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空き樽は音が高い

「浮気なんてしてねえよ」

お決まりのその言葉の白々しさが、実際に耳にすると映画やドラマ以上に信用ならないという現実に、波多野は感動さえ覚えた。

御田は波多野の恋人だ。付き合って半年が過ぎようとしているが、既に御田の浮気の為に4回は破局し掛けている。疑惑だけ数えれば桁が変わってしまう。

波多野は御田に渡されたスマートフォンに目を落として溜め息を吐いた。

そうは言っても……。

「浮気、してないんだよね?」

嫌に堂々としている御田は、自身の潔白を信じているからこその態度ではない。許されることを知っているのだ。と、波多野は思っている。

「してねえよ」

御田は余裕そうに椅子に座り、自分の髪を指先で遊んでいる。

「嘘吐き……」

波多野は小さく呟いた。

波多野自身は、後ろ暗いことは無くとも携帯電話を覗かれるのはいい気がしないと考えている。恋人のプライベートを詮索したくはないからだ。

特に経験則から御田の携帯電話は見たくないと思っている。

御田の方はプライベートなことは記録に残さない質なので、言わなければバレないと考えている。

「だから、確かめろよ」
「それってさあ、前から思ってたんだけど、御田も私の携帯見たいってこと?」
「はあ?」
「悪いけど、私そういう積もりないよ」

御田は波多野の言葉を聞いて脚を組み替えた。

長い脚は御田の自慢だが、波多野が御田の顔や長い脚等の容姿を気に入って付き合った訳ではないことに御田は気付いている。そのことを思い返して御田は再び脚を組み替えた。

部屋には衣擦れの音が響く。

「あんたが浮気だって言うから見せてるだけだろ。早く確かめれば?」

波多野は「そうだね」とだけ返事してスマートフォンを操作した。

先ずメールのアプリケーションを呼び出して送受信フォルダを確認することにした。メール全体の母数が半端になっている。何件か消去したのだろうが、それはなんの為か。

次にSDカードの中身を確認した。メールが保存してあったが鍵が掛かっていて見ることはできなかった。

最後に画像を見ると、楽しそうな画像がいくつかあった。女の子が勝手に撮って御田はそのことを知らないのだろうか。

結論、やはり怪しい。

だから見たくないのに、と波多野は思った。

「ありがとう」

スマートフォンを返された時、御田は勝ち誇った顔をした。機械類が苦手な御田にとっては怪しいところなど一つも無いからだ。波多野にとっても“そう”だと信じているから疑いは晴れたと思っている。

「もういいだろ。どっか外行こうぜ」

御田は背を伸ばして言った。

「天気いいな」と窓の外を眺める御田から波多野は目を逸らした。

波多野は御田の容姿が好きだから付き合った訳ではないし、彼の内面に惹かれた訳でもない。御田にアプローチされた時に独り身だったから軽い気持ちでOKしたのだ。

なのに、なんで……。

「御田、あのさあ」
「何」

波多野の声に御田は振り返った。手には部屋の鍵が握られている。

「別れようか」

波多野の言葉に御田は顔を顰めた。

「浮気してねえって言ってんだろ」
「それはもういいや。そうじゃなくて、なんか、御田もこういうの嫌なんでしょ」
「そりゃ誰だって疑われんのは嫌だろ」
「たぶん私はずっとこうだよ」

御田は手に持っていた鍵を机に置いて、波多野を見据えた。まだ若い御田の目は波多野の心の底まで貫くような鋭い光を宿している。

「波多野さんって、俺のこと好きじゃないよな」
「え?」
「俺って結構モテる方なんだけど、タイプじゃない訳?」

波多野は思わぬ反撃に苦笑いして目を逸らした。

「格好良いと思うよ。背も高いし……」

御田は波多野の腕を掴んだ。

「それだけ?」

波多野は、御田の強い眼差しが若さに起因するものなのか、或は支配欲に起因するものなのか計り兼ねた。

「優しい時もあるし」
「それだけ?」
「他にもあるよ」
「俺は全部好きだよ。だからあんたを手放す気はない」

そうですか。

それはどうもありがとう。

好きだとか離さないとか言う御田の言葉は、恋人と結婚について真剣に話し合ったことのある波多野にとっては、何時も何処か軽々しく感じられる。今自分に向けられている視線にしても、実現性のない無い物ねだりに思えた。

「じゃあなんで浮気するんだろう」

脳裏に浮かんでいたことが口を突いて出た。波多野はしまったと思ったけれど、直後にそういう本音を隠すべき仲でもなくなったのだと気付かされた。

好きでもない男と痴話喧嘩。

未来明るい青年と私。

波多野は喉の奥で笑った。咳込むような笑い声は波多野を余計に惨めにさせた。そしてそれは御田をも惨めにさせるものだと、波多野には分からなかった。

「浮気してねえって言ってんだろ」

御田は掴んでいた波多野の腕を振り払った。

「はいはい。ごめんね」
「うぜえ」

うざい、だって。

波多野は今度は声に出して笑った。口元は恐怖に引き攣ったように歪んだだけで、何も楽しい訳ではないことは明白だった。

「御田は若いね」

御田は波多野を睨んだ。

「あんたは老けた振りしてるだけだろ。俺に同情して欲しいわけ?」
「同情ね。して欲しいね」
「ほんとうぜえ」

御田も笑った。歪んだ笑みだった。

「私のこと好きでもない癖に」
「俺は何度も好きだって言ってんだろ」
「若いっていいね。気持ちが無くても好きだとか簡単に言えて」
「はあ?」
「そうじゃなかったら、好きの価値観が違うんだね」

御田は眉根を寄せた。刻まれたその眉間の皺は、美術の教科書か資料集に載っていそうな、業と闘う仏像を思わせる険しさだった。

波多野はそんな御田を見て、また笑った。

波多野の場違いで軽薄な笑みを見た御田もいよいよ不愉快さが増す。

「俺がガキだから、言葉に重みがねえのかよ」
「じゃあもう一度浮気なんかしてないって言ってよ」
「浮気なんかしてねえ」
「スマートフォンの画像フォルダ見た?」
「はあ?」
「可愛い女の子がこの部屋で写真に写ってるけど?」

波多野の追及に返す言葉を無くした御田は、口元を引き攣らせてスマートフォンを操作した。浮気の証拠写真とも言えるその画像を見て、御田は「あいつ…」と恨めしげに呟いた。

「あんただって、俺のこと好きでもないのに好きみたいなこと言ってたじゃねえか」

御田はスマートフォンをポケットに突っ込んで言った。

波多野は御田の余裕のない口調を聞いて笑った。恐怖に歪んだものではなく、御田に見せ付けるように自尊心を剥き出しにした大人の笑い方をした。

「私、好きだからなんて子どもっぽい理由で付き合ったことないから」
「はあ?」
「ごめんなさい。そんな安っぽい言葉でも、言って上げればよかったね?」

御田は床の箱ティッシュを蹴り飛ばした。派手な音を立てて壁まであっという間に辿り着いて、落ちた。

がこん、と鳴った。

波多野は一瞬怯んだけれど、益々自分が優位に立っていることも分かったから顔に貼付けた微笑は崩さなかった。

「あんたなんか願い下げだ!」

御田は怒鳴った。

波多野は笑った。

「私もだよ」

波多野は後ろを振り返らないで一直線に部屋を出た。ドアが閉まると、部屋の内と外とを遮断する金属音が薄暗い廊下に厳粛に響いた。

またやってしまった。

強がって、罵倒して、醜悪な自分を曝け出して、最後に酷く後悔する。

波多野は笑った。

力無い笑い声は乾いた廊下に反響した。



曰く、“空き樽は音が高い”。
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秋風が立つ

ぴゅうと吹いた風は、私の気持ちも何処かへ運んで行ってしまった。

「ごめんなさい。残酷なこと言うようだけれど、あなたに興味無くなっちゃった」
「……何時から?」
「分からないけれど。この間、冷たい風が吹いたでしょう。あの時に気付いたの」

哲くんは3回瞬きをした。3回目の瞬きの後、そのまま顔を下げたから、本当はもっと瞬きしていたのかもしれない。

「随分と急だね」
「そうね」
「秋風が、立ったんだ」
「あきかぜ?」

哲くんは俯いたまま頷いた。

「こういう時に、使う言葉だよ」
「こういう時に?」
「露霜の/あきたることも/つゆしらず/寒き庵に/一人寝んかも」

哲くんはそれきり黙ってしまった。

「難しいこと知ってるんだね」

風が哲くんの前髪を揺らした。涙が睫毛を濡らしてキラキラ光っていた。それがとても綺麗で、私は子どもの頃に見た煌めく川の反射を思い出した。

明日も晴れるといいなあ。

ちょっと遠出して、川までピクニックに行こう。



曰く、“秋風が立つ”。
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相手のさする功名

戸川は芸能雑誌をローテーブルに投げ遣った。表情は満面の笑みである。

「俺が単独トップ取っちゃおうかな」

雑誌には見開きページ一面に『三郷了の芸能生命も終“了”!?』という字が踊っている。

戸川はそれを再び見て込み上げる喜びを声に出して笑った。戸川は三郷と同じ芸能界に身を置いて居るから、商売敵の失敗が楽しいのである。

彼らは共にアメリカ人と日本人のハーフで、共に俳優を指向するモデル出身のマルチタレントで、加えて不運なことに二人して芸名が『リョウ』であった。

戸川の芸名は戸川遼である。

詰まりキャラが被っていた。互いのキャラクターを潰し合うだけでなく、彼らのファン層である若い女の子達にも識別されずに間違われることが度々有るのも問題である。

「何一人で笑ってるの。やらしいなあ」

後ろから声を掛けたのは戸川のマネージャーをしている七窪だ。ショートカットは傷む程薄い金色に脱色されていて背も高く、何処か一般人離れしている。

「三郷了がバイク事故だって」
「嗚呼、それ」
「やっぱ“リョウ”は一人で十分だもんな」
「最低だねえ。おかげで売れてる部分も有るじゃない」
「七窪にはコッチの気持ちは分かんないんだよ。俺なんて三郷了のブログ購読しちゃってるもん」

戸川は大袈裟に溜め息を吐いた。

その戸川を見た七窪もまた呆れたように溜め息を吐いた。ローテーブルに広げられた芸能雑誌を手にすると、数ページぱらぱらと捲ってから丸めてごみ箱へ押し込んでいる。

「怪我なんてきっと直ぐ治るし、向こうにとっては事故も良いネタでしょ」
「え……」
「売れたかったら他力本願なんて止めて、もっと自分を磨きなさい」
「今より格好良く成れって言うの?」

戸川は至って真剣に尋ねた。

「演技が下手」
「それは御尤も」

七窪は戸川と会話しながらもスマートフォンで何か調べつつ携帯電話で誰かに発信している。戸川はそれを器用だなあと思い眺める。

「そういうのなんて言うか教えてあげる」
「何?」



曰く、“相手のさする功名”。
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挨拶は時の氏神

怒鳴ってから自分が怒鳴っていることに気付くまでに暫く掛かる。何時もそうだ。

『死ね』

半分以上本気でそう言われたのだと分かるから、俺はまた酷いことをしてしまうんだ。罵倒して殴り付けて踏み潰す。

支配している実感。

正当化された達成感。

優越感。

引き換えに失ったものがあるとは思いもしない。

殴り倒して乱暴すると佐伯は頭をガードする以外の抵抗はしなかった。そう気付くまでに丸一日掛かった。

ぐったりしている佐伯の頭には固まった血がこびりついていた。

「お前が悪いんじゃねえか」

素直に従え。

無駄に逆らうな。

俺のことが好きだと言うのなら、俺の望むことだけしていれば良い。ここは俺の家だし、この間まで大学生だった佐伯を只で置いて遣ってたのだから当然だろう。

「五月蝿い……」

佐伯が俺を睨んでそう言った。

「起きてたのかよ」

夏でも長袖を着る佐伯は会社では“クーラーが寒いから”と言い訳しているらしい。何も知らない佐伯の同僚達に黄色や紫色に変色したその腕を見せ付けて遣りたい。澄ました佐伯の顔が歪むところは誰にとっても興味有るに違いない。

俺は佐伯が屈服するのを確認しては心が満たされる。

「まだ有休あるんだろ。休むって言っといて遣ったぞ」

佐伯には持病が有ることになっている。電話に出た佐伯の同僚は感じの良い声音で「お大事にとお伝え下さい」と言っていた。

簡単に信じるんだな。

「死ね」

佐伯は壁伝いに立ち上がりながら吐き捨てた。

「俺が死んだら、泣く癖に」
「は、死ぬとか考えたことあんの?」

何時かは死ぬだろ。

誰だって、お前だって。

お前が意識を失った時は、俺がそうさせてしまった時は、何時ももう死んだのかもしれないって考える。

「俺を馬鹿にしてんのかよ」

佐伯の髪の毛を掴んで壁に頭を叩き付ける。傷口が開いたのか血が僅かに壁に付いた。

本当に、殺して遣ろうか。

そう思った時、チャイムが鳴った。客人の訪れを知らせるそれは場違いに軽快に鳴った。

「隣に引っ越してきました。砺波です」

ドアを開けるとそこに居たのは子どもだった。中学生か高校生くらいの少年だ。

「わざわざありがとうございます」
「これ詰まらないものですけど」
「嗚呼、どうも」

部屋の奥で佐伯が動く音がした。

佐伯は生きている。

俺が生かさなくても、あいつは勝手に生きている。

「これからよろしくお願いします」と言って去って行った砺波という少年は佐伯の存在に気付いたのだろうか。

「何、引っ越し?」
「隣だって」
「あっそ。お返しとかすんの?」
「要らないだろ」
「あっそ」
「シャワー使うの?」
「うん。お借りします」

興味無さそうに返事した佐伯の手は着替えを持っている。そして髪の毛を汚している血の塊を指先で弄りながら脱衣所に続く扉に手を掛けた。

「どうぞ」

しれっとしやがって。

舌打ちしてから壁に残った血の跡に気付いた。

拭けよ、自分の血じゃねえか。

シンクで壁の血を拭う為のタオルを濡らしながら、俺の無用な怒りや怒鳴り声もあの血みたいに何処かへ置いて次に進めたら良いのに、と思った。

シャワーを浴びた佐伯の髪は、俺の汚い感情を忘れたようにさらさらとしていた。

毎日誰かが引っ越して来れば良いのにな。

毎日リセットして。

喧嘩等、無かったものとして。


曰く、“挨拶は時の氏神”。
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愛敬付き合い

デスクに掛かって来た朝一番の電話は広渡さんが受けた。

少し高くてよく通る声が人気の少ないオフィスに響く。

呼び出し音に脊髄反射で伸びる広渡さんの腕を俺は密かに尊敬している。どんなに難しい問い合わせや要望にも対応して解決して行くその姿勢は俺の理想の社員像だった。もし正社員だったら広渡さんみたいに成りたかった。

派遣社員の俺にはそう思う資格もないのかもしれないけれど。

「すみません。なんでしたか?」

広渡さんが受話器を置くのを見計らって尋ねると、広渡さんは「佐伯さん、休みだって」と言った。

その何処か寂しそうな声音に嫉妬する。

佐伯さんと広渡さんは仲が良い。

佐伯さんは昨日も休みだったので今日で2日連続の欠勤に成る。持病が有り、こういうことは年に数回あるらしい。

繁忙期に向け派遣社員として契約したばかりの俺は詳しく知らない。

何も知らない。

課長と係長に報告した広渡さんは「大丈夫かなあ」と呟きながら自席に戻った。細い身体を預けると椅子の背は小さく軋んだ。

「今日で2日目だよね」
「けっこう酷いんですかね。本人に聞けることでもなくて、よく知らないんですけど」
「ね。辛いとか言ってくれないけど、けっこう酷いんだと思うよ」
「心配ですね」
「心配だね」

嫉妬する。

彼らはどんな関係なのかと、下世話なことまで勘繰ってしまう。

翌日出社すると佐伯さんが居た。広渡さんもカバンは在るので来ているのだろう。彼らは揃って朝早く出社して、帰りも時々一緒に会社を出ている。

「おはようございます」
「ん、おはよう」
「身体大丈夫ですか」
「うん、まあ」

佐伯さんは無表情のまま短く答えた。

佐伯さんは広渡さんとは正反対だ。愛想が悪いし、言葉もはきはき言わないし、仕事に対する熱意も感じられないし。

けれど俺は分かっている。

佐伯さんには心惹かれる何かが有る。

だから……。

「広渡さんが心配してましたよ」

広渡さんは貴方のことを心配していた。

俺は嫉妬していた。

「うん。聞いた」

そう言った佐伯さんは、うっすらと破顔した。照れたようなその笑みは広渡さんに向けられるべきものなのだろう。

糞、苛々する。

佐伯さんが席を立つのに合わせて、俺も後を付いて行く。給湯室に入った佐伯さんはタンブラーを持っていて、これからコーヒーを入れようとしていた。

「佐伯さん」

俺が呼ぶと佐伯さんは緩慢に振り返った。

「ん、どうしたの」

佐伯さんは冷静な目で俺の頭から爪先までを眺めた。俺は派遣社員ということもあって給湯室にはほとんど来ない。タンブラーも持って来ていないし、珍しがるのも無理は無い。

「コーヒー、どうぞ。入れて下さい」
「嗚呼、三波君も飲むの」
「いいえ、違います。すみません、ありがとうございます」

佐伯さんは少し黙って考えてから、「何かあったの」と言った。

「俺に用事?」
「はい」
「何。よく分かんないけど」

よく分かんないよね。

俺もだよ。

「広渡さんと仲良いんですか」
「……まあ、そうかもね」
「やっぱりそうですか」
「何、意外?」
「いいえ、そう見えたからそう言ったんです」

佐伯さんは何か察したように口角を持ち上げた。それは面白いことを発見した時の顔だった。サディスティックに目を細めて、俺の目を鋭く見据える。

「三波君、広渡さんのこと好きなの」

よく分かんないよね。

「違います」

佐伯さんは俺の言うことなど信じていないかのように笑みを深めた。獲物をいたぶるシャチの目はこんな目だろうと思える冷酷そうな目だ。

「隠すことないのに」
「隠さなくて良いんですか?」
「……良いんじゃないの」

佐伯さんはタンブラーの蓋を閉めると給湯室を後にしようと俺の方へゆっくり歩いて来た。

隠さなくて、良いんですか。

そうですか。

「身体の何処が悪いんですか」
「……は?」
「佐伯さん、昨日と一昨日お休みされてたから」
「嗚呼、何、俺か」
「はい」

佐伯さんは俺の耳元に口を寄せて囁いた。

「誰にも言わない?」

そんなことは聞いてみないことには判断できない。しかし俺は佐伯さんの誘いに間断なく首肯した。断る訳が無い。

「広渡さんは知ってるみたいですけど」

とても心配していたのは知っているからだろう。そういう口ぶりだったように思う。

だから俺は嫉妬した。

「持病なんて、無いよ」
「はい?」
「有休取る口実に、丁度良いから言ってるだけ」

何て言ったんだ?

「口実?」

佐伯さんはコーヒーの香りを身に纏って吐き捨てた。

「広渡さんって、簡単に信じるんだよね」

悪魔のような、鬼のような、丸で人非人の言葉ではないか。愛想が悪くても発声が悪くてもこの際どうとでも成る。しかしこの性根の腐った考えを更正することは不可能であろう。

知らなかった。

知りたくなかった。

広渡さんはきっと俺よりも傷付くに違いない。

佐伯さんにとっては広渡さんも俺も同じように仕事だけの表面的な付き合いの人間でしかないらしい。体調を崩して欠勤しても大して心配しないだろうと見縊っている。

何故俺に言ったのだろうか。俺が派遣社員で契約が切れれば即さようならの関係の浅い人間だからだろうか。

糞、糞野郎。

「俺にそんなこと言わないで下さい」

残酷過ぎて泣きたく成る。

佐伯さんは一笑して言った。

「三波君だから教えたんだよ。三波君はどっちの俺を信じるの」

俺はそんなことを言って欲しくてここへ来た訳ではない。『三波君だから』って言うのは、或は『派遣社員だから』と同義ではないか。

悔しい。

恥ずかしい。

俺の中で燻っていた感情がぐつぐつと煮立ち始めた。それらは水分を失い余計に悪化する。

「糞野郎」

俺は自分にだけ聞こえるか聞こえないか程度の声で呟いた。吐息に紛れて漏れ出た、というのが真実だけれど。

「おはようございます!」

その突然の声に振り返ると広渡さんが居た。爽やかな笑みが眩しい。

「あ、おはようございます」
「おはよう」

慌てて返事したからか、広渡さんはくすりと笑った。

「三波君、じゃあね」

そう言ってから佐伯さんは小声で「隠さなくて良いと思うよ」と続けた。

何も知らないのは、お互い様だ。

「好きです」

俺の言葉に広渡さんは小さく「え」と漏らした。

「誰を?」

誰を好きなのか、だって?

そんなことは決まっている。

俺はこの会社に派遣されてからずっとこの気持ちを抱えて仕事をして来た。派遣社員だから言えなかったのか、関係が浅いから言えなかったのかは自分でも分からない。

上辺だけの関係はもう終わりにする。

ずっと好きだった。

今も好きだ。

知らないことだらけなのはもう嫌だ。

好きだから。

知って貰いたいことだらけだ。

好きだから。

ずっと好きだったから。

あんただよ。

「佐伯さん」


曰く、“愛敬付き合い”。
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愛多ければ憎しみ至る

朝起きたら昨夜のことが嘘みたいに、爽やかな風が吹いて澄んだ青空が広がっていた。昨夜のことが、嘘なら良いのに。

宇城が男と話すなと言う。

男は馬鹿で軽薄で話すに価しないからだと言う。

あ。思い出したら悲しく成った。鼻の奥がつんとして、涙が溢れ出た。

だって。

「無理じゃん、そんなの」

私は鼻水をかんだティッシュをごみ箱へ放って、そう言った。既に中に大量に在る鼻紙に弾かれてそれは音も無く床に落ちた。

嗚呼、可哀相な鼻紙。

仲間にさえ弾かれて孤独に成った。

「無理じゃん、そんなの」

二度目はちょっと嘲った風に言ってみた。

昨夜、逆上した宇城はその勢いのまま私の携帯電話を圧し折って投げ捨てた。めきめきと歪んだ私の携帯電話は、歪んだ末にぱきんと簡単に折れてしまった。

携帯電話の残骸を撫でてみる。

宇城の声が蘇る。

掠れて不明瞭な怒声。

私の悲鳴。

怒声。

批難。

怒声。

嗚咽。

私と宇城の嗚咽。

私にとってそれは世紀末だった。混沌として秩序を失った愛が部屋中に蔓延っていた。この世に終わりが訪れて私が地獄に堕ちるならば、そんな終末になるのだろうと思った。

私は宇城と別れたくない。

私は宇城を愛していたし、宇城も私を愛してくれていたからだ。

でも私は宇城と別れた。

私は宇城を愛していたし、宇城も私を愛してくれていたからだ。

愛し過ぎて秩序を失い、愛し過ぎて盲目になり、愛し過ぎてその他の感情が溢れ返って、心の中がぐちゃぐちゃに成ってしまった。キャパオーバー。私の器は小さ過ぎた。

私は宇城に愛されていたし、多くの男達にもよく愛された。知っている人にも知らない人にも愛された。

嫉妬とか焼きもちとか、笑ったりからかったりできれば良かったのだけれど、宇城はそれを許して呉れなかった。

宇城の激烈な愛は、私達を切り刻んだ。



曰く、“愛多ければ、憎しみ至る”。
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京香

「疲れているのかい?」

ウォルターは機械の不調を認めるような目で私を見た。揺らめく紫煙の隙間に見える緑の瞳は幻想的で美しいけれど少し冷たいと思った。

「大丈夫です」

疲れではなく、気苦労です。

私の言葉にウォルターは首を傾げた。

「私は疲れているのか、と聞いたのだよ」
「……すみません。疲れてません」
「それはよかった。しかし、私は君に言っておくよ。仕事は君の為に与えたものだ。仕事の為に君が働くようではいけない」

ウォルターは手持ちの書類に捺印しながら事もなげに言った。さらりと書類を捲っては捺印して何かメモを取ることを朝から繰り返している、その業務の一環であるように言った。

「私の為の、」

私の為の仕事。

私の為の。

「そう。だから遠慮せず休みなさい。そして前よりよく働きなさい。君自身の為にね」

ああ、うん。

この目の前の人は凄いことを言っているような気がする。

成る程、高貴なオーラを放っているだけのことはある。生まれの良さによるウォルターの道徳観は伊達ではない。

「神様の言葉みたいですね」

それは働く喜びを歓迎する聖人の言葉のように思えた。

容姿が綺麗だから聖人より天使か。

ウォルターは一笑の後、困ったように言った。

「それは、そう思うなら、私の知る神とは別人だ」
「……とか、天使みたいです」

不味いだろうか。

軽率だっただろうか。

ミクは『神は死んだ』と言ったけれどウォルターもそういう思想の持ち主だとは限らない。敬虔な人間かもしれない。

どの国でも年配者は保守的だ。

神や天使のことを、この世界でのドグマも理解していない私が軽々しく言うべきではなかった。少なくとも神は人間とは別次元の存在なのだろうし、ウォルターの道徳観が優れていると認識したばかりだったのだし。

失敗した。

「君には心底驚かされるよ」

ウォルターはまた笑った。

ヤン・ロウ・クリプス

レオンの我が儘な旅は毎度のことで、私は彼への同行を断る術もその権利も有していない。今回も急に同行を求められたけれど、頷くしかなかった。

私は旅と言うものが嫌いだ。

私の心根を感じ取ったようにレオンが尋ねた。

「この街は嫌い?」

レオンは寝転んで暖かく蒸らしたタオルを顔に掛けている。篭った声は穏やかでこちらまでリラックスできる。

「そちらこそ、空気が乾いている街は嫌いだと言っていませんでしたか」

レオンは乾燥しているところに長く居ると目や喉を傷めてしまい易い体質らしい。蒸らしたタオルは乾燥に効果が有るらしく、時間の有る時によく用意を頼まれる。

レオンは気持ち良さそうに湯気に包まれたまま緩慢に唸った。

「仕事だからなあ」

そうですね。

それだけとも思えませんけど。

「仕事と言っても、シークはこの街に居るのでしょうか」

私がそう言うとレオンは上体を起こしてタオルを退けた。顔には妖しい笑みを浮かべている。

「もっとイイもん見付けたかも」
「良い物?」
「リリアン院長なら欲しくて喉から手を出すよ」

そんなに?

「もしかして、何か悪巧みしていませんか?」

私の言葉にレオンはかぶりを振った。

「まさか」

変異の中でも特殊なレオンの頭髪は、彼の言葉に釣られるように艶やかに蠢動した。レオンは嘘が上手だけれど、その髪は正直に彼の心を映し出す。

「シークではないなら、レオン・ガガ・ラスコー様でも見付けましたか」
「ある意味それよりもっと凄い」
「もっと、」

本当に?

「“天然のシーク”だよ」

レオンの髪は風も無いのにざわざわと蠢いた。

京香

家に帰ると智仁は食事を終えたところのようだった。テーブルには小さな明かりがあり、そこで本を読んでいる。

智仁が高校生の頃私は殆ど家にいなかったので17歳の智仁をこうしてじっくり見られることは面白い。見過ごしてきた様々なことに気付けそうだ。

例えば智仁は我慢強いこと。

智仁は飽きっぽいし気分屋だからもっと自由に生きているのだと思っていた。だから私も、智仁は私のことなど捨てて智仁の為の智仁の人生を愉しめばそれでいいと思っていた。

彼は今日も私を許容する。

慈悲深い愛と強靭な忍耐と不可思議な笑みで私を赦す。だから私は智仁を愛さなければいけない。

ここへ来て、よかった。

その意味では私は得るものが多かった。

智仁も同じように思うのだろうか。私の新たな一面を知って前向きになれる時もあるのだろうか。

「私、若返った?」

甚大な損失の外にある一筋の光。

生きる喜びを知る玲瓏な鐘の音。

智仁は、世界の全てだ。

智仁は私の言葉を聞いて顔を上げた。深みのある青い瞳は迷いなく私を見据えた。

「まさか、また?」
「うん。歩いて少しのところにワープしちゃった」
「大丈夫だったの?」

大丈夫じゃないよ。

ラゼルじゃダメだった。智仁がいい。もしまた知らない世界で一から生きて行くなら、私は智仁と一緒がいい。そうでなければ、きっとダメだ。

「神様に嫌われるようなことしたのかな」

これを試練と呼ぶのなら、私がただの魔物なら、何処かで笑う神様を驚かせてやろう。

私は智仁と生きる。

人間として生き抜く。

智仁は本をテーブルに置いて強く私を抱き締めた。智仁の優しさがその二本の腕から伝わる気がした。

京香

「ここが何処だか分からなくて不安でしたら言っておきますが、私はこの場所を知っています。貴女の住む所へも一緒に戻って差し上げます」

ラゼルは相変わらず絶望の滲む声音で言った。少し掠れたそれを色っぽいとも思う私は本当に駄目なのだろう。

現状把握なんて知ったことか。

「五月蝿い」
「私は貴女のことが好きだから、」

はい!?

「分かったよ!」

私の大きな声にラゼルは少し身を引いて構えた。何か言い掛けていた口は間抜けに半開きのまま静止している。

私は立ち上がってその場から離れた。

というより、逃げた。

逃げたかった。

「京香さん!?」
「……」
「何処へ行くんですか?」
「さあね」
「急がなくても私は貴女をアルの所へ帰しますよ。約束します」
「そう。ありがとう」

救世主だと思ったバイアスが異常性癖者だった過去があるから他人の言うことなんて簡単には信じられないよね。

私は智仁を見習った笑みを返した。

「…笑うと可愛いですね」

場合によっては褒め言葉にもなるのかもしれないけれど、どちらかと言うと失礼な感想であるその言葉を聞かなかった振りして、私は分からない道を突き進んだ。

ラゼル

彼らは始めから疑われていた。特に京香は全く信用されていなかったし、仕事で成功しているアルでさえ未だに学士だと公には認められていない。

「アルに部屋を用意しました」
「そうですか」
「明日は一緒に食事に行きます。君も来ますか?」

ソフィアは澄んだ瞳を瞬かせた。

この美麗な男は、笑顔で私を貶める。

「いいえ。申し訳ありません」

私の返答を気に留めた風にソフィアは眉尻を下げた。「それは残念です」と呟いた声には心が篭り過ぎて態とらしいとさえ思えた。

ソフィアには何も悪いところがなく間違いもない。そう理解していても、虫酸が走る。

「アルは術士だと思いますか?」
「…ソフィアさんは、そう思うんですか」

ソフィアは顔を歪めた。それは頭痛に苦しむ幼い子どものように見える。

「思いたくない、とは思っています」
「ユウズの中には社会で全うに生活している人間もいるみたいですけどね」
「それは私たちが内政に夢中だと思っているからですよ。顔が術院で、身体が私たち、そのどちらが駄目でもいけないのに」

じゃあ、頭は誰なんだろうな。

「少なくともアルは過激な連中とは違います」
「私もそう思いますよ。少し冷めたところがありますからね、彼は」
「……、そうですね」

アルは京香を閉じ込めているのだと思っていた。あの黒い瞳に惹かれた憐れな男だと思っていた。

けれど彼は違う。

彼らは一体何者なのか。彼らは本当にただ術に巻き込まれただけなのか。今の時点で国防省へ潜入する内通者ではないと否定して良いのか。

ソフィアは苦しげな表情を和らげて言った。

「確かなのは、私はアルが好きだということです」

翡翠が穏やかに煌めく。

私は京香の黒い瞳を思い浮かべながらその緑を見詰めた。ソフィアの言葉を根拠もないのに紛れもない真実だと信じてしまえるのは、私もまた同じように思っているからだ。

ソフィアはアルを好きだと言う。

私は京香が好きだった。

京香

ラゼルは私にジャケットを掛けてくれた。冷たくなっていた身体は泣いて温まっていたけれど、その優しさは嬉しかった。

「いじめる積もりは、なかったのですが」
「でも私の所為で術に巻き込まれたって思ってるんですよね」

ラゼルは眉尻を下げた。捨てられそうになっている動物みたいでなんとも言えない哀愁がある。

「いいえ、まさか、」

だったらなんだ。

「でも私に原因があるって言った」

ラゼルは「そうですよ」と頷いた。痛々しく愛想笑いを浮かべていた。

『だから貴女は二度のうち二度とも、巻き込まれるべくして必然的に巻き込まれた』と言っていた。二度のうち二度ともキスした時に巻き込まれたのに、そう言っても信じてくれなかった。

ここには地球にあった科学理論も宇宙を貫いていた物理法則もありはしない。

ラゼルの思考は丸で穴だらけのロジック。

私には“術”などと言う非科学的事象を理解できる訳がなかった。

「……いいですか、よく考えて下さい」
「考えてるよ」

ラゼルは逡巡してから静かに私の隣に腰を下ろした。

「責めている訳ではないんです」
「うん、分かったよ。それが何」
「貴女はよくよく考え直す必要があります」
「何を」
「貴女は何故ここに居るんですか」
「術に巻き込まれたから」
「それは誰のなんの為の術ですか」
「…知らない。村の人はそういうことは時々あるって言ってた」

『不運だったね』とは言われたけれど、それ以上は彼らも追及しなかった。利用価値のある智仁を追い出す程ではなかったということだ。

ラゼルは私を真っ直ぐ見た。

「術士は学士程多くは居ません。術は生まれ持った素質に左右され易く、特に人間を遠くへ移動させてしまうような高度で大規模な術式を敷ける者は数える程でしょう」
「…でも何処かに居るんですよね」
「数える程です」
「だから?」
「分かりませんか」

ラゼルの灰色の瞳が焦燥に駆られるのを見ていられなかった。

大体ここは何処なのか。

「それよりどうやって帰る?」
「それより?」
「ここで私と暮らす?」

智仁とそうしたように?

私は自嘲した。

「京香さん、いいですか。誰がやったのか、そして何故なのか。それを突き止めなければ貴女はまたきっと、“不幸にも”術に巻き込まれることになります」

ラゼルの声はとても低くて、丸で彼自身が絶望の淵に立って居るかのようだった。絶望の淵に立ちその深淵を覗き見て、絶望に笑い掛けられでもしたかのような希望の無い声だった。

私は何も知らずに立ち去りたい。

私の惰弱な心の声は、静粛なその場所では憐れにも響き渡るのだろう。

京香

キスが深くなってラゼルが私の座るベンチに身体を預けようとした時、私は覚えのある感覚に襲われた。

ぐるりと内臓を掻き回されたかと思ったらラゼルが私に倒れ掛かってきた。私自身も硬い地面に身体を投げ出されて腰や肘をぶつけてしまった。

“術”だった。

今度は何処だ?

「…な、に……?」

身体と顔を引き離したラゼルの口元には血が滲んでいる。

「多分、術です。巻き込まれたんだと思います」
「冷静だね」
「二度目ですから」

ラゼルは私を見詰めてから「そうでしたね」と呟いた。

「しかしここは、」

地球に戻っていたら面白いんだけど、と私は密かに思った。それでは智仁が向こうの世界に残されてしまうので、私はまたラゼルとキスしてあの魔法世界に行って智仁とキスし直して地球に戻らなければいけないのだろうか。

ややこしい。

「前も、キスしたら、移動しちゃったんですよね…」

私が言うとラゼルは真顔で考え込んだ。

「私を誘ってる?」
「違うよ!」

こんな時まで変態な解釈か。

「術は術士が恣意的に行うもんだよ。逆に、巻き込まれる側には巻き込まれるだけの原因が必ずある。だから貴女は二度のうち二度とも、巻き込まれるべくして必然的に巻き込まれた」

ラゼルは真剣な顔付きでそう言った。冗談のつもりではないらしい。

キスが原因ではないの?

私が悪いの?

ラゼルの真剣な顔付きが、そうではないと分かっていても、丸で私を責めているように感じた。だってラゼルは、“二度”も術に巻き込まれた私には、そうであるだけの有意な原因が必ずある、と言っているのだ。

口元を触ると私も血が出ていることが分かった。

身体のあちこちがずきずきと痛い。

これも私の所為なの?

「じゃあ、もう一度キスしてよ」
「…私はそういうことは好きじゃないね」
「さっきはしたじゃん」
「伝わってない?」
「何が?」
「……私は愛を込めて口付けたのに」

ラゼルは唇を私の間近に寄せた。

もう、よく分かんない。

私は自分の何が原因でこんな異次元世界へ打っ飛ばされるのか皆目見当が付かない。きっとラゼルにも分からないだろうし頭のいい智仁にもまだ分からないだろう。

愛がなくてもキスで元通りになるならそれでいい。

セックスしろって言うならするよ。

そうでなければ、私には、もう打つ手立てなど一つとして残されない。

帰りたい。

せめて智仁のところへ帰りたい。

怖い。

寂しい。

悲しい。

智仁に会いたい。

帰りたい。

ほのかに会いたい。

寂しい。

寂しい。

寂しいよ、お兄ちゃん。

「ひどいよ、」

私が悪いの?

一滴の涙が零れた。頬を伝ってあっという間に流れ落ちていく。

そして私は自分がまだ13歳であることに気付いた。

京香

外は涼しかった。風は生暖かいけれど陽が低い所為か肌寒い。黒い瞳に執着を見せるラゼルとのことを智仁に知られたくなくて、私はラゼルを外に連れ出したのだった。

ここは建物と建物の間にある中庭のようなところで人通りは少ない。私が樹の下に置かれたベンチに座ると、ラゼルはその正面に立った。

「アルに聞かれると困りますか」

ラゼルは私を見下ろしながら言った。穏やかな笑顔は相変わらず私好みの上質で品のある紳士的スマイルだ。

「そうじゃありません。それにアルは私の個人的なことに興味もないと思います」
「本当にそうですか?」
「ええ。それで、そっちこそ、あんなことを言うためだけに何日もうちへ通ったんですか?」
「あんなこと?」
「……『瞳が見たい』って、」
「ああ!」

ラゼルは目を細めて「いけませんか」と尋ねた。

「他に理由があるんですよね?」

だから外へ誘い出すように敢えて智仁の前で変なことを言ったのだろう。安心感を齎す微笑の裏で何か企んでいるに違いない。

ラゼルは首を傾げて見せた。

「他に理由があっても、貴女への言葉に嘘はありませんよ」
「分かったから。それで、なんなの?」

これ以上そんな目で見られるのは困る。そんな意志の強い目で見られるのは。

「ミクさんと会っているみたいですね」
「…ええ、まあ」

ミク?

バイアスではなく?

「嫉妬してしまいますよ」
「はい?」
「貴女の瞳は私を見ない」
「……いや、」
「今だってそうです」
「いや、」

それはラゼルが私を凝視するからだ。

「私を見て下さい。その美しい宝石のような瞳で」
「……分かったから、」

根負けしてちらりとラゼルを覗き見ると灰色の瞳に捕まった。私は一歩も動けなくなる。

どちらが魔物か分からない。

温い風が肌を撫でた。それなのに寒さで鳥肌が立った。

色味のない灰色は私だけを映している。

「私はミクさんには敵わない」

ラゼルは笑顔を崩さずに言った。優しげな声が紡ぐ言葉は、けれど酷く冷淡で場違いだった。

それとも、場違いなのは笑顔の方?

「敵うとか敵わないとかいうことじゃないと思いますけど」

そもそもミクには敵わないから私からラゼルを選んで欲しいというのも論理的に破綻している。その上で私はミクとラゼルに優劣を付けた覚えはない。

「貴女は、賢いだけではないらしい」

ラゼルは私に歩み寄った。

私はラゼルの陰に覆われた。紫色の空にラゼルのシルエットだけが刳り貫かれて映る。

綺麗だなあ。

絵に描いたような映像だ。

これは宗教画だろうか。

それとも映画?

ラゼルは神様が遣わした天使のように私から見える景色全体を支配して煌めかせる。そして私の心を穏やかに侵す。

「ラゼルさんは、貴方は私には、綺麗なだけに見えます」

ラゼルは私に触れて、口付けた。
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