのか?

俺じゃ意味ねえってツラで。

ああ、なんだ、そういう意味かよ。俺は怖いし馬鹿で連むのは御免ってことか。

「うるせぇんだよ!!」

俺は森田の胸ぐらを掴んだ。森田から女のもんみたいな悲鳴が聞こえて、俺には、それが、たまんなかった。支配してる感じ。屈服させてる感じ。縛って善がらせて力が入らなくなるまでいじめてる感じ。泣いて謝らせて逆らう気力も奪ってやった感じ。

森田の目から、涙が、落ちた。

森田の身体がガクガク震えてんのが分かる。声も出ないくらい怯えてんのが分かる。

あー。

すげぇ快感が俺の全神経を走った。

これって、欲情、って言うんじゃなかったか。

「おい、てめぇ、俺を見ろ」

思い切り怖がらせるつもりで低い声を出した。ケンカする時の声。山岡に『吉田が怖がるから、吉田の前では使うな』と言われた声。

森田は、でも、目を逸らした。

逸らしたと言うより、何かを見たような感じだったから、俺も森田の目線の先を追った。

警官が居た。

こっちを見て、明らかに俺達の様子を見て、方向転換して近付いて来た。

めんどくせぇ。

逃げるか、いつもみたいに?

休日に同級生と待ち合わせただけなのに?

どうするか迷っている時、手の中の森田が急に動いた。森田は隙をついて俺から逃げる気だ。今逃げられたらもう二度と捕まえられないような気がして、俺は警官に補導されてでも森田を手放したくはないと思った。

森田の服を握る手に力を入れた時、森田は俺を見た。

なんでか、初めて目が合ったように錯覚した。

「逃げよう!」

森田は、さっきまで自分の胸ぐらを掴んで脅し掛けていた筈の俺の手を取って、そう言った。

「早く!」

森田が前を走った。

俺は森田に手を引かれながら付いて行く。

走っているあいだに俺の神経を支配していた快感は引いていった。

後に残ったのは、鼓動。

大した距離を走っていないのに息が切れる。疲れた訳ではないのに心臓が強く脈打つ。

森田が俺から離れなかった。その単純な事実が現実的な俺の思考を混乱させる。森田は俺みたいな人間を敬遠していた筈だ。あの捕食される寸前みたいなウサギの目は演技ではなかったと思う。だって森田は最後には泣いてた。

なんだ、あれは。

なんだよ、これは。

昂ぶった身体は冷めたのに、まだ森田を求めてる。

確かに警官を見た瞬間に気分は萎えたが、それでも森田をもっと泣かせたいっていう感情は残っていた。それが、今は、違う。

欲情、じゃない。

支配欲、じゃない。

独占欲、じゃない。

嗜虐、じゃない。

庇護欲、じゃない。

なんつーかな、これは、確か、あれだ。

好き、だ。


【お巡りさん、こっちです】
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真井 良平/別れの足音

綜悟さんと話していると今まで分からなかったことが分かる気がする。綜介と話していると時々は同じように何かが分かる気がする。

綜悟さんに会った。久しぶりに会って少し緊張した。

「緊張してたろ」

京平は鳥肉を焼きながらそう言った。

「うん。した」

俺の方は酷く緊張したけれど綜悟さんはそんな風には見えなかったし昔と変わらず優しかった。綜悟さんは優しげに笑って俺と握手した。

京平はふふ、と笑った。

油の跳ねる音と一緒に香辛料の香りが辺りに広がっていく。京平はそれをゆったり眺めていた。

俺が朝来を好きになった頃、きっと京平も同じように綜悟さんを好きになったんだ。俺が綜悟さんをちょっと憎むように京平も朝来をちょっと憎んでいるのだろうか。

俺はもう京平とは違う人間になってしまった。

京平はいま何を考えているのだろうか。

綜悟さんのこと。

それとも只の違う人間同士に成り下がってしまった俺達の未来のことを考えているの。

「ダンテって店には今も行ってるの」

ダンテは綜悟さんが通っている店だ。ゲイバーだとは聞いたが俺は行ったことがない。俺が朝来と二人で会うようになって彼女を京平とは会わせたくないと思い始めた時、たぶん京平も俺の居ない所で綜悟さんと二人で会うようになったのだ。

こんなの、良くない。

同じで在るべき俺達だ。

俺が京平の求めているであろう食器を用意した頃合いを見計らって京平は鍋を火から上げて鳥肉を皿へ移した。

「ああ、うん。そう言えば。週末に魚住と会おうと思ってるんだけど、お前、会う?」

魚住って。

魚住は、ぐずぐずした区立中学校の生徒だ。

「まだ会ってたの」
「だってあいつ面白いじゃん。会いたいって言われたら断れないんだよね」

確かに面白くはあった。

綜悟さんは一族に跪くけれど、それは飽くまで人の上に立つ支配者の姿だ。俺達は何時でも綜悟さんに従順だ。

魚住は人の足元を這いつくばっている。魚住は何時でも誰かに隷従している。

「いつ会うの」
「お前が時間ある時でいいよ」
「じゃあ明日がいい」
「明日?」
「生徒会は暫く無いし、新しい企画は駄目になったし、朝来は放課後どっか行っちゃうし、お前はあの家に行ってるし」

俺達は変わってしまった。

「大丈夫か、お前」

京平は綜悟さんが好きだし、きっとあの家に行っても緊張もしないし、俺はもう学校で京平の代わりに成れるとは思えなくなってしまったし。京平は、良平にも京平にも成れる。

京平は俺の肩を掴んだ。

京平の目が俺を見る。

俺は自分の顔が嫌いだ。だから京平の顔も嫌いだ。見ていると心の底から不愉快な気持ちになる。

京平とキスすると、それでも、なんで落ち着くんだろうか。

俺は京平にキスした。

煙草の臭いがした。

京平は変わらず俺の目を眺めた。

「なに」

ああ、変わったのは俺だろうか。

俺は京平が憎かったけれど俺達二人のことは好きだった。俺は自分に瓜二つの弟が居ることが誇りだった。あの家にも二人でなら顔を上げて前を見て入れた。

今は違う。

変わってしまった。

「良ってほんとキス好きだな」

京平はふふ、と笑った。

俺は朝来が京平に取られてしまう気がして空恐ろしくなった。


【別れの足音】
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九鬼 瑞穂/ ちっぽけな矜恃

俺は綺麗なものが嫌いだし傲慢な人間が大嫌いだ。伊佐木賢太は綺麗でいて傲慢なのだから俺にとっては最悪の存在だろう。

「嫌なら付き合うことねえよ」

秋津は吐き捨てるように言った。

俺の嗜好を把握している秋津はその上でそう言ったのだと思う。綺麗事だらけで傲慢な伊佐木は俺が交際する人の中には居ないタイプの人間だ。できればかかわりたくもなかった。

しかし俺は伊佐木が憎めないでいた。

伊佐木は悪意というものを持っていない。

「秋津こそ、俺に付き合うことないよ」

ここのところ俺は伊佐木に勉強を教えている。授業の後に1組の教室に行くと伊佐木が眞木と教科書を広げて待っている。それを見てしまうと俺は彼らを裏切れなくなってしまう。

自分の勉強もあるのだけれど、彼らと居るのは苛立つのだけれど、秋津はその所為でここのところ不機嫌なのだけれど、俺にとっては少しもメリットがないことのようなのだけれど、しかしそれでも俺は1組の教室へ向かってしまう。

必要とされているからだ。

彼らが俺を待つからだ。

嗚々、こんなちっぽけな矜恃なら、捨ててしまいたい。

「俺は、あいつらと友達だったんだよ」

秋津は突然そう呟いた。

「知ってる」

むしろ俺は彼らと友達である秋津しか知らなかった。同じクラスになってとても厭な心地がした。話し掛けられた時は秋津が想像するよりも深刻に嫌悪した。

彼らは強いる。

彼らは上で嗤い俺は下を這う。

「キュウが嫌だって言えば、あいつら逆らえねえよ。俺だって、お前がそう言えば、簡単なんだ」

『簡単』とは。

嫌いだからさ、なんで一緒の時間を過ごすんだろうって思うこともある。

大嫌いだからさ、話し掛けられただけで暴力的な衝動に駆られるこももある。

でもこれは『簡単』なことでは決してない。人間の感情は並めてそうだろう。彼らにしたってそうだろう。

「嫌じゃないよ」

それは流石に嘘だけど。

秋津は不満そうに俺を一瞥して、さっさと荷物を持って教室を出て行った。

「切り札は取っておくよ」

俺は秋津に言ったけれど聞こえていなかったと思う。教室に残っていた何人かは俺を見たけれど直ぐに興味無さそうに視線を参考書や問題集に戻した。

俺も少し前まではそうだった。

寄り道せずに歩いて来た。

俺には最短距離が見えていた。他人には苦しくて詰まらない道を進んでいるように見えてもそれが最後には一番楽な道程だと思える確信があった。

今は迷っている。

地図を見れば正しい道は直ぐに分かるのだけれどそうしないでいる。

酒を飲んだみたいに浮かれてふらふら揺れながら鼻歌交じりに寄り道している。

伊佐木が俺を見て笑うとさ、それは俺にはなんだか甘い誘惑だと思えるんだ。必要とされるのって嬉しいんだよ。俺は知らなかった。性欲の薄い俺にとってはそれが性的快楽にも劣らないものだと思えた。

俺は今日も1組に行く。

伊佐木は今日も俺を待っていた。


【ちっぽけな矜恃】

美木 綜介/嫉妬する悪魔

階段下に連れ込まれて言われることには。

「お前って良平に似てるよね」
「えー?」

京平さんの表情は嵐の前の様な不気味な静けさを湛えている。良平さんのことになると異常な執着を見せる彼のことだから、深くかかわらない方が良いに決まっている。

「えーと。どの辺りが、ですか」

容姿が瓜二つの双子に似ていると認定されるくらいなら、それはちょっと自慢できるレベルだと思う。俺の色白の肌は、まあ割と似ている気もするけれど。

京平さんは俺のネクタイを強く掴み、引き寄せて、断言した。

「顔」

首が絞まるのも嫌なので自ら歩み出た形ではある。

「かおですか」
「綜悟さんにも似てるけど」
「京平さんの方が似てま、す」

京平さんは俺の言葉を遮るように急に顔を近付けた。距離は凡そ15センチ。京平さんからは微かに良い匂いが漂ったのでちょっと変な気持ちになった。

「俺と良平は似てるんじゃなくて、同じなの」

怖い。こわいこわい。

人を殺す為に生まれてきた凄腕の傭兵だって、京平さん程凶悪ではない。パーフェクトと評される笑顔がその凶悪さを際立たせている。

悪魔って、こうやって人間の世界に潜んでいるのかな。

「あー、たしかに」

俺は無闇に抵抗せずに首肯した。

彼らのうち一人は美木の家に来る。残りの一人はその予備だ。

彼らが『同じ』なら、美木はどちらか一人を選ぶ必要はない。どちらでも『同じ』なのだから、それは彼らが自由に選んでどちらか一人が美木の家に入れば良いのだ。しかし彼らが違ったら、どちらが『優れている』かを判断する必要がある。

京平さんも良平さんもよく似ている。

二人とも同じ様に優れている。

「同じだろ、俺たちは」

京平さんはそう呟いてから視線を逸らして俯いた。それは自分の言葉を自らに言い聞かせるようだった。

彼らの外見はよく似ている。『同じ』と言って良いと思う。しかしその内側はどうだろうか。

同じなら京平さんは喜ぶだろう。

違えば彼らは死んでしまうに違いない。

「そーですね」

京平さんは俺を解放して立ち去った。良平さんより少し遅い足取りだった。


【嫉妬する悪魔】

笠木 征治

恋人とラブホに行って、ヤりたくないと言われる。

これってよくある出来事なのだろうか。

喧嘩して雰囲気が悪かったことは認めるけど、それをセックスでチャラにするのがむしろお決まりの展開ではないのか。そう思うとどうしても苛立って、紘平を見る目に力が入る。

その紘平は。

「なに泣いてんの」

紘平の目には涙があった。

俺は煮え滾っていた怒りを忘れ、酷く情けない気持ちを抱いた。

紘平が泣くのを初めて見た。それは嬉し泣きでも悲しみに泣いたのでもなく、恐らく俺に暴力を振るわれたことに因る。

「泣く程嫌だったのかよ」

そうなのか?

俺のことを嫌いになったか?

不撓不屈の風紀委員長が男に押し倒されて泣いている。笑えるね。

仰向けで俺にマウントポジションをとられている紘平は、それでも俺から1ミリでも逃げようと上半身を捻って抵抗している。必死じゃん。しかも泣いてる。

年下の恋人をこんな風に泣かせてしまった自分自身の情けなさに、笑えるね。

手で掴んでいるさらさらした紘平の黒髪を強く引っ張ってやると、紘平は顔を歪めて長い睫毛を涙で濡らした。

「舌、出せよ」

なんでそんなことを言ったのかと言えば、そんなのはただ振り上げた手を下ろせなくなっていただけのこと。殴る素振りを見せて結局殴らないのは格好悪い。

誰かがこれ以上は止めろと止めてくれたら、素直に聞いてやらないこともなかったけど。

「小学生の時のこと、話しましたっけ」
「は?」
「僕が小学生の時、いじめられてて」
「慶明生に?」
「塾の人に」

なんだ、急に。

紘平は如何にも惨めな顔で話し始めた。

紘平はなんでも熟す優等生だったし中等部役員を務めて悪いところを探す方が難しい典型的な良い子だった。忍野先輩とのことでは意見が別れるけれど、風紀委員長になった紘平はなかなか好評であるというのが大勢的意見である。

いじめなんて初耳だ。

「それで」

続きを、早く。

「それで……、ホモかもって思ったんです」

何言ってんの、こいつ。

ちょっと頭おかしいところは前からあったけど、こういう怖い系のおかしさではなかった。紘平は自分がゲイだとけっこう簡単に明かした。そういう時には確かに普通じゃないとは思うけど、今はなんか違う。

紘平は目を伏せた。

紘平は手だけじゃなく声まで震わせている。

「悪い風が吹けば、良い風も吹く。悪いことは起こるけどきっと良いことも待ってる。僕はそう思って今までやってきました。ねえ、笠木さん、今から起こることの先にどんな良いことが待ってますか」

紘平の頬には涙。

俺の頬にも涙。

この先?

そんなの知らねえよ。

なんかすげームカついた。紘平の人生はまだ15年も経ってないのに、全部分かった様なことを言いやがって。

でもそれが痛いくらい心を突き刺す真に迫る言葉だったから、心を打ったんだろう。

貰い泣き。

格好悪いよな、俺。

俺はさらさらした黒髪を手離した。それは滑りがよくてあっさり手から零れ落ちてしまった。

紘平は上半身をうつ伏せてそれ以上何も言わなかったし、俺も同じだった。

真正面から吹き付けていた向かい風が止んだ気がした。
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宇津木 紘平

捨てられた経験はないけど、こんな感じなんだろうと思った。笠木さんは凄く怒っていて、その原因は間違いなく僕なのだけれど、何が悪かったかと思い返すと特に思い当たらない。

「笠木さん」

呼んでも振り返らない。

「笠木さん」

僕はきっと捨てられたんだ。

「僕とは別れたいってことですか」

もう嫌だ。面倒だ。笠木さんは良き理解者なのだと思っていたけれど、そうではなかった。

僕が湊さんと変な噂を立てられたからか、委員会の仕事を優先していたからか、それとも性癖の不一致とか、考えられる原因は多々ある。他にも、笠木さんはこれから進学のことで一段と忙しくなるし、最近の昼食を一緒に取るだけのままごとの様な関係に嫌気が差したとか。

「分かりました」

こういうことばかりだから。

付き合って互いに嫉妬するなんて経験がない。

「別れたいなんて言ってねえ」

顔を上げると笠木さんが居た。別れたくないと言ってもその表情は可成り険しい。寧ろぶっ殺すとでも言われた方が納得できる。

「でも凄く怒ってますよね」

笠木さんはまた眉間に皺を寄せた。

「お前は、どうしたい?」

どうって。

言われても。

「分かりません」
「は?」
「笠木さんが別れたいって言うなら、僕には引き止める権利はありません」
「権利?」
「だから、別れるなら、そう言ってください」
「俺はお前にどう思うんだって聞いてんだよ」
「どうって」

分からない、そんなもの。

「セックスしたい」

そう言うと笠木さんは僕の胸倉を掴んだ。殆ど殴るみたいに掴みかかられたから勢いで一歩後ろへ下がってしまった。

その鬼の形相を見ながら、僕の内心は暢気だった。

最後にヤったの何時だっけ?

「ここで犯すぞ、てめぇ」
「それはちょっと不味いと思います」

笠木さんは僕をど突いた。

僕は2歩、3歩と後ろに下がり、最後にコンクリートの塀にぶつかった。受け身を取ろうと突いた手にはざらざらとした不快な感触がある。

「ヤりたいんだろ?」

それは、まあ。

笠木さんは恋人を扱う様にキスしたり抱いたりするから、僕は幸せを感じられた。欲望だけではないセックスはもう笠木さん以外とはできないと思う。笠木さんぐらい優しい人としか。

「すみません」
「何がだよ」
「やっぱりもう帰りましょう」

笠木さんは僕を塀に押し付けた。

苦しい。

息苦しい。

僕はそこで笠木さんとセックスしたくないと思い直した。

何時もは優しく触れるその手で、今日はきっと殴られる。愛おしそうに舐める舌で、今日はきっと唾を吐かれる。快楽を与えるてくれるそれは、今日はきっと僕を引き裂く。

乱暴に抱かれたら僕は立ち直れない。

笠木さんはにやっと笑った。

「俺はお前とヤりたくなってきた」
「じゃあ、ホテル行きますか」

笠木さんは僕を引き摺ってホテルへ行った。時間が早かったからかけっこう部屋は空いていた。笠木さんは前に入ろうとして諦めたSMプレイのできる部屋を選んだ。

僕は強烈に彼と仲直りしたいと思った。

部屋に入るとバッグをその辺にやって僕はシャワー室に放り込まれた。

服に手を掛けると、掌には砂が付いていて、ブレザーもけっこう汚れていることに気付いた。のろのろと服を脱ぎながら僕は未だに笠木さんとの仲を戻す方法を模索していた。例えば彼と一緒にシャワーを浴びて謝れば今日のことは全て水に流せる気がする。

尻を触ろうとして、止めた。

笠木さんが来てくれたら、笑って僕に触れてくれたら、焦らしながらも愛のある強引さで昂らせてくれたら。

僕は身体を軽く拭いて部屋に戻った。

笠木さんは目も合わさず無言で入れ替わりにシャワー室に入った。

望みはなかった。

現実は今この時だ。

僕は一人でベッドに寝転んだ。鏡張りの天井には腰にタオル一枚を掛けただけの惨めな男が写っていた。

ここで何をしようって言うんだ。

別れることになっても良い。今日は笠木さんとヤりたくない。仲直りなんて不可能だ。

帰った方が良い。

僕は慌てて服を集めた。

シャワーの音が止んだので急いで下着に足を入れてシャツに腕を通した。ズボンを履こうと屈んだ時、ぐんと後ろに押し倒された。

「何やってんの」
「あ、すみません」
「帰んの?」

笠木さんは僕を見下ろした。

怖い。

「帰った方が、良いんじゃないかと思って」

笠木さんは僕の上に跨った。そして2つだけ留めてあったシャツのボタンを寛げようとした。

僕はその手を掴んで制止した。

「手が、震えてんな」

笠木さんに言われた通りだった。僕の手はぶるぶる震えて握力も余りない状態だ。

「シャツ着たままじゃ乳首舐めらんねえよ? 」

笠木さんは不遜に笑った。

「それとも、“初めて”って設定でヤりてえの?」

僕は言い返す言葉も見付からず、笠木さんから逃れようと身動きした。上半身を捻じってベッドを這ったけれど、笠木さんにがっちりホールドされた下半身が自由に動いてくれる訳がなかった。

「『大丈夫、最初はちょっと痛いだけ。優しくシてやるから』」
「笠木さん、」
「『うん、うん。大丈夫だよー』」

笠木さんは僕の首筋に噛み付いた。

痛い。

なんで。

こんなの、違う。

「も、嫌だ……!」

違う。

違った筈だ。

「もう、」

止めてください。

お願いです。

髪を掴まれて笠木さんの方を向かされた。顔が上を向いた時、眦から涙が流れた。

こんなことで泣くなんて。

僕は、自分は哀しかったのかとぼんやり思った。

笠木 征治

紘平は美しい。だから俺はこいつに甘えられると自分が丸で神にでも成った様に思えて嬉しかった。

「お待たせしました」
「ありがとう」

紘平の手にあるのが高級なティーカップでも違和感なかっただろう。普段はジャージを羽織っているからただの制服のブレザーでもけっこう大人びて見える。それは紘平が委員長を務めることになってから一層感じることだった。

「僕、笠木さんが昼のこと怒ってるって分かってちょっと嬉しかったんですよ」
「は?」
「湊さんと僕、付き合ってると思ってる人もいるらしいんです」
「なんだ、お前」

学校の外だと饒舌なのは相変わらずだ。

よく喋る紘平を独占できるのははっきり言って可成り嬉しい。

ああ、でもそんなことは言われても嬉しくねえよ。お前にはただの噂話でも、俺はそんなこと知りたくもなかった。

「嫉妬されたのは初めてです」

紘平は染み染み言った。

「は?」

そんな訳無いだろう。だって俺はずっと嫉妬している。お前みたいな人間に生まれていれば何か違っただろうかと付き合う前から妬んでいた。お前と付き合い始めたら今度はお前が誰にでも愛想が良いのを妬んでいる。

紘平はプラスチックのカップの結露を指で掬った。

「僕にもそんな資格あったんだなあって」

指の動きを止めて、紘平は俺を見た。切れ長の瞳は綺麗に黒く澄んでいる。俺は改めててこの男はその存在だけで親孝行になるんだろうなと馬鹿なことを考えた。

「資格って、お前」

俺と付き合っているのだから、それを資格と呼ぶのなら、お前には当たり前に資格がある。

俺にその資格があると言った方が良い。

だから俺は嫉妬する。

他人でも嫉妬するんだ。

恋人なら尚更。

「嗚々、そうか」
「なんだよ」

紘平は俺を見ながら首を傾げた。前髪がさらさらと崩れて彼の顔に陰を作った。

「笠木さんは、女の子が好きなんでしたっけ」

紘平は指で前髪に触れて丁寧に耳に掛けた。指に付いていた水が彼の細い黒髪に絡んで妙に艶かしかった。

目を、奪われた。

「なんか関係あんのか」

俺が浮気したことを言ってんのか?

浮気したから、もう嫉妬もしないと思ったのか?

紘平は表情を崩さずに瞬きした。それは純真な青年のものの様で、俺は耐えられずに目線を逸らした。

怒っているのは、お前じゃないか。

「僕は男ですよ」
「は?」
「僕を好きになってくれる男なんていません」
「はあ?」
「嫉妬してくれるってことは、僕のことちょっとは好きってことじゃないですか」

紘平はごまかして笑った。

「お前さあ」

いい加減にしろよ。

「だから嬉しかったんですよ」

紘平はごまかして笑った。

「ふざけんなよ」
「真剣です」
「だったらへらへら笑ってんじゃねえよ!」

そんなんでごまかすなよ。お前は今自分がどんな顔をしているか分かってんのか。

紘平はへらっと笑った顔のまま黙った。

ポーカーフェイスって言うのは自分でコントロールできるからそう言うんだろう。紘平は校内ではポーカーフェイスで有名だけど、今のこいつはそんなんじゃない。

泣きたい時に泣けないなんて。

そんなのただの不幸だろ。

ふざんな。

俺は紘平を置いて店を出た。紘平が追い掛けて来るのが目の端に見えたけれど構わず歩いた。あんなこと言われるくらいなら紘平に浮気された方が幾分かましだと思ったから、自分が過去にしたことはすっかり棚に上げていた。

あー、ムカつく。

見たことも無いのに、紘平の泣き顔が脳裏に過った。

宇津木 紘平

僕が委員長になった時、忍野先輩は何時もの爽やかな笑みに細やかな祝いの言葉を添えて歓迎してくれた。だから僕は二度とこの学校を裏切る様なことはしないと心に誓った。

「紘平」

声の方を見ると笠木さんが居た。

「あ、先輩。昼はすみませんでした」
「いいよ」

許容した笠木さんの顔は、けっこう苛立っているからちょっと笑ってしまう。先輩ってこういう時には折れてくれるけど、顔は全然折れてないから。

「もう帰ります?」
「ああ」
「僕もこれ書いたら鍵閉めて帰る積もりなんですけど、一緒に帰りますか?」
「…ああ」

やっぱり怒ってるよなあ。

「怒らないんですか」
「ぁあ?」
「僕が女の子と仲良くしてたから、怒ってるんですか」

笠木さんは眼光を鋭くして僕を睨んだ。

「お前さ、あの時、俺は結局浮気してんだろうと思った?」

僕は書類を棚にしまって鍵を掛けた。

「それとも、俺がしてないって言ったんだからしてないって思った?」

立ち上がると笠木さんはまだ僕を睨んでいた。攻撃的ではないけれど、威圧的ではあると思う。

なんだ、本当に怒ってんのか。

安心した。

「先に、鍵返して来ますね」

浮気なんて本当はどっちでも良かった。したけど謝るから許してって言われるよりは、してないから別れたくないって言い分の方がまだましだっただけだ。だから忘れることにした。

曖昧な真実を求めるよりも笠木さんに触って貰う方が僕の欲望を満たすから。僕には清く健やかな恋愛をする権利はないから。同級生の少女たちのように「あたしだけを見て!」とは言えないから。

ここのところそれで上手く行っていた。

そうではなかったのだろうか。

硬質な音を鳴らす冷たい鍵は僕の心を写す鏡だった。悲しみも苛立ちも喜びもない冷めた自分の目が僕を覗いている。

この学校に居る限り僕の心は休まらない。忍野先輩の言葉は重くて陰鬱な枷であり、僕の心を固く閉ざす鉄の扉となった。彼の言葉は僕を祝福したけれど、同時に僕を呪い殺す言葉でもあった。

笠木さんと居ると時々は自由を感じたのだけれど。

今はどうだ。

委員会室のドアは大袈裟な音を立てて鍵が掛けられた。そこは僕にさえ踏み込めない暗い部屋となった。

戸田 誠

宇津木は空いている教室に迷いなく入って俺をエスコートした。

「すみません。食べながらでけっこうですから」
「ああ、じゃあ、悪いけど」

宇津木は少し長い前髪を左手で横に流した。白い肌にはさらさらの黒髪がよく映える。こいつなら真井京平にも勝てるんだろうなと思った。

「それで、どうしたの」

俺が尋ねると宇津木は逡巡して答えた。

「僕には悩みを相談するべき人が居なくて、浮かんだのが戸田先輩だったんです。先輩、花岡さんと付き合ってますよね。それで聞きたいことがあります」

恋愛相談か?

「何」

宇津木は少し視線を彷徨わせた。切れ長の鋭い目は伏せられてもまだ威厳を失わない。

「花岡さんが真井先輩と近付いているのに何か理由はあるんでしょうか」

え?

「生徒会と風紀が歩み寄る道はあるんでしょうか」

ちょっと、待てよ。

「結衣が、真井と?」

それは俺が怖れていることそのものだ。結衣たちはあの日、保健室で、初めてああなったのではなかったのか。宇津木が気付くくらいには、誰の目からも2人が仲良いのだろうか。

俺は混乱していた。

「あ、すみません。変な意味ではないんですけど」

『変』も『真っ当』もないだろう。俺は何故か結衣と真井との関係をあの場限りのものと信じて疑わなかった。あの時を遣り過ごせたのだから、あとは多少の注意で乗り切れるもとだと思っていた。

『近付いている』とは、どういう意味だ。

俺の知らないところで何をしている?

「生徒会と風紀は分かり合えないよ。君だってよく知ってる筈だ」

俺はそんなことしか言えなかった。宇津木は真剣に慶明の将来を憂いているし、結衣と真井との間に疚しいこもないに違いない。結衣は真井を好きにはならない。あの顔を綺麗だと思うことと、その内面に惹かれることとは全く別次元の問題だ。

だいたい、もっと大事なことは、そのことと宇津木は無関係ということだ。

「そうですね」

宇津木は悔しそうに呟いた。

俺は最低な男だ。

俺は真井京平にも宇津木にも劣ることで好きな女を取られるのではと怯えているのだ。それで宇津木に八つ当たりで冷たい態度を取っている。

「それでも、お前は、お前のやりたいようにやれよ」

そう言ったとき俺は宇津木を見られなかった。宇津木が絶望すればいいのにと思っているのに、彼の過酷な挑戦を心から応援できる筈がない。間違えて、失敗して、躓いて、絶望すればいいのだ。

宇津木はそっと「そうですね」と答えた。

凛とした声は、俺の醜い心を貫いて、何処か明るい方へ飛んで行った。

佐倉 利一郎

サエはクリームたっぷりで最高に甘そうなコーヒーを一口飲んだ。ストローを咥える仕草が女の子って感じがして、そういうところは京平よりも良平が好きそうな雰囲気だ。

「貴方もあの2人が好きなのね」

サエは相変わらず淡々と話す。

「『貴方も』ってことは、サエもってこと?」
「ええ、そうね」

あー、そっか。

やっぱりね。

「どうやってあの2人を見分けているのかしら」
「んー?」
「分かるんでしょう?」
「えーと、その話しが目的なの?」
「ええ、まあ。そうね」

俺はサエの綺麗な鎖骨を前に、一気に気持ちが冷めた。

あの2人の“どちらか”を好きになる奴は、だいたいこの問題にぶつかる。つまり、あの2人を見分けられないということに。“どちらか”を好きなのに見分けられないなんてバカだけど、俺にはそんなの関係ない。

俺があいつらを見分けられるとして、彼女にどうしろと言うんだ。

「それで俺にどうしろって?」

俺はクッキーを囓った。チョコがごろごろ入っててなかなか美味しいやつ。

「私は、彼らがよく分からなくなるわ」
「なんで」
「あの2人、時々入れ替わってるでしょう」
「あー、そう?」

そこには気付いたのか。優秀じゃん。

「双子って言っても別人なのに、同じ振りをしてるんだわ」

サエは首にかかるゴールドのアクセサリーを撫でた。なんとなくだけど、それは良平からの贈り物なんじゃないかなと思った。

「そんなこと言われたの始めてだよ」

京平と良平は全然違う。それは誰もが認めることだし、京平たち自身でも思ってることだ。

だから全然違う。

入れ替わるのはただのゲームなんだと思ってたし、深い意味なんて無いと思ってた。あいつらだってそうじゃないのか。

「貴方は見分けられるから、彼らも最後に貴方を頼ろうとするのよ」
「えーと、頼られたことなんてないよ、俺」
「分からない?」

濃くアイラインが引かれた目が俺を見た。

そう言われても。

「京平くんと仲良さそうだけど、真面目に授業受けてるみたいだし、どんな人なのかと思ってたけど、」
「けど?」
「彼らが好きになるタイプよ、貴方」

え?

それってちょっと嬉しい。

「ありがと」

サエは始めて頬を緩めた。日本人離れしたはっきりした顔立ちは、普段はクールで少し怖いけど、こうして笑うとなかなか美人だ。

「それで2人を見分けられるなんて、サービスし過ぎよ」
「サービス?」
「どうやって見分けてるの?」

またそれ?

なんか言ってることよくわかんなくなってきたなー。

とりあえず、俺が言えることは一つだろう。女の子に聞かれる度にこれだけは答えてあげてた。京平に泣きそうな顔を向けられる度にこれだけは自信をもって伝えてた。

「それはさ、俺があいつらを好きだからじゃん?」

サエはゆっくり瞬きした。マスカラががっつり乗った睫毛を重たそうに動かして。

俺はバカだから難しいことはわかんねえ。

2人の違いなんて考えてもちゃんと答えらんない。

でも、好きなことは確かだ。

好きなことだけは確かだ。

「そうかもね」

サエはそう返事してまた笑った。すごく素直な女の子なんだなあと思った。クッキーは、甘い生地に甘いチョコがたくさん入ったやつが美味しいんだけど、苦い生地に甘いチョコが隠れてるのもけっこう美味しい。

佐倉

サエと名乗る美人に逆ナンされた俺はチラッと見えた彼女の鎖骨に釣られて駅ナカのスタバに入った。何故スタバなのかと言うと、サエがそう望んだからだ。

「居酒屋でいーじゃん?」

サエは色っぽく微笑むと明快に拒否した。

「貴方、制服だもの」

成る程、その通り。

制服のまま酒を飲む機会は結構あるので、すっかり忘れて居た。良平も京平もそれを止めるような人間ではないし、居酒屋からラブホへ行くのは俺にとっては定番のコースだったから、逆ナンされてスタバへ行くのは斬新だ。

しかしサエの鎖骨は綺麗だし、そもそも逆ナンだから酔わせる必要は無いのかもしれない。

「なんで俺に声掛けてくれたの?」
「よく見掛けるからよ」
「へー、まじ? どこで?」

サエは俺の目を見た。

「学校」
「まじで?」
「ええ、そうよ」

俺は制服を着て居るけれどサエは私服なので思いもしなかった。クラスメイトの顔や名前も憶えられない俺が、同じ学校の誰かだというヒントだけでサエに心当たりが有る訳がない。

クラスメイト、だったりして。

それってスゴい。

「俺たちもしかして知り合い? 俺バカだから人の顔とか憶えらんないんだよね」

俺の言葉にサエは破顔した。

「貴方って面白いのね。あの2人が好きになった理由が分かる気がするわ」
「あの2人?」
「真井くん」
「さないくんって、」

もしかして。もしかしなくても。

「真井良平と真井京平くん」
「そっちが目的?」

俺が聞くとサエは首を傾げて否定した。

「目的は貴方よ」

その悩殺アイコンタクトは色っぽくて京平の好きそうな感じがした。ストレートで意志が強そうで自信に満ちていてどこか優しげ。

京平が手を付けた女かな。

「まあいーや」

俺と京平とでは違い過ぎる。

せっかくの逆ナンが京平目当てであるというのは中等部までは特によくあったことなので、俺はサエとのイイことを諦めて、脱力した。

サエはそんな俺を見ると、ひくりとも笑わずに首を傾げた。

「何が良いの?」
「よくねーよ、全然」
「何が?」
「アホみたいに俺ばっか京平たちを好きなこと」

サエは納得したのかしないのか「ふうん」と気のない返事をした。

つまんない。

俺はサエの鎖骨を未練がましく見詰めた。細いネックレスのチェーンがその鎖骨を撫でるのを見て、俺は京平たちと三つ子だったら良かったのに、と思った。

戸田

カツサンドは少し乾燥していた。

「先輩」

俺に声を掛けてきたのは宇津木だった。中等部で風紀委員長になった男。

いつもジャージ姿なので直ぐに分かる。

「何、どうした」

宇津木は伸びた前髪を邪険そうに指で流した。

「相談したいことが…」

珍しいこともあるものだ。

宇津木は俺たちを追い払って委員長の座に就いた、ということになっている。それには多少の誤解もあるけれど、宇津木より上級生の委員は揃って風紀を辞めたのも事実だった。

俺も辞めた。

苦労の多い風紀委員長を務めるようになってから今まで宇津木が俺に頼ることは殆どなかった。

宇津木は愛想笑いを浮かべた。

或はそれが彼の心からの笑顔かもしれない。

「座ったら?」
「込み入った話なのですが」
「ああ、じゃあ、」

俺はカツサンドを見た。

宇津木はそれに気付いて、「今日の放課後、空いてますか」と尋ねた。

「お昼にお邪魔してすみません」

気持ち彼の頭が下げられた。

少し汚れたジャージに俺の顔は綻んだ。

「移動しよう」
「いえ、急ぎの相談ではないんです」
「まだ20分以上ある」
「食事されてるのに、」
「空き教室、お前の権限で使えるだろ」

宇津木の瞳が不安に揺らいだ。遠慮なんて子どもらしくもない。宇津木は大人びていてもまだ中学生なのだ。

「いいんですか」

宇津木は前髪を横に流した。

トレードマークのジャージも彼自身も、夏に向かおうとする勢いづいた今の時期にぴったりだなと思った。

葉桜の男。

おお、ぴったりだ。

「いいから早く移動しよう」

宇津木は笑った。今度こそ明白な作り笑いではない爽やかな微笑だった。

神保

「交流会の企画だけど、谷中先生に見せたら褒めてもらえたよ」

その一見喜ばしい報告に、しかし僕たちは誰も素直には喜ばなかった。会長の表情が冴えなかったからだ。

「それで?」

高橋先輩が既に不満そうな顔をして言った。

「来年の交流会では使うって」
「今年は?」
「例年通り、会食」
「希望者が減少傾向だって報告して、新しく企画まで立てたのに?」

責めるような高橋先輩に、会長は苦笑いした。

「まあ、色々と準備もあるらしいから、」
「あの狸野郎。餓鬼の言うことだと思って舐めてんだろ」
「怜志…」

交流になっていない交流会。

無駄なコストを他に回せば、慶明はもっと良くなる。

高橋先輩の言いたいことはよく分かる。谷中先生を狸野郎と呼ぶのは校内中探してもそう何人もいないだろうけれど、その気持ちは分かるのだ。

「俺たちは大人しく隠居してろってことだよね。ちょっと苛つく」

高橋先輩は溜め息を吐いた。

先輩は時々毒を吐く。それは他人を自分本位に貶めるものではないから僕はそれを嫌だとは思わない。ただ反応に困る。

室温が数度下がった。

「いいえ。先輩にはまだまだ仕事して頂きますよ?」
「そうですね」
「そうですよ。任期中はしっかり仕事して下さい」

夏帆に続いて口々に言った。

高橋先輩を宥めるのは決まって会長か夏帆の仕事になっている。高橋先輩は興奮して文句を言っているわけではないから宥める必要もないのかもしれないけれど。

「ごめん、ありがとう。力になれるといいんだけど」

今度は高橋先輩が苦笑した。

室温が数度上がった。

伊佐木

いつもの席には誰かが座っていた。一人は風紀の戸田だと直ぐに分かった。

「ここ、私たちの席なんですけど」

そう言ってもう一人の顔を確認すると、5組の九鬼瑞穂だった。眞木もそれに気付いてか九鬼をじっと見ている。

「お前らの席…?」

戸田は眉根を寄せた。

「そう。だからどいて」
「は?」
「戸田、行こう」

九鬼はすっと立ち上がると戸田の腕を掴んだ。関わりたくないらしい。

「お前は残れば?」

そう言ったのは眞木だった。

「それいいね」

九鬼は私たちの中では少し特別な存在だった。その綺麗な顔と冴えた頭脳は慶明の中でも屈指だ。友達にしたいと3人で話したことがある。

個人的には『瑞穂』という名前も気に入っている。

彼にぴったり。

その九鬼は「ごめん。教室戻ってくれる?」と戸田に言って笑った。

「は…?」
「また今度な」

突き放すような態度は戸田を私たちから避けさせる為なのだろう。面白い人間だし、きっと賢い。

さっすが5組。

でも勉強ができるだけの頭ではない。眼鏡の奥の瞳はいつもキラキラして輝いている。

私が座ると眞木も九鬼も座った。

「瑞穂ちゃんて、食堂来たことないよね」

だからこのテーブルを選んだのだろう。ここはもう2年間私たちの席なのに、ここを選んでしまった。

「それ、パンか」
「え、ああ」
「誰か待ってんのか」

眞木は九鬼を睨んだ。

「え、他にも誰かいるの?」

九鬼は「君たちも知ってる人だよ」と笑った。眞木は九鬼を更に睨んだ。私も九鬼の態度に少し不愉快になっている。

性格悪いんじゃないの?

「…秋津、」

九鬼はそう言って手を挙げた。視線の先にはトレーを持った秋津が本当にいた。

「え…」

2人って仲良いの?

「お前らいたのかよ。キュー、違う席行くぞ」
「ちょっと待ってよ!」
「キュー、」
「一緒に食べよう!」

私の提案に異議があるのは秋津だけではなかった。

「ハァ?」

眞木は先程の九鬼の態度に機嫌を悪くしたままだったし、もう興味はないらしい。秋津はこちらを見もしないで席を探すように食堂を見渡している。

「瑞穂ちゃんと食べたいな」

努めて明るく言ったけれど、誰も応じてはくれない。

「賢太ちゃん、って呼ばれたいですか?」
「え?」

九鬼は眼鏡を押し上げた。

「『瑞穂ちゃん』って、馬鹿にするように呼ぶのは止めて下さい」

私にはよく分からなかった。首を傾げて眞木を見るとにたりと不均衡に笑ったから、九鬼にとっては不愉快なことだったらしいと悟った。

「悪気はないよ。秋津だってそう呼ぶでしょう?」

その声で秋津は動きを止めた。

「そうだな。俺たち3人ともそう呼んでたしな。なあ、秋津?」

眞木の援護に私は気を良くして微笑んだ。悪気はなかったし、どうせならこれからも瑞穂ちゃんと呼びたい。

「秋津、面倒だからここで食べよう」

九鬼は笑顔でそう言ってコンビニの袋を開いた。笑うと冷たい印象が消えて妙に心惹かれる。

秋津の顔は苦虫を噛み潰したようだった。

頼んでおいた私と眞木の分の昼食を後輩が届けてくれたところで、私たちは手を合わせて食事を始めた。時間もなかったので手を付けてからは早い。

「ずっと瑞穂ちゃんと仲良くなりたかったんだよ」

私は言った。

中等部の頃にそういうことを話したから、かれこれ3年は前のことだ。何度か話したりもしたけれど、余り仲良くはなれなかった。

「ありがとう」
「私たちと仲良くすれば、色々役立つこともあるからね」
「…食堂の席を確保できるとか?」
「そう。他にも色々、ね」

私が微笑むと、秋津は舌打ちした。

眞木と揃って不機嫌なので、私と九鬼が話す以外には会話らしい会話もない。私は一人で九鬼と明日のランチの約束までしていた。

「賢太ちゃんって呼んでもいいけど、賢太くんとか呼び捨ての方がいいな。賢太ちゃんって、ちょっと間抜けだし言いづらいでしょう?」

親戚の人も私を賢太ちゃんとは呼ばない。

「そうですね」

九鬼は静かに笑った。

笑祐

佐倉の笑顔には愛嬌があるし、平和主義で真面目なので話し易い。

と、俺は思う。

「……」

と、思いながら一人で昼休みを過ごす佐倉を眺める。

佐倉と恐らく一番仲の良いだろう真井兄弟は佐倉と昼を食べない。京平はいつもどこかへ行ってしまうし、良平は生徒会が忙しい。

佐倉が一人でコンビニ袋を漁る様子は物悲しい。

亮二はそんなことは気に留まらないらしく、二次元の作品を実写化する是非について熱く語っている。

「似てても演技が下手だと萎える」

だそうです。

今井は受験生による受験生の為のブログ作りに熱心で、携帯電話の画面に食い付くように見入っている。

「時々、ツボる実写化もあるけどね」

例えば『金田一少年』の実写化には色々なバージョンがあるけれども、俺にはそれぞれ好きだったり今一だったりする部分がある。

俺の相槌に亮二は「確かにねー」とだけ答えた。

「その話、ブログに載せていい?」

そればっかだね。

「良いんじゃない?」と俺が言ったので、今井は亮二にも許可を取るべく目線を遣る。亮二の方は良いとも悪いとも思わないのか、それには答えなかった。

「てか、なんのブログなの?」
「受験のブログとか言ってなかった?」

そう言っていたと思う。

しかし俺の答えに当の今井は不服そうな顔をした。そして伸びた前髪を横に流す仕草をして、首を傾げる。

「うーん…、正確には、『知恵と愛と正義のブログ』?」

はい?

「……え?」

亮二は苦笑いしている。

「知恵と愛と……なんだっけ?」
「知恵と愛と正義のブログ」
「どんなこと書いてんの?」
「受験生活」

意味が分からない。申し訳ないけれど、全く意味が分からない。

「アドレス教えてよ」

亮二は苦笑いしながらも、興味を持ったらしい。今井の携帯電話の画面を覗こうとしている。

でもそれって、見たからには感想を言わないといけないよね?

「つまんないよ」

今井はそう言いながら自分の携帯電話を差し出した。

亮二は少し操作してから、時々へらっと笑いつつそのブログを読んでいた。そして「ありがとう」と言って携帯電話を返却した。

感想は無いのか。

「え、どうだった?」

今井はまた携帯電話を黙々と操作している。

亮二のことだから平気でブログの悪口を言い兼ねないと気付いて焦ったけれど、「面白かった」と言ってくれたので安心した。

俺もちょっと読んでみたいな。

「ただ知恵と愛のブログじゃないわ」
「そのなの?」
「どっちかと言うとエロと煩悩と受験生活のブログみたいな」

最低じゃないか。

今井は口元でにやりと笑いながらも否定はしないらしい。

「それ面白いの…?」

もう一度聞いてみると、亮二は「俺は好き」と答えた。

アドレスは聞かないことにした。

佐倉を見るとノートと問題集を広げて自習をしていた。長身の身体はそうしていると余りその大きさを感じさせない。

直向きで、応援したくなる。

佐倉も今井のように常識では理解し切れない発言をしたり、自習時間に見合わない間抜けな誤答をしたりする。

天然と言うのか、馬鹿と言うのか。

しかし愛想を尽かせずに構ってやりたくなるところは、今井とは違う。

今井は一部の人に、特に女子に嫌われている節がある。と、思う。

「好かれたくてやってないけど」

今井は言った。

佐倉もそうなのだろう。計算され尽くしたものなら問題でも人間でも、きっと酷く退屈で詰まらないに違いない。

俺は佐倉を見て笑った。

「その方がいいよね」

好かれたくて必死になっても、誰にも相手をされないこともある。ありのままで居て、それを受け入れて貰うのが最高だ。

と、俺は思った。

伊佐木

眞木と秋津はプライドが高くて似ているところが多い。父に呼ばれて秋津の父親と秋津自身と初めて食事をした時には見た目も似ていると思った。

「秋津は5組らしいね」
「……」
「気にならない?」

眞木はカタログを繰ると「別に」と呟いた。

秋津よりもシルバーアクセサリーの方が眞木の気を引くと言うのは本心ではないだろう。眞木なりに思うところもある筈だ。

「まだ芳川使ってんのかよ」

しかし眞木は秋津に付いては言及しなかった。

芳川は2年前に父がコネで慶明に就職させて遣った人で、こちらが強要する姿勢を見せなくても俺の言う事には逆らえないらしい。私はそれが愉快で色々とお願いしてしまう。

まだ未発表のクラス分けについても芳川が教えてくれた。

始めは眞木だって面白がっていたのに、最近ではそれほど興味がないらしい。

「だって楽しいんだもん」

にっこりと笑うと眞木も笑った。

「お前はいいな」
「あは、どういう意味?」
「意味はないけど」

眞木はまたカタログを繰った。

そこでコンコンとノックされた。返事をすると入って来たのは秋津だった。

「早かったね」

秋津は「ああ」と曖昧に答えて眞木の横に座った。

「伊佐木」
「何?」
「お姉さんに誘われた」

は?

「何に?」
「今度遊ばないかって」

眞木は声を出して笑った。秋津は表情を変えずに眞木の手元にあるカタログを見ている。

「本気にしないで下さいね」

つい昨日『賢太より年下は子どもにしか見えない』と言っていたのは何処の誰だろうか。

「親が聞いたら喜んで縁談組むんじゃねえの」
「伊佐木みたいな弟は欲しくないな」
「瑠璃さんが嫁ならいいだろ」

眞木は楽しそうに煽っているけれど、秋津はにやにやしながらも本気にはしていないようだ。

「それはもういいですよ。それより来年のクラス分け知りたくありませんか?」

私が笑むと秋津はソファに背を預けて溜め息を吐いた。

「まだ芳川使ってんの」
「眞木と同じこと言うね」

やはり2人は似ている。

「秋津は5組だよ」

秋津は複雑な表情で「知ってる」と言った。口の端では笑いながら、目はその話題を避けるように伏せられている。

慶明生にとって5組は特別だ。

勉強ばかりの慶明の中でも高等部の5組は更に優秀な生徒を選抜して構成されている。授業の多くは自習で、その替わりに宿題が山ほど出される。

自由な時間がなくなるということだ。

「だからお前とももう好きにできなくなるね」
「なんで5組に行くの?」
「…勉強したいから」

眞木が動きを止めて秋津を睨んだ。

「結局言いなりかよ」

秋津は舌打ちして脚を組んだ。

「私は5組でも5組じゃなくてもいいと思ってますよ」
「5組かどうかは問題じゃねえ」
「では何が、」
「ここで言いなりになったら、中学の3年間は無駄だったって言ってんのと同じだろ!」

そんな風に、怒らなくても。

「俺はお前とは違う。兄貴のこともちょっとは分かってきた」
「そんなの関係ねえよ!」
「だからお前とは違うんだよ!」
「違って当たり前だろうが!」

何、これ。

「お前はグループの一番真ん中にいて、しかも嫡男で、将来の心配なんかしなくていいもんな?」
「ハァ?」
「俺は認められる為に勉強する」
「成績とお前の価値は関係ねえよ」
「お前は苦労したことないんだろ。どっかで安心してんだろ?」
「俺は机でやるテストで一番二番決められんのが気に入らねえ。お前らもそう言っただろ」
「それは俺が甘えた子どもだったからだよ」
「だったらお前もアイツらと変わんねえな!」
「ステータスの一つにはなるって意味だよ」
「それが同じだって言ってんだろ!」

何、これ。

「てめえは最後には家族に守って貰えるって思ってんだよ!」
「ハァ!?」
「甘えてんだよ!」
「お前だって逃げてんだろ!」
「俺は親から貰ったもん全部捨てることになっても一人で生きたい」
「そんなの無理だろ」
「いつかそうなってもいいように、力をつける」
「それこそ甘えだろ。今度は誰に吹き込まれた?」
「お前の反抗期は永遠には続かない」
「ワンワン鳴いて尻尾振ってるてめえよりましだな」
「ならお前のは負け犬の遠吠えか?」
「兄貴に負けて可哀相になあ。今から頑張って留学しても敵わねえんじゃねえの?」
「てめえ、」

何、これ。

「あー、可哀相。会社はやらないって言われたのか?」
「何、お前って親の会社行こうと思ってんの?」
「教え込まれた通りに動かないと不安か?」
「お前こそ親のレール歩く気じゃねえか」
「そういうの奴隷根性って言うんだろ」
「それはてめえだろ!」
「俺は嫡男でてめえは次男。環境が全部悪いって考えてんだろ?」
「お前みたいに甘えたくねえんだよ」

何、これ。

「簡単に意思を曲げやがって」
「貰った餌しか食えねえお前よりましだ」

何、これ。

「私の家で、怒鳴らないでください」

五月蝿い。耳障り。

「……」

なんで?

「月に一度くらい、3人で遊べますよね?」

365日拘束される訳でもないのに。

「さあな」

眞木は立ち上がると乱暴にドアを開けて帰ってしまった。秋津は眉間に皺を寄せながら再びソファに凭れた。

「なんでですか」

秋津は何も言わずに静かに立ち上がるとやはり部屋を出て行った。

何、これ。

それから丸2年間以上、3人で集まることはなかった。

九鬼

一人で昼食を取ることは辛くない。

自分に友達がいないのは俺が詰まらない人間だからだと思わされるのが惨めなのだ。

「お前っていつも一人で食べてるよな」

だからそう言われた時はやはり惨めだった。心が痛いとかいうよりは一人でも良いから誰とも話したくなかった。

「そうですね」
「友達いないの?」
「…そうかもね」

俺は孤独が嫌なのではない。

人より劣ることが惨めなのだ。

俺はその時秋津を秋津として認識していなかった。厭味か皮肉を言われたのだろうとは思ったけれど、抗議したり反発する気は全くなかった。

無抵抗の降伏。

秋津という名前の同級生に惨めな自分を見透かされた。

「じゃあ俺の友達になる?」

秋津はやはり孤独な俺を惨めだと思っていたのだと思う。俺は秋津に傅く存在として彼の“友達”として迎え入れられた。

後悔しているわけではないけれど。
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