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パライソの愚痴

『静かの海のパライソ』の愚痴です。

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刀ミュ『静かの海のパライソ』感想

ミュージカル刀剣乱舞『静かの海のパライソ』感想です。


※DMMアーカイブ配信版
※ネタバレあります
※超長文です




パライソ、本当によかった。今後再演することがあればチケット申し込みたいくらい。



※説明のため文中で曲名を挙げます。曲名を知らなくてもわかるよう時系列順に書くようにしていますが、違うところもあるのでご了承ください。

※この記事は文字数が約16,000字ありまして、1分に500字読むペースだと読了に30分以上かかる計算になります。



ミュージカルではオープニングがかっこいいのをよく好きになるのですが、パライソはまさにそれ。オープニングがとてもよかった。一人で優しく歌うところからの、厚みのある大勢でのコーラス。これは民衆が主役の話しなのだと思わせます。

レミゼラブルのLook downからはじまるオープニングが好きな方はパライソも気に入りそう。

歴史に詳しくなく、なんとなく島原の乱がテーマなのだろうとざっくり知っているだけでしたが、それでも見応えありました。



冒頭では白髪で背が丸まった老人が『おろろん子守唄』を歌いながら海辺で幸せそうに過ごしている。しょっぱな方言で始まってのどかな気持ちでいたのに、そこからじょじょに音楽が歪み村人が苦しみだし、『インフェルノ』が始まる。

「インフェルノここは 闇の果て
ここに明日はない 光はない」
(『インフェルノ』)

アーカイブ配信だとわかりにくいですが、この老人はこれから登場する山田右衛門作と考えていいと思います。彼は長生きした右衛門作なんですかねえ。


『おろろん子守唄』はこのあとも何度か歌われます。歌詞は少しずつ違っているけど、旋律はどれも同じで、ほぼすべて右衛門作が歌います。

「朝ん木漏れ日に
昼んぬくさに
ゼズス様はおっとばい
やったら夜はどこに
おっとやろか
見えんばってん
そこにおるやろが
すぐ側に おるやろが」
(『おろろん子守唄』)

実際に九州で歌われていた子守唄を元にしていると思いますが、聞き取って書いたので違っていたらすみません。ゼズス様はオランダ語由来のキリストのことです。

「見えんばってん そこにおるやろが」って素敵な歌詞ですね。

天草四郎といるとき、右衛門作にとっては彼が「光」だったのかな。

この曲がこの公演での第一曲目に歌われ、また人間である右衛門作の心情表現に使われるのは、それだけこの公演にとって大切なテーマだからだと思います。

大事なことがわからなくなったり、見えていたはずのものを見失ってしまう瞬間、そういうときは誰にでもありえる。この一曲目が余りに幸福で平和的で故郷を想起させる方言で歌われるから、その後の心の揺らぎや絶望感を、より繊細に訴えかけてくる気がします。


また、この公演はテーマが普遍的でわかりやすいところもいいと思います。

信じていたものの存在が不確かに思える不安とか。自分がしたことの罪悪感に苛まれる苦しみとか。朝には確信していたのに、夜暗くなると見えなくなってしまったり。

それはあるときは刀剣男士ならではの悩みのようにも語られるけど、根底にあるのは私たちが生きるうえでの共通の苦悩であるように思います。だから右衛門作は『おろろん子守唄』を歌うし、彼の心象風景のようにも見える場面から舞台が始まる。


右衛門作を演じた中村誠治郎さんは博多のご出身らしいですね。2部でバキバキの殺陣を見せてくれるけど1部では絶妙なよぼよぼ具合を演じられていて逆にすごかった。

ちなみに劇中ではほとんど標準語ですが、他の登場人物も含めて時折話される方言がとてもいい味を出していました。私の父が博多出身だからそう感じるだけかもしれませんが。



右衛門作が扇動して民衆を集めます。オープニングが好きと書きましたが、『おろろん子守唄』からの『インフェルノ』『神の子』『鯨波(とき)の声〜謡えパライソ』の流れが全体として好きです。何度でも見られる。

「光はない 明日はない」
(『インフェルノ』)

「集え! 神の子のもとへ!」
(『神の子』)

「天と地はひとつ 父と子はひとつ」
「我らは行く パライソへ!」
(『鯨波の声謡えパライソ』)

民衆は天草四郎の元に集って信仰を得ていく。みんな背筋が伸びて天草四郎のもと調和した動きを見せる。観劇する側も天草四郎という神秘的で美しい青年に魅入ってしまうし、なんとも言えない不思議な高揚感を味わえます。

3曲目の『鯨波の声』では民衆はパライソを「我らをつなぐ言葉」「我らを導く教え」と言っている。そしてコーラスで「パライソ パライソ 痛み苦しみを超えて 何も怖くはない よろこび よろこび……」と歌詞が続く。

いやいや、なんだこの公演は。

だって彼らはこの後……。

何が幸せなのか。闇の底でただ死んでいったのと、どっちがよかったのか。彼らは光を得たのか。


はじめ右衛門作は民衆を扇動するように振る舞って、民衆はそれに乗せられていくだけにも見えます。

このあたりの流れ、高揚感があってどきどきしますが、その一方で『神の子』で右衛門作が劇中初めて「パライソ」と歌い、その後に天草四郎が「パライソ」と口にする流れが存在します。やがて信徒たちも口々に「パライソ」と歌いはじめ、それまで神の子や光を求めていた信徒たちの目指す場所がパライソへ誘導されていく不気味さがあります。

でもね、『謡えパライソ』で民衆が「パライソ」と繰り返し歌うとき、民衆は自らパライソを求め叫んでいるような確かな力強さがあるんです。だって飢えているのは変わらないし相変わらず税は重い。何が変わったかと言うと、彼らの心の持ち様だけ。

自分たちは闇の底にいる、明日はない、光はないと嘆いていた人に確かにいっとき光を見せたのは天草四郎であるし、右衛門作だったのではないかな。

誰かに言われたからとか、口車に乗せられてとか、それだけじゃない。欲しかったもの、見たいと思えるもの、信じられるものに気づけた人間の、生への活力みたいなものがある。少なくともそう表現されていると私は感じました。

それは右衛門作も同じではないでしょうか。

民衆を煽っているとき民衆の方ばかり気にしていた彼が、「天と地ひとつ 父と子ひとつ」と歌うときには天草四郎と同じ音階、同じ調子で、切実そうにユニゾンする。彼も光を求める民衆のひとりであるかのように。

最後の「主よ 我らは行く パライソへ!」のところでは右衛門作と天草四郎と民衆が一緒に歌い、全員が同じ方向を見て、同じ光を見ている。

なんて美しいんだろう。

ここの一連の流れを見ているときの興奮ったらないよ。



場面が変わって鶴丸のソロが始まります。鶴丸のソロ、本当にかっこよかった。

この曲は『無常の風』というタイトルです。無常の風は時を選ばず、という慣用句から取ったものでしょう。無常の風が時を選ばず吹いて花を散らすさまから、人の命もいつ終わりを迎えるかわからないのだということを意味している言葉です。

「驚きを生め
あがけ もがけ
ただ無情に吹く風に
逆らえるなら
逆らってみろよ」
(『無常の風』)

無常の風を止めることはできない。だからこそ穏やかなときを喜ぶのではなく、突然吹く風にもあらがい逆らって生きてみよと言っている。

人でも刀でもずっと形の変わらない「モノ」は存在しません。モノであるならどんな重要な刀剣だってある日突然失われてしまうかもしれない。所在不明の豊前はあったかもしれない鶴丸の姿かもしれない。「神様だから普遍」なんてことは言えないのが現実ではないでしょうか。

役者の声質もあってか、すごく迫力のある曲です。聞くひとに選択を迫るような。でも同じくらい静かな曲です。

鶴丸はこのあとヒップホップとかポップな歌をいくつも歌うけど、彼の内省はこの曲なのかと思うとぐっときます。任務のため色々な歌を歌うけど、彼の中に流れている音楽はこれなのかと思うとね。すごく静謐で、それでいて勇ましい。


歌いはじめてからしばらくは鶴丸は刀を持たずに歌っています。それからお待たせ!と言わんばかりに刀を抜いてくれる。

部隊のみんなに言えることですが、この公演のあいだ簡単に刀を抜かないんですね。簡単に刀を抜いてはいけない、その思想がこの公演を通してずっと貫かれていて、こういう演出や振付けにも行き届いているのが素晴らしいです。

刀を抜かずに戦うと手や足が出るのでかえって乱暴に見えるけど、実際はまったくその逆なのではないかな。

ちなみに農民の武器は包丁とか農具から自作したものだから、刃が常に剥き出しです。

刀を鞘に納めているのだって大変なんだ。

『無常の風』の終わり、抜いた刀をしまうとき、「キィン!」って効果音が入ってすっごく気持ちいいです。他の公演でもこうだったかな? 記憶ない。でもとにかくかっこいい。



次はいよいよ松井の出番で、ソロです。待たせるねえ! 彼が舞台に立つと真っ赤なサスが入って扇情的です。

ところで、この公演に登場する刀剣男士は鶴丸、松井、大倶利伽羅、豊前、日向、浦島の6振です。うち3振は赤が差し色の男士で、松井と浦島は青系です。これは視覚的にまとまりがあっていいなと思いました。海辺の村、それが血に染まっていく。青い空と燃え上がる炎。赤と青。照明も赤と青が多用されます。

2部のことを考えたら担当カラーは見分けやすい方がいいに決まっているんですが、だからこそこの編成はそういうことはちょっと後にして、編成される「意味」に重きを置いているように思えます。

松井についてですが、松井は青グループです。その青いはずの松井が、血の幻影を見ることで舞台上で赤い照明を浴びる。最初に登場したときは特にそう。暗転した舞台から青い照明をバックに登場したかと思ったら、原色みたいな真っ赤なサスが点く。

赤い照明を浴びる松井は、倒錯的で、扇情的で、浦島や豊前とますます対比されます。

この赤と青の構造が印象的なので、鶴丸がのちに言う「白の中にも黒がいて、黒の中にも白がいる。赤だって青だっているかもしれない」というセリフは、一揆軍だけでなく、自分たち刀剣男士のことも言っているように聞こえました。そんな鶴丸は白なので、ニュートラルに、あるいは少し異質な存在として表現されているのかもしれません。


話しを戻しますが、松井が歌うのは『滾る血』。

「ぽたり ぽたり」から始まるこの曲、もったいぶらせるようにためて歌うから、血が滴るさまが伝わってきます。

「どれだけ流し続ければ
拭い去れるだろう
錆びた血の記憶
くすんだ血の匂い」
(『滾る血』)

松井の血の記憶とはなんだろう。松井は恍惚としているようで、でもどこか苦しそう。

松井が歌い終わると赤い照明は消えて、豊前が颯爽と現れる。このときの豊前、高さ2メートルはあろうかという壇上からスムーズに降りてきます。もう初見から爽やかで速くてかっこいい。


刀剣男士はキャラデザが本当にいいなあといつも思います。イラストで見てかっこいいだけではなくて、立体にして動いたときにも目を引く。蜻蛉切の後ろ髪とか、にっかり青江の肩にかかる死装束とか、小狐丸の内番着のラフさの中にある上品さとか。本当に純粋にキャラデザのよさに驚かされます。2.5はキャラデザの良さを堪能できるのも魅力です。

豊前が歩くと揺れる右肩の、鎧で言ったら大袖にあたる部分、あれがすごくちょうどいい具合に揺れるんですよね。いつも速く動いている豊前にピッタリで、体を防御すべき鎧の代わりに掴みどころのない柔らかな布があることも、すべてが豊前らしくてかっこいい。

あと、ここの松井と豊前とのやり取りで、豊前はけっこう前からこの本丸にいたんだなあと思いました。このあとの殺陣や振る舞いからもそれは伝わってきます。


松井のソロ曲で気づいたことが他にもあって、ここ、松井とたくさん目が合うんですよ。カメラワークやスイッチの技術が上がっているのもあるだろうし、カメラも含めたテクリハも重ねているのではないでしょうか。

そう思うと他の場面でも他の男士ともよく目が合うことに気づかされます。意識できないくらい当たり前にカメラを見てくれている。

現地で観劇する楽しさも知っているのですけど、配信だからこそ味わえる優位性も用意しているところが2.5らしいというのか、DMMらしいと言うのか。配信のクオリティが高いから何回も見られるのかもしれません。



続いて日向、浦島、大倶利伽羅が登場します。

日向は、紀州に長くあったというだけにしては異常な梅干しへのこだわりがあって、それがなんだかかわいくて癒されました。浦島が亀吉を探しているのも、知ってる!って思えて楽しかったです。

しかしゲームのセリフをこれでもかと取り込んでいてゲームファンを喜ばせるのがうまいねほんと。


ちなみに、さきほどは村正と蜻蛉切が、ここでは蜂須賀と長曽祢が「旅に出た」と言われていました。

個人的には独立した舞台なら他の公演を見ていないとつまずくような思わせぶりなセリフは入れるべきではないと思っています。本筋と違うところで頭に残っちゃうから。村正や蜻蛉切って誰なのかのわからない人もいるのだし。

豊前が松井に対して言った「たいそうなお出迎えだったそうじゃないか!」くらいの、知らなければそれで済むし、知ってるともっと面白くなるような触れ方が一番好きです。



島原では一揆軍の行動がエスカレートしているさまが演じられます。右衛門作が信徒にやらせていることが、超えてはならない一線を超えていると同時に、右衛門作自身が天草四郎に対して信徒と同じような救いを熱心に求める仕草をしているのが印象的です。

『鯨波の声』では、革命前夜のような、緊張と熱気が高まる感じがありましたけど、ここではすでにその次の段階へ移行してしまっているように思えます。

報告を受けた伊豆守は怒りに震える。

天草四郎は、『神の子』では「私たちは何を許された?」の問いに「愛すること 愛されること」と答えた。『御霊と共に〜謡えパライソ』では武士身分らしい人を殺す信徒を前に微笑みながら同じ口振りでやはり「私たちは許された」と歌う。

信徒は、辿り着くべき「パライソ」への道程で、「愛すること」からかけ離れた行いで手を血に染めてしまった。

もう戻れないところまで来てしまった。



鶴丸たちは日向と浦島と大倶利伽羅と合流して主と対面する。豊前はこのときも鶴丸に対して「どうなっているんだ?」って気さくに声をかけられる立場で、古株っぽいの嬉しいです。

めーっちゃ今更だけど明らかに年配の男性審神者を「君」って呼ぶ鶴丸いいですね。「つーぎーのー、任務!」とかわがまま言ってたのもよかった。ゲームで聞いたことある気がするもんな。

鶴丸はなんでもどんどん決めていくけど、仲間の意見も聞かないこともないんですよね。

出陣するときの鶴丸、豊前と松井の「異論はねーよ」「血にまみれに行こうか」と言う言葉を待ってから「決まりだ!」と出陣を決定したところ、今回の任務が二人に負荷がかかるものだとわかっているからなんだな。

この鶴丸は松井が途中で帰還したいと言えば「そうか!わかった!」と言って全然引き止めなさそう。その分、本人が頑張っているあいだはサポートしてくれているんだろう。


出陣が決まり『刀剣乱舞』が始まる。

豊前の指ぱっちんがかっこよかった。



島原に着いた6振。戦うときに機動順に出てきてくれるお約束が嬉しいです。ゲームファンを喜ばせるのがうまい。

鶴丸が一歩引いたら豊前と大倶利伽羅が同時に出てきて息ぴったりに刀を振るうの最高でした。互いの信頼関係や実力の拮抗を想像させる。

時間遡行軍が引いたときに「逃げた? いや違うな!」ってすぐ気づく豊前もよかった。

このミュ豊前は初期実装組よりはあとに顕現したけど、それでもけっこう経験豊富っぽく設定されているようで、意外性があって好きです。豊前を経験豊富なサポートポジションに置くっていう発想に拍手。松井をサポートしてくれるし、鶴丸のことも理解している感じ。それでいて自分を犠牲にしたり歴史において死んでいったひとに心を痛めるほどの献身さはなく、自由で個人主義。

ミュ陸奥守が近いけど、彼には垣間見える影があったのだけど、豊前はそういうのもなくてさっぱりしていると思います。

泣いている右衛門作を引きずる鶴丸を守って、「一応戦闘中だぜ?」って言った豊前も大好き。まあ守るっていうか、鶴丸も自分の実力に自信があってどうとでもなるから無防備にしている風なところがあって、強キャラ感増し増しでした。

殺陣もよかった。太刀と打刀の中間な大倶利伽羅は、一太刀が重くて、速さが際立つ豊前と対照的でよかった。


天草四郎が死んだあとの右衛門作の嘆き具合もよかった。無気力になってめそめそ泣いて、時間遡行軍の攻撃目標が余りに的確で笑っちゃう。

ここで天草四郎が死ななくて鶴丸たちがいなくたって三万七千人は死んでいるのだとわかっていても右衛門作の背中を撫でてあげたくなるよ。

この辺からあとずっと鶴丸が右衛門作に冷たく当たっているようなのですが、天草四郎が死んで浦島や松井がうろたえ歴史が変わりつつあるなか、鶴丸は諦めずなるべく放棄された世界をつくらないよう手を尽くしていて、それは別に鶴丸自身のためではなく主のためなんだと思うと、刀剣男士って健気でいじらしい。

天草四郎が死んだあと大倶利伽羅たちが鶴丸に追いついたとき、鶴丸は仰向けに寝転んでいたんですよね。それもなんだかよかった。

寝転んで、無常の風が雲を流すのを見ていたんでしょうか。

ああ、人間は突然死んでしまう。

死んだ人間と墓場に埋められたことがあったかもしれない鶴丸、死んだ人間は「生きていない」と思い知っただろう。死体と墓場にずっとあったなら、鶴丸だって人に忘れられ、ただの錆びた鉄塊になっていたかもしれない。

人間は突然死んでしまうし天草四郎が死ぬことだってある。それを鶴丸はよくわかって遺体を「モノ」と言ったのだろうけど、無常の風にあがいてもがいて逆らって生きる道を歌っていたのも鶴丸なのだ。

鶴丸の熱い心はここではよくわからないけど、主には見せているし私たちも知っているという構成ずるいよほんと。


鶴丸は歴史に善悪はなくただの事実であると突きつけた。歴史が変わるというのは事実が変わるだけ。生きたり死んだり生き延びたり、そこには善悪による因果関係なんてない。

それじゃあなおさら鶴丸たちが戦うのは、主のためなのかと思える。

なんてかわいい奴らなんだ。

なんのために顕現したのか、それはこうして戦うため。事実を変えないため。こうだったらいいみたいな感傷が動機であってはならない。

でもその感傷にさえも善悪はなくて、なんのために生まれたのか、それは問い続けるしかない。刀剣男士も、私たち人間も。(『乱舞狂乱2019歌合』のエキス。)


めそめそした右衛門作が歌うのは歌詞違いの『おろろん子守唄』。

「その光はガラサ
ばってん消えた 消えてしもうた
夢やと誰か言ってくれんね」
(『おろろん子守唄』)

ガラサは神の恵みのことです。右衛門作は、一曲目の『おろろん子守唄』では、ゼズス様には「夢ん中なら会えるやろう」と歌っていた。悲しいとき、寂しいとき、光を見失ったとき、それでも目を閉じれば光はあると歌っていたのに、目の前にあった光が消えてしまったとき、これが夢なら覚めてくれと歌うのだ。

現実がつらいときはいい夢を見たいし、希望に溢れていた現実を失ったときには悪い夢だったと思いたい。

人間はもろくていい加減で身勝手だ。



鶴丸は、歴史を守るため、天草四郎を演じることで難局を切り抜けようと提案する。歌うのは『パライソ讃歌』。これは『謡えパライソ』に代わる刀剣男士版の天草四郎テーマソングです。まず鶴丸が歌う。

「目的地はひとつ
道は無数
辿り着きゃいい
手段は任せる」
(『パライソ讃歌』)

歌の最後の「エイメン(アーメン)」がキリシタンである右衛門作をおちょくってていい。ただし「嘆いてねえで付き合えよ おろろん おろろん」っておろろん子守唄を改変して口ずさむところはもっと最悪で最高でした。

右衛門作の憎しみのこもった目を笑って受け流す鶴丸格好よかった。

これが鶴丸の最適解ですか。これくらい憎まれなきゃ、その人に憎しみを持ち続けられないですからね。右衛門作を可哀想だとか思って同情したら、使命を果たせなくなってしまう。


三振は天草四郎を演じるにあたって、彼のカリスマ性、パライソへ導くもの、秀頼の忘れ形見であるという側面をそれぞれが分担して担っていく。

鶴丸はカリスマ性を、浦島はパライソへ導くものを、日向は秀頼の忘れ形見を。

すごい。脚本が気持ちいい。

この分担について劇中でははっきり説明されません。鶴丸が直感で天草四郎を演じるよう指示したように見えるけど、それもきっと計算づくなのでしょう。


『パライソ讃歌』では、音階の違いで民衆の歌っていた「パライソ」が失われて塗り替えられてしまったように聞こえます。

民衆の歌う『謡えパライソ』では「パライソ」は「ラ」で下がる谷型。

鶴丸の歌う『パライソ讃歌』では「パライソ」は「イ」で上がる山型。

まったく違う言葉で「パライソ」へ導こうとしているのに、鶴丸の歌の上手さが圧倒的な説得力となって民衆は疑わず着いていく。これこそが鶴丸が担う天草四郎のカリスマの部分なのだとあとからじわじわ実感しました。こういうの、ミュージカルならではの表現で好きです。

いやしかしカリスマの部分を自ら担って実行するところ、鶴丸のすごさですね。



浦島は、刀剣乱舞(ゲーム)をやっているとわかるのですが、顕現すると「ヘイ! 俺と竜宮城へ行ってみない?」と言います。竜宮城は存在しないかもしれないがあると信じたいものであり、パライソと似ています。その浦島が「パライソへ行こう」と言う役を演じる。

刀ミュがゲームのセリフを引用するのはファンサービスに近いと感じていたのですが、それだけではないと気づかされました。

浦島は亀吉を探していたり、虎徹の「兄」の話題に触れたりします。それによって「パライソへ行こう」という誘い文句とゲームでの「竜宮城へ行ってみない?」というセリフが結びつきやすく工夫されている気がします。もちろんゲームのことを知らなくても公演は楽しめるけど、浦島はたまたま天草四郎の役を与えられたのではないのだということです。


浦島にはまた別の役割もあると思います。

『浦島虎徹』という刀には浦島太郎らしき人物が彫られているけど、亀が彫られていないそうです。亀吉をよく見失ってしまうのはそのせいではないかな。そもそも彫られているのは浦島太郎ではないとも言われていて、浦島の求める竜宮城や亀吉の実在性はいっそう希薄になっていく。

浦島は平和な時代に打たれ人の血を知らない。彼の夢想する竜宮城は「パライソ」のように闇の果て、闇の底にあるのかもしれない。それでも実在を証明する手立てはなくても、あるかもしれないと信じることで楽しく生きられるなら、その方が健全です。

浦島が島原の乱のあとに打たれることは劇中で明言されます。浦島が朗らかでいられるのは、このあとの平和な時代を当たり前に過ごしたからかもしれない。

「見えんばってん そこにおるやろが」

浦島にとってのそれは竜宮城であり、戦のない平和な時代なのかもしれません。

信じたいと思うからそこにある、とも言える。それは救いを求め天草四郎に集った民衆も同じなのかも。



続きまして日向。

右衛門作が『右衛門作音頭』で「秀頼公の忘れ形見」と歌うとき、日向が短刀を提げている腰のあたりに触れていて、ダブルミーニングになっていることが暗示されています。天草四郎がそうではないかと噂されていた「かの太閤殿下のお孫様」ということと、秀吉に所有されていた『日向正宗』としての「形見」であること。

浦島だけでなく日向も天草四郎を演じる因果があったんですね。

日向に集まる民衆は、はじめ6人だけど、歌の終わりには13人に増えており、多くの民衆が次々と集まっていくさまが視覚的にわかりやすく表現されています。

豊前の「インチキくせえ気がするんだが」「嘘っぱちじゃねえか」に対して「嘘ではない! あれは光だ。人は光を求めているのだ!」と答える右衛門作。天草四郎が死ぬ前、右衛門作がどのように人集めしたか垣間見せるようにもなっています。たしかに「インチキくさい」。


また豊前のキャラクター性もさらにわかってきます。

豊前は重要刀剣に指定され確かに存在した記録のある刀だけれど、現在は所在不明になっているそうです。かつての来歴を頼ってアイデンティティとすることもできただろうけど、それより「今は所在不明」ということに重きを置いて、それを受け止めているということです。

存在しない(所在不明である)ことを自分らしさにするなんて、本当に豊前は潔い男士だ。

かもしれない仮定や推測より、今がどうか。

豊前にとっては嘘かもしれない「太閤殿下のお孫様」なんてうたい文句は魅力的でないし、人を集める手法として問題があると思っているのでしょう。

実際ここで集まった信徒たちがこのあと何をするか。

やはり何事もインチキはよくないですね。



大倶利伽羅ソロ。

「己からこぼれた息
白く染まり 消え行く
見えぬはずのものが色を持つ」
(『白き息』)

「息」は普段は目に見えないものだけど、白くなって目に見えることもある。見えないから存在しないわけではない。そして息があることは生きていることの象徴でもある。

また「白」という色は慣例的に無色と同一視されがちですが、実際は違います。白にも色がある。

刀剣男士も白い息に似ています。いつでもそこにあるものではないけど、確かにそこにあって、でも見え方は一定でなくあっという間に消えてしまいかねない存在。だから自分が存在していること、その意味を必死に肯定したり否定していかなければならない。

このソロからの流れも好きです。

歴史は、大勢の信徒が集まったところから、その信徒が虐殺されたという流れを辿り始めます。止まらない川の流れのように、流れる雲のように、時代が望まない人の波に乗せられ進んでいくような息苦しいくらいの勢いがある。



島原では、日向のもとに集まった信徒たちが強引な勧誘をし、そしてそれを拒む人たちも現れる。

民衆は日向が秀頼に似ていたかどうかコミカルに言い合っていたのに、ふと暴力を振るったことが引き金となり事態はどんどん悪化していきます。

ここは、右衛門作が「嘘っぱち」で集めた民衆が人を殺したことで、右衛門作の手法の不誠実さを示している場面でもあると思います。

暴力を振るったら暴力で応じられるし、さらに凶暴な力に発展する覚悟も必要になる。

その連鎖を断ち切るための手段が「敵を全員殺す」になるのは、正直どうかと思いますが、このあと江戸時代では大きな内乱がないのも事実。そもそも暴力がなければ「刀」という武器も存在しなかったわけで。

歴史に正解はない。

歴史は事実。偶然だろうが必然だろうが。

そこに善悪を求めちゃいけませんね。

ともあれ右衛門作を単に不憫で同情されるべき存在にしないようバランスが取られていて、そこもいいなと思いました。

事態はさらに悪化し信徒は寺社を襲い非武装の僧侶をも殺していきます。

正しい歴史のはずなのに誰かに手を加えられたかのような狂気がたまらないですね。何が史実で何が嘘っぱちか、もう誰にもわからない。

浦島が意味を知らずに兄弟に「パライソへ行こう」と言っていたこと、反乱に加わった他の信徒も同じだったのかもしれません。



ついに信徒は原城を奪い『三万七千の人生(ライブ)』が始まります。ライブはコンサートと命の両方を意味しています。

城を落とすっていうのは容易じゃないですよ。地理的に攻めにくいようにできていて、職業軍人(武士)がそれを守っているわけですから。これは只事ではない。城主側(幕府)は強い危機意識を持ったと思います。

一揆軍は飢えた農民や信徒だけではない、攻撃的な力を持った集団になっていたということです。

ここに集まった民衆を見ていると武家身分っぽい人は刀を持っていて、農民っぽい人は棒に包丁をつけたような武器を持っている。さまざまな人が寄り集まっていることがわかるよう丁寧に表現されています。

この歌がまた格好いい。

「轟かせよう三万七千の鼓動
俺は名指揮者
歴史に残る
ライブをしようぜ」
(『三万七千の人生』)

好きだ。天草四郎(シロー)、白(シロ)、城(シロ)で韻が踏まれているのとかどうでもいいくらい歌がいい。

たくさんの人が死んでいく。でも誰が生きて誰が死ぬか、それは誰かが選べるものでは決してない。それは刀剣男士も同じ。

歴史(事実)を守る以外の選択はあってはならない。死んでいった人が正しく死ぬように事実を守ることが任務。歴史というのは死の累積という気もしてくるなあ。だから鶴丸に許されたのは、生きた証を残すことくらいだったのかもしれない。

三万七千というただの数字ではなく、ひとりひとりの違う人生を鶴丸が受け止めてくれているようで、彼はこのあと民衆が死ぬよう先導しているっていうのに、もっと生きろと言ってくれているようで、無常の風に逆らう鶴丸の生き方を体現しているようで、勇ましくて格好いい。おそろしいほどのカリスマ性とともに。

でも死へ導いているのも事実。

「この城は俺たちの城
キリシタンのパライソだ」
(『三万七千の人生』)

違うだろー!

みんな思ったはず。

パライソはこんなところにはない!

みんな思ったはず。

でももう引き返せない。引き返せないことが正しい。



鶴丸が板倉内膳を討ち取るとき、彼の殺陣がサブリミナル的に刀と鞘で十字をつくっていてそれで次々に人を斬るんでこわいですね。天草四郎のまま人を殺している。

鶴丸と大倶利伽羅のデュエット『静かの海』ではタイトルを回収します。「静かの海」は月の地形につけられた名前でした。月には砂地しかないですが、海があると想像して行ってみたいと話す鶴丸たち、かわいいなあ。

「見えんばってん そこにおるやろが」

それは人の心次第。

光、竜宮城、パライソ、秀頼の忘れ形見、豊前江、天草四郎、静かの海、月の裏側、血の記憶、吐く息、神の子と信徒、三万七千の人生、平和な時代。そのどれも信じればそこにあるし、ないと思っている人にとってみればないのと同じ。

見ないように考えないようにして生きることもできる。

それを月にある海に例えた鶴丸、詩的で完璧すぎる。


「そこに風は吹かない
退屈な場所さ」
(『静かの海』)

「静かの海」に対して大倶利伽羅が「穏やかな場所」と形容して、鶴丸は「退屈な場所さ」と返す。

劇中、鶴丸の人生観は一貫しています。

野暮な説明になりますが、月には大気がないので風が吹かないんですね。それを「退屈な場所」と言うんだ、鶴丸。

無常の風が吹かない世界なら突然散ってしまう花の命はないのだろうけど、「予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んでいく」。「退屈で死んでしまいそうだぜ」という鶴丸のボイスを彼の生き様として徹底的に表現している。

風に逆らうのは簡単なことではない。

でもそれは生きているからできること。

いつか死ぬから何もしないのならすでに死んでいるのと同じ。苦しくてつらくてひもじくて喉が渇いて自分の命を散らそうとする強い風に吹かれても、それに逆らって生きるのが鶴丸の人生なのだ。



続いて松井のソロから始まるのが『明け暗れ刻』。赤いサスが差して海も空も月も真っ赤になっています。でも松井の心境には変化があると思う。

登場時『滾る血』では「鮮やかな血が映えるのは静かな月灯りのもと」と歌っていたけど、今回は朝日を期待するように「朝ゆく月の仄かな光」「今はまだ明け暗れ刻」と歌う。明け暗れ刻は夜明け前の明るくなりつつある時間のことです。

豊前は途中から現れて松井とデュエットします。

松井が「耳に残る遠い海鳴り」と歌えば、豊前は「風が運ぶ遠い海鳴り」と返してくれる。

この二人のデュエットは、寄り添っている感じがとても強い。

他の人からしたらただ夕陽に赤く染まっただけの海だとしても、松井にとってはそこから聞こえる唸りが自分を責める叫びに聞こえるのかもしれない。それを豊前は否定せず、「俺にだって聞こえるさ 海の歌」と返す。

海の音、風の音、それは豊前にも聞こえていて、でも豊前にとっては「海の歌」なんだ。豊前にだって迷うとき、苦しいときはきっとあったと思うけど、今は違う。松井だっていつかこの海の音を、滅んだ者たちの叫び声ではなく、ただの海の歌なんだと思えるときが来るかもしれない。豊前はこのデュエットでそうして松井に寄り添っているいる気がします。

「今がまだ明け暗れ刻なら
ともに朝を待とうか」
(『明け暗れ刻』)

豊前は、朝は来るとか、明けない夜はないとか、そういう励ましじゃなくて、そのときがいつになるかなんてわからないけど、一緒に朝を待とうかと優しく言ってくれる。かっこよすぎか。


松井がはけてから豊前のソロ。

「朝の光だけじゃない
同じ赤に染まってやるよ」
(『明けに染まる刻』)

はあ、優しい。

豊前は明るい場所で待ってるだけではなく、朝は来るって言うだけではなく、まだ暗いなか朝を待っているとき隣にいてくれるんだ。この豊前、地獄へ行くなら一緒に行こうかって言ってくれるタイプです本当にありがとうございました。豊前のポテンシャルがすごいんだわ。

松井に寄り添うデュエットのあとの豊前のソロ、嬉しい。

私はずっと、豊前は今回の公演で、自我がないキャラクターだと感じていたんです。お金を払ったら隣に座ってくれるホストのごとく、自分というものがない。何が君のしあわせ?って聞きたくなる。

自分のことも幽霊みたいなものと飄々と言うし、松井が島原に来たのも任務だから仕方ないくらいにしか思ってなさそう。人間を斬るのにもちゅうちょがないし、インチキに加担していると感じても結局そのまま流されちゃう。

だからこのソロを聞けてよかった。

松井に対して「しんどいだろうけど」と心理的な寄り添い方をしてくれた。

豊前に自我がないように感じたのはそれは脚本の狙いと言えばそうかもしれないけど、彼は何かに抗って逆らって光を求めるタイプじゃなかったからなのかもしれない。

鶴丸の生き様を見せられて、それが「強さ」だと思っちゃってた。

豊前はそうじゃなくて、無常の風に吹かれているとき隣にいて、風に逆らうのかまだ決められてなくても、朝を待つって言うなら一緒に待つと言ってくれる。血の海を見ているとき、一緒に見てくれる。そういうリーダー像なのではないでしょうか。

「大したリーダーだよあんたは」と豊前は鶴丸に言ったけど、豊前だって頼もしいリーダーだよ。

待つタイプのリーダーだから、豊前は松井が人を斬るまで何十年でも待てるんだろうと思えたし、それに気づいてからは逆に鶴丸はショック療法的に他に選択肢がなくなるまで追い詰めていく感じで自分の上司にはしたくないと思っちゃったね。

だいたいノルマを課しつつ「手段は任せる!」って言って任されるのこわいわよ。

ともあれ豊前が「あんがとな」と言うとき、鶴丸への一瞬の憤りも感じた気がするし、鶴丸は鶴丸で自分の意図を察した豊前にほっとしていて、なんだか大人なやり取りでした。

リーダーだってつらいよね。

組織には鶴丸みたいな物事を進めるひとが必要だし、豊前のように優しく寄り添うひとも必要。どっちも必要。あんがとね!

この二人、リーダーとしての心構えが全然違うから、お互いにときどきヒヤッとさせられてたら楽しい。お互いのやり方に口は出さないけど、ちょっと違うよなっていう瞬間はちょくちょくあったりしてね。



松井がとうとう人を斬るとき。

朱に染む。赤い照明を舞台だけでなく客席にも向けるから、文字どおり会場一面が血の海になって、それはそれまで松井の見ていた血の幻影どころじゃなくてセンセーショナルだった。

三万七千人が死ぬ。

縛られた右衛門作によって『おろろん子守唄』が歌われる。歌詞は「夢ん中なら会えるやろう」に戻っています。

鶴丸がまた「おろろん」を歌うのだけど、それを聞いたときの右衛門作の反応が、一度目の故郷を踏みにじられたような憎しみの表情と違って、今回は自分のしたことへの悔恨を浮かべているように見えました。

右衛門作に「長生きしろよ」って言う鶴丸、私には全人類にそう思っていそうな慈愛を感じました。後悔を抱えて生きろってことではなくて、もっと優しさのある言い方だったんです。

だって鶴丸の生き様は無常の風に逆らって生きることだから。

いまが悲しみのどん底でも、この先もずっとそうとは限らない。大切な人、無二の光を喪ったとしても、二度と光を得られないわけではない。

島原の乱では一揆軍だけで三万七千人が死んでしまう。幕府方にももちろん犠牲はあっただろう。歴史を学ぶとき、歴史に触れるときにいちいちそんなことに心を砕いていられない。でもあとで、どこかで、そういう時間がとれたらいいね、そんなことを鶴丸たちが言っているような気がします。



島原が地獄の様相を呈するなか兄弟によって歌われるのが『誰も教えてくれない』。

「誰も教えてくれない
大切なこと何ひとつ
誰も答えてくれない
大切なこと何ひとつ」
(『誰も教えてくれない』)

それは誰かが教えてくれるものではないかもしれないけど、教えてくれたかもしれない人たちはみんな死んでしまった。

「生きるその意味
死に行くその意味
教えてください」
(『誰も教えてくれない』)

この兄弟は、母が一揆に加わらなかったことで殺され、今度は生きるために一揆に加わって死んでいく。生きる意味、死に行く意味、そんなものないのではないか。歴史から見たら彼ら兄弟はどうあっても死んでいて、死ぬのが正しいみたいに思えて悲しい。


最後、ずっと鶴丸が下げていたロザリオをお兄さんの遺体にかけることで任務が終わる。天草四郎の最後の要素は、「神の子」だったのでしょうか。

構成的には、最初に天草四郎を演じた役者が最後また天草四郎になるところが収まりがよかった。



パライソが死後の世界なら三万七千人はパライソへ行ったのでしょう。

この公演は歴史に名前を残さなかったものたちへのレクイエムみたいに思えます。鶴丸は「お前の言う歴史ってなんだよ。歴史に名を残した奴ばかりが歴史を作ったわけじゃねえんだぞ」と言う。

この公演では、歴史に名前を残さなかった人物の名前は徹底的に伏せられています。一揆軍の誰一人として、人を斬れないとふざけ合っていた幕府側の二人の武士も、あの兄弟も。美術館に所蔵され、記録され、語り継がれる刀剣とはまるで違う。

実在した兄弟の名前をつけることも、実在しない武士の名前をつけることもできたのに、あえてそうしなかった。脚本もうまくて、名前が出てこない違和感はほとんどなかったと思います。気づかない人もいるかもしれない。

でも名前が残っていないことと、存在しなかったことは違う。

あの猿みたいな人、口元を隠してた人、白髪のおじいさん、襲われた女性、武士、僧侶、名前はわからなくても心に残った人が誰か一人でもいたならこの公演は成功なのではないでしょうか。歴史に名前を残さなかった人、この公演のあいだ名前を呼ばれなかった人、でも確かに存在した。


右衛門作が内通者だったかどうか言及しないのも個人的には良かったです。島原の乱の真実、みたいなことはテーマではないから。

インフェルノ、パライソ、ゼズス様、神の子、秀頼公の忘れ形見、豊前江、竜宮城、血の記憶、歴史に名前を残さなかった人、光、明日、朝の木漏れ日、吐く息。見えたり見えなくなったり、信じたり、信じられなくなったり。でも「見えんばってん そこにおるやろが」なんですよね。フィクションでこういう問いかけしてくるの、罪深い。


本丸に帰還して、笑い合う人たち、そこに島原で死んでしまった人たちも一緒になって笑って終わる。パライソねえ……。

地獄を経由したパライソはパライソと言えるのでしょうか。

その答えは彼らだけが持っている。




以上、感想おわり。

ツイステ

育成が間に合っておらず6章の攻略にあと3か月はかかるのではと思っており、でも急いで攻略したいわけでもないのでゆったり構えてのんびり育てるつもりなのだけど、イデアのことすごく好きなうちに夢小説をあと1つ書きたくはある。ファンとして今から小説書くっていうなら6章を見届けてからなんじゃないという思いと、でもイデアの捉え方は6章で何があっても変わらないのではという根拠のない自信がせめぎあっている。

どうしようかね。

イデア夢小説で相手がオリモブ寮生♂なので私にしか需要がないから自分で書くしかない。書いたら5年後に読み返したとき自分が楽しいんだ。

はあ困ったね。



2022.7.7
6章クリアできた。解釈一致でした。

幼少期イデアが「イデア様」って呼ばれてて最高だったよ。

問わず語り(刀ミュ)

問わず語り聞いて泣いちゃった。

「誰もいなくても 大地はそこにある
誰もいなくても 空はそこにある
誰もいなくても 風は吹き荒れる
でも誰かがいなくては 歌は生まれない」

好きだ。

江はすごい勢いで追加実装されてしかもすぐミュージカルに抜擢されて(山伏推しとして)嫉妬してないこともなくて見ないようにしてたけど、桑名くんいい子だな……。かわいい。大地は大事だよ。桑名くんから歌い始めるの…いいな…。


「誰かが言った 覚えておいてと
誰かが言った 忘れてくれと」

「誰かが言った 見つけてくれと
誰かが言った 隠してくれと」

好きだ。

恥の多い人生ですので、目立ちたくないし、全世界に忘れられて誰にも気づかれず小さくなって静かに消えていきたい。そういう人間もいるわけじゃないですか。

心覚見てないからまだなんとも言えないけどさ。

忘れてほしい歴史とか、知られたくないと誰かに託された歴史だってあるでしょう。天下を取ったり、義を貫いて死んでいった人だけが歴史じゃない。

ああ、間違えちゃったなあ。

そんな風に死んでいった人もいるでしょう。



乱舞狂乱2019歌合を見て書いた記事。

「人間なんかいなくても花は咲くし鳥はさえずるし風はそよぐ。でもそれを美しいと思って歌を詠み、千年後まで歌い継ぐのは人間だった。」

そうなのよ。

世界に人間は必要ないのよ。

地球にやさしく?
環境を守ろう?

なーに言っちゃってんの。

人間が人間にとって生きやすい世界を維持することを、まるで地球が望んでいるみたいに言っちゃって。人間が絶滅したら喜ぶ生物だっているでしょう。

でも人間がいなかったら歌は詠まれない。畑も季語もなくなって、生きるために生きる生物があふれるんだろう。桑名も蜻蛉切さまも歌仙も燭台切もみんないなくなるんだろう。

それってちょっと寂しいな。


刀ミュはたぶんもう随分前から人間讃歌していたんでしょう。人間なんかいない方がいい!っていう感情を、丁寧に、慎重に、否定して。

愛だなあ。

なんかもうほんとに早く人間辞めたいのはずっと変わらないけど、ちゅうちょなく見たい公演の配信を購入するために今日も働いている。

世界に人間は必要なくても、人間には人間が必要なんだ。

愛だよねえ。


刀剣乱舞くんの愛が今日もどっかで消えてなくなりたいと思ってる人間を救っているんだろうな。愛。
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