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クレシエル

兄が働いていたことは隠すことになった。授業を受けるのに必要らしい何かの試験を受ける為に学校へ行った時、俺は兄と校長の予定通りの会話を聞きながら、頭の中では自分がしなければいけない会話を練習していた。

学校へ行ったことがないというのは、しかし思ったよりは簡単に受け入れられた。

俺が試験を受けるだけで必要な手続きは全て済んでいるらしかった。校長は、授業についていけないようなら特別の補習を用意する準備があるとも言った。学校に行ったことがないというのは受け入れられても、どう扱うのかについては戸惑いがあるらしい。


兄と寮を見学していると、兄が自然に歩くからか、俺たちが変に浮いているようなことはなかった。他学年については相部屋にならない限り係わりがないのかもしれない。

ただ、一人は違ったけれど。

細くて神経質そうな姿が第一印象だった。細い眉を寄せると一層際立って見えるけれど、少し長い髪はそれを相殺するように白い肌を隠す。後ろ髪は結んでまとめているけれど、前髪は目元まで下りている。

「ピノ……!?」
「はい?」
「……すみません、人違いでした」
「あ、いや、私はピノですよ」
「え」
「今度戻って来ることになったんです。またよろしくお願いします」
「よろしく」
「私だって分かったの、あなただけですよ」
「……あ、そう」

別れる頃には敵意すら感じるくらいに睨まれていて、兄が親しく会話をするのが不自然に思われた。こんな人に囲まれて、俺はあと6年もここに居るのだと思うと、気が沈む。

兄は緩く笑ったままの顔を俺に向け、同級生だと告げた。

筋肉

本当は力を抜いて割れ目がうっすらでちょっと弾力あるくらいが好き
触るなら

クレシエル

俺が女性に興味がないと言った時、兄はほとんど反応を示さなかった。あるいはそれに気が付かないくらいには、緊張していた。

分かっていたのは、それでも兄は俺を見捨てたりしないこと。

兄が俺を無条件に受け入れているわけではないことも、血縁関係に大きな意味があるとは思っていないことも、2人で暮らすようになって痛いほど感じていた。だから目に見えないルールにも丁寧に気配りした。

兄が初めて宿題を出した時、だから俺には拒否することはできなかった。

宿題は毎日欠かさず出され、少しずつ難しくなっていく。定義や証明を求める他に外国語やスペルを憶えたり小説の登場人物の心情を考えさせるような、俺には学問と思えないものもあった。実のところ、学校に行ったことのない俺には自分が一般的に何歳向けの勉強をしていたのか分からない。ただ1年も経たないうちに、図書館に行かなくては分からない問題が出てきたのは確かだ。

土日は指定された文章を読むとかピアノの練習曲を暗譜するといった簡単なものだったけれど、次にはそれらに関するあらゆることに宿題になる可能性があったから、手を抜けないことに変わりはなかった。

兄はいつでもどんな宿題に対しても真剣に回答の検討と評価をする。

1日で全ての宿題を終わらせられなくなった時、兄を裏切るようで、自分の無力さを思い知らされるようで、怖かった。しかし兄はただ難し過ぎたねと言って笑った。俺はなぜか泣きじゃくっていた。

それから俺は、宿題は午前中に全ての計画を立て、兄の仕事仲間と昼食をとる時までに疑問点を明らかにするようにした。兄は俺の質問全てに対応してくれたし、思いもよらないアドバイスをくれることもあった。知識が増える度に兄に近付ける気もしたし、学校に行かなくて良いのだと思うこともできた。

俺が質問することで、どういう問題が不得意で時間が掛かるのかが分かってきたのか、宿題が多くて終わらないということはほとんどなくなった。

そうでなくても兄が拭い去ってくれたものは大きい。

考えてみれば生活費は父から送られてくるし家事は分担しているし、兄とは対等な立場でいても良いはずなのだ。俺が精神的に頼っている部分はあっても、兄が俺を圧迫するようなことは決してなかった。

仕事を次々と変えさせることへの罪悪感はあったけれど、それを許してくれる兄に気付いてしまったら、もう駄目だった。

オットー

ピノはとても話しやすい人だった。寄宿舎を退学してから今までは、弟さんとお母様との3人で、空気のよいところで療養していたのだと説明してくれた。

ずっと学校へは行っていなかったらしいので、授業の分からなかったところを聞くのは躊躇われたけれど、聞いてみるとすぐに教えてくれた。教えるのがとても上手で、クラスでもそうやって多くの人に教えてきたのだろうと思った。

ピノは夕食を済ませてあるらしかったので一人で食堂に行ってシャワーを浴びて部屋に戻ると、ピノもシャワーを浴びてきたようだった。

「あのさ、お願いがあるんだけど」
「はい」
「俺、学校ではこんな風には話さないけど、気にしないで」
「へ?」
「まあ会うこともないと思うけどね」
「……どういう、意味ですか?」
「そのまま」
「……」
「相部屋なのにずっと無言って嫌だろうと思うから、ここでは特別」
「……」
「それで、食事も登校も別になると思うけど、部屋にいる時くらいは楽しく話そうな」
「……」
「どうした?」
「それって、どういう意味ですか」
「……」
「廊下ですれ違ったらどうすればいいんですか」
「お辞儀」
「いま話してるのは、本当は嫌だけど、無視するのは面倒だから、適当に応対してるんですか?」
「そういうつもりはないよ」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「……」
「本当に夕食済ませてあるんですか」
「もちろん」
「……」
「分かりません、俺」
「明日になれば分かる」
「……」
「私は、好きとか嫌いとかいう話しはしていない」
「……」
「こっちを向いて」
「……」
「君はこの寄宿舎が好き?」
「……はい」
「そう、それは良かった」
「……あなたは」
「好きだよ」
「……」
「でも、二度と通うつもりもなかった」
「……」
「弟も来ているんだ」
「……」
「弟がここに通う為に、私が入学するしかなかった」
「……」
「私が5年前に7学年上の授業を履修することができたのは、この学校で開かれている授業はすべて網羅できているからだったんだよ。しかしあの時でも最高学年の授業は退屈だったのだから、こういう学校の勉強で何か得られるものがあるとは思っていない。今だってね」
「……」
「こういう私と、学校で、何か話すことはありますか?」

圧倒された。質量のない何かに、圧倒された。

仕種から話す声まで、俺には違う人のように思えた。優しさの欠片もなかった。人間味の微塵もなかった。

サラ グラントール/少年の腕

冷めた顔の少年は、やはり夢から醒めた心地がしていたのだろうか。

私は汚い仕事をたくさんしてきた。嘲って罵倒しながら、そういう人ほど多くのお金を落としてゆくことも知っていた。感情を殺した表情は、たとえそれが笑顔でも涙でも怒りでも、私の周りには溢れていた。それと同じくらい、死とも隣り合わせだった。

ゴーラムは私を笑わせてくれる。私を怒らせてくれる。それには計略も意図もなくて、私が生きていくことを実感させてくれる。

この少年には、そういう人が現れてくれるだろうか。

「もう、おしまいです」
「……」
「私も弟も、もうここへは来られません」
「……」
「貴女の全てを信じられなくなったわけではありませんが、」
「……」
「何が本当だったのか、嘘だったのか、そういうことにさえ興味が失せたのは事実です」
「……」
「……」
「……私のこと、本当のお母さんだと思っていた?」
「……はい」
「そう、それは、」
「それももう、どうでもよいことです」
「……」
「サラでもノブラインでも、どちらが母親でも私たちには変わりありませんから」
「そうね」
「……」
「私、学校へ行かなかったのは、身体が弱かったからではないわ」
「……」
「あなたのお父様、私のこと、もらうって言ってる」
「聞いています」
「反対して、いいのよ」
「……」
「私はあなたが息子になるなら嬉しいけど、私みたいな母親は要らないって、お父様に、」
「興味のないことです」
「……」
「私たちには、関係のないことです」
「……そんなこと、」
「やめてください! 私は、貴女を、嫌ったことなど、」
「……」
「……もう、行きます」
「ええ」
「……」
「あなたの授業、面白かった」
「ありがとうございます」
「学校へ行きたかったのは、今も変わらないから」
「……」
「ごめんなさい、それだけ」
「……」
「……」
「さようなら、」

別れの挨拶は、喉の震えと息の詰まる感覚で、声にならなかった。抑えられなくなるような泣き方をしたのは、生まれて初めてだった。

母親としての感情を、生まれたものを下ろしたことすらある私が、抱いてよいのだろうか。罪悪と無道を拾い集めるような生き方を選んだのは、自分自身なのだと、その時になって自覚した。責任を取らないければいけない。

弟を支える少年の腕が、震えていたのを知っている。

サラ グラントール/少年の腕

初めて会った時からピノは事務的に見舞っているように思えた。私を母だと思っているのはゴーラムのせいだけれど、それを訂正してしまうのも違うように思えた。たとえ嘘でも、ピノにとってはこの方が、いいのかもしれない。

しかしそんなのは私のエゴだ。

傷だらけなのはゴーラムに暴力を振るわれているのに違いなかったけれど、ピノはいつもそれを否定した。ただ私の望みを聞いて、一つずつ叶えてゆく。私が本当の母親ではないと知っているのかもしれないと何度も考えたが、毎週末に私の元に来る彼らは、それにしては私に献身的過ぎた。

きっとピノが私を母親として見るよりも強く、私はピノを息子として見るようになっていた。

ゴーラムが私に悪いものを食べさせているのは知っていた。このまま殺されるのだろうと何度となく恐怖に駆られても、それでもここを離れられなかったのはピノがいたから。吹けば消えそうなピノの笑顔は、彼が必死でつくり上げ、そして守ってきた大切な宝物のようなものだ。私が彼から離れては、いけないように思った。

私が捨て子で、しかもショーガールをやっていたことをピノは知らないようだった。だから私も、私が学校にほとんど行っていないのは身体が弱いからだ、という嘘を吐いてしまった。

私の小さな願い事がだいたい叶えられた頃、ピノは私に勉強を教えてくれるようになった。もっと学校に行きたかったと言ったのは真実でも、私は勉強が好きなわけではなかった。それでもピノの解説を熱心に聞いたのは、その気持ちが嬉しかったからと、少しは勉強が面白いと思えたからだ。ピノの授業は難しいけど、引き込まれる何かもあった。

その全てが崩れたのは、やはり私がニセモノだったからだ。

早くに本当のことを言ってあげられればとも考えたけれど、幸せを自分から手放すことはできないという答えにたどり着くだけだった。それはいつも、何かが破壊する。

ピノ

あの時から、俺は父の言葉が信用できなくなった。人間という全体が、信用できなくなった。

俺は母と会ったことがなかった。身体が弱いという以上のことも知らされなかったし、母の名前すら知らなかった。弟が生まれて家にやってきた時、それを抱えているのが母ではないかという淡い期待はあったけれど、姉を産んだ時の年齢を考えるとそれは違うとすぐに気付いた。

しかし嬉しいことに、弟がうちへ来てすぐに俺は母に会えるようになった。母はサラという名前で、ずっと入退院を繰り返していることを教えられた。その大きな病院は、空気のいい、市街地から少し離れたところにあった。姉は家族に対してとても淡泊だったからか、一緒に病院に来ることはなかった。

寄宿舎にいながら俺は毎週母の元に訪れ、ただ1日母の隣にいるということに満足していた。弟も俺といられて嬉しいのか、週末には2人でそこに行くことが習慣になった。

しかし5回生になってすぐ、父が妙なことを言った。

「お前のお母様が死んでしまった。葬儀はお母様の田舎で行いたい。お前も来るか?」

サラは俺の母でも弟の母でも、まして姉の母でもなかった。父は母が死んで暫くするとサラと入籍したが、サラが俺にとって戸籍上の何であるかはどうでもよいことだった。そして田舎に一人で暮らしていた俺の産みの母が自殺したのだということは、葬儀の途中に知った。

母を求めなかった姉は、全てを知っていたのかもしれない。

弟が何をどこまで理解したか俺には計りかねた。サラに懐いていたわけでもなかったし、実の母の死にショックを受けているようでもなかった。ただ俺の側にいたがる弟はとても健気で、このまま寄宿舎にいることも、サラに面会することも、弟にとって良くないと思えた。

クレシエル

書類に分からないところがあったから兄に聞こうとして部屋を訪ねると、そこにはお客様がいるらしかった。髪が少し長くて、人当たりの良さそうな笑顔をする人だった。挨拶だけすることになった。

「お兄様は寄宿舎のことはほとんど話してくださらないんです。シュナイツさんみたいな素敵な方と同室だったなんて」
「ほんの何ヶ月かだったから」
「クレシエルは寄宿舎へは行かないんだね」
「あ、いえ…来週中には、入学するんです」
「そうなんだ! 楽しみ?」
「はい」

シュナイツさんは相槌が上手だったから、女の人や大人の相手をするのに慣れているのかなと思わせた。理想のお兄さんってこういう人なのかな、とも。

しかし空気全体を優しくさせるような人は、街のバーにも兄の仕事仲間にもいなかった。こういう優しさに触れると昔の兄を思い出す。そして、そういう彼らの育ちの良さを実感して落ち込むようなことはなくても、居心地の悪さを感じることは否定できないのだ。

猫を被る俺を見ながら兄は平然としていて、これからの学校生活も今のようであるだろうことに気が付いた

「シュナイツさんは、将来どういったお仕事を?」
「……」
「あ、あの、ごめんなさい。何か変な質問でしたか……?」
「ただ、新鮮で」
「……」
「まだ先の話しですからね。何を専攻しているんでしたっけ?」
「理学を」
「ああ、ならまだ学びたいことだらけでしょう」
「いや、そう、だね」
「……」
「……将来のお話し、あまりされないんですか?」
「クレア、もう、」
「僕、何か変ですか?」
「クレア、」
「僕、今まで学校へは行かなかったから分からないんです」
「……」
「……」
「新鮮だというのは、本当だよ。俺の周りの人は研究者になりたいわけじゃないのに大学院へ行ったり他の大学へ入り直したり」
「……そういうものですよ」
「働きたいなんて人間は、いないんだよ」
「……」
「クレシエルは不思議だね。働くことが普通みたいに言う」

居心地の悪さを、感じた。

家柄が良くて、頭が良くて、社交的で、努力家で、我慢強くて、そういう出来上がった人間に対して苦手意識を感じてしまうのは俺が今まで勝手に暮らしてきた罰なのかもしれない。ここずっとそうしてきたんだ、当然だ。

「働く!? お兄様が!?」
「そうだよ」
「子どもが働くなんて……」
「……」
「なんだか、賎しい」

俺の5年間が消えてしまわないか、不安になった。

シュナイツ

ずっと捜していた人は目の前に現れた。門前払いも覚悟の上で父の名前は言わなかった。素直にピノのかつての同室だということを告げると、彼はするりと登場したのだった。

「あは、本当に先輩だ」
「……お久しぶり」
「お久しぶりです。あ、こちらからどうぞ」

5年間も経っているのだし、成長期の前と後なのだし、身長も伸びていて俺よりも高くはあるが想定の範囲内なのだし、しかし、それにしても、別人のようだった。

「どうして家の場所知ってたんですか?」

いきなり厳しい質問だったが、用意しておいた問答通りでもあったので不自然にはならなかったと思う。お母様の不幸についての挨拶をする為に彼のお父様とも顔を合わせた。お父様は俺が知り合いの息子だと気付いたようだったけれど、気を遣っていただけたのか、2人にしてくれた。

「まあこんなことがありましたけど、俺たち親子は元気なので大丈夫です」
「うん、でも何かあったら気軽に連絡くれてかまわないから」
「はい」
「力になれるかはともかく、だけど」
「あはは」
「で、それで、その……」
「……」
「寄宿舎を出た後は、どうしていたの?」
「母と療養です」
「……あ、そうか、ごめん」
「いえ」
「……」
「先輩は、彼女できました?」
「へ!?」
「俺たち寄宿舎生の三大悩みの種の一つじゃないですか」
「ああ、うん、ああ、そうだね!」
「可愛い彼女いそうですよねー」
「あ、そうかな」
「はい」
「そう、でも、ないんだけど」
「……」
「あのさ、今度どっか遊びに行こうよ」
「はい」
「……」
「俺、寄宿舎に戻ることになりました」
「え?」
「だからあまり外には出られません」
「寄宿舎、戻るの?」
「はい」
「……そうなんだ」
「はい」
「外、出られないね」
「……」
「あ、俺、そろそろ帰らないと!」
「なんのおもてなしもできなくて……」
「いやいや、懐かしかった。楽しかったよ」
「俺もです」

違和感の正体は一人称の変化と、俺の気持ちだったのかもしれない。そして彼は知ってたんだろう。今気付いたというよりは、その方がずっと当て嵌まる。

あれほど優しく拒絶されたのは初めてだ。

ゴーラム

来訪者がなくなった頃、ピノはクレシエルと私の3人で話しがしたいと言った。久しぶりに目を合わせたことに気が付いた。

「お父様、今まで家を空けてしまい、申し訳ありませんでした」
「ああ、いや、いい」
「今日はお父様にお願いがあります。聞いていただけますか」
「なんでも言いなさい」
「ありがとうございます。実は寄宿舎に戻ろうかと思っています」
「それは本当か!」
「はい」
「そうか、そうか……そうか」
「……」
「手続きをしなければいけないね」
「そういったことは済ませました」
「はは、お前はすごいな」
「試験も受けて、こちらにお父様のサインをいただきたいのです」
「おおそうか」
「あの、その前にもう一つお話しがあります」
「なんだ」
「私は以前にあの寄宿舎にいたので理事も校長も快く許可してくださったのですが、その際にこちらから聞いてみたところ、クレシエルにも入学許可をいただけたのです」
「……」
「……あ、俺は要らない」
「……」
「な、何、急に。学校に行けって言うのなら、俺はパブリックでもいいし」
「なぜ」
「まあ正直に言えばビビってるって言葉で伝わるかな?」
「怖い場所ではないよ」
「あのね、俺ピノがボロ雑巾にされてたの知ってるからね」
「……」
「ごめん、あの、それは今は違うんだし……ごめん」
「……」
「お父様、私は、クレシエルが行かないと言うのなら、」
「待ってぇぇー!! 何言おとしてるか分かってしまったから止めさせていただく!」
「……」
「お父様、私は、」
「なんで!? そこそこ可愛い弟が泣きそうな顔して抵抗しているんだよ!?」
「……」
「クレシエル、寄宿舎へ入りなさい」
「……」
「……俺、学校なんて行ったことないよ」
「お前たちは、二人でいるあいだ、一度も学校へ行かなかったのか?」
「ええ」
「クレシエルが1回生の勉強から履修しなければならなくて、それが恥ずかしいと言うのなら、1年間は家庭教師を付けてもいいんと思う。しかし寄宿舎に入ることには賛成だ」
「……」
「いや、俺は寄宿舎とか嫌です」
「じゃあ働くの?」
「へ?」
「俺がしていたように、朝から夜まで休みもなく、クレアに働けるの?」
「それは……」
「ピノの言う通りだ。お前には、もう少し厳しくした方がいいと思っていたのだから」
「でも、あの時は、行きたくないなら、いいって言った」「……」
「……」
「クレア、ごめん」
「へ?」
「俺はお前と離れたくない。あそこへ行くならクレアとじゃなければ嫌だということだ。それにお父様には今まで酷いことをしてきたから、俺は何か、よいことをしたいんだよ」
「……」
「あの寄宿舎には、いい人がたくさんいる。仕事場の人たちもいい人たちだったけれど、勉強をするならあそこほどいい場所はない。みんなで切磋琢磨しながら学んでゆける」
「……いい人たち、ね」
「クレア、私が入学した時のことは、何かの間違いだったんだよ」
「間違い!? ピノはそうやって2年間も耐えたわけ!?」
「……クレア、あれは、間違いだったんだ」
「嘘くせぇんだよ!! この家にきて昔のお兄様に戻ったのかよ!?」
「クレシエル、その言葉づかい、やめなさい」
「お父様は分からない!? 俺はっ! 俺は、それが、怖いんだよ」
「……」
「ピノが今のままのピノじゃなくなるようなことがあったら、次は僕が、もう、……耐えられなくなる」
「……」
「クレア、大丈夫。きっとクレアも好きになる」
「……」
「嘘は、嫌いだ……僕は、人を傷付ける嘘だけは、赦せない」
「……」
「お兄様は、僕を傷付けるようなことは、してこなかった。けど他の人は、違う」
「クレア、私が働き始める前に言ったこと、憶えている?」
「はい」
「なんだ憶えているのか」
「はい、あれは、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。つまり、あれと同じだと言いたいんだ。時が過ぎれば今日のことも、恥ずかしいとさえ思えるようになる」
「……」
「兄としては、私がまたイジメられるんじゃないかと、そんな風にビビっくれて嬉しいんだけど」
「……」
「きっと気に入るよ。また戻りたいと思うようになる」
「……あ、え、あれ?」
「どうしたの」
「本当に戻りたいの!?」
「そうだよ」
「それならそうって言ってよ!! 俺はてっきり、世間体のために戻るのかと……」
「どっちもだよ」
「……」
「だからこそ、戻るのさ」
「……」
「さあ、お父様、サインをいただけますか」
「……あ、ああ」

その時になって私は初めて、この息子たちの、無邪気な顔からこぼれる真実の笑顔を見て、どこまでも抜けていくような本物の笑い声を聞いた。心に広がったのは、初めて知る温もりと、言いようのない疎外感だった。

クレシエル

「お父様、私はもう、ここにはいられません」

そうして兄は家を出た。俺は自分の意思で兄に付いて行ったけれど、それを伝えた時に二人は安堵するような顔をした。

葬儀があってから一週間は、たくさんの人がうちへ来ては挨拶して帰っていった。俺も兄も父と並んで、つくりものでもなくなってきた疲れた顔でそれに応対した。父がお酒に手を出さなかったことがとても印象的で、兄がお酒を飲んだり煙草を吸ったりするようになった時よりずっと驚いた。父も兄も変わったのだ。

兄はひたすら父と話そうとはせず、それはどこか子どもっぽいと思えて好感すら持てた。

寄宿舎に通いながら病院のベッドで伏せる母の相手をしていた時の兄は、完璧だったけれど、近付けなかった。母が母でないと分かった時の兄の表情は、思い出せないけれど、胸が痛くて泣いてしまったのを憶えている。でも街で働く兄は生き生きとして、俺は心から安心した。もしかしたら兄は、もう、笑えないのかもしれないとさえ思っていたから。

だから俺は、なんとなくこのまま全てがうまくいくような気さえした。

ノイウェンス

彼は突然クラスに来た。午後の授業の前にあるアフタヌーンホームルームで先生から名前を紹介されると、クラス中がちょっとした騒ぎになった。

ヒーローが帰ってきた。

彼はとても印象が変わっていた。それが第一印象で、健康的で年相応であることが僕たちにはとても不自然に思えた。アドバイザーの先生もそれには気付いていたらしく、彼が自己紹介した後に付け加えた。

「みんな成長して誰が誰か分からないかもしれないから、ザハト君と自己紹介し合いなさい。それでも元クラスメイトとして、我々は君を温かく迎え入れたい」

今年から僕たちのアドバイザーになったこの先生の新しい一面を垣間見た気がした。

オットー ルフォルツァント/ヒーローの帰還

ピノが帰ってきたことは、ここ何年間で一番大きな事件だったと思う。だって彼は寄宿舎中のヒーローだったから。そう、きっと彼が退学して以来の事件だった。

最初は誰も気が付かなかった。そもそもこの寄宿舎に中途転入できるなんて、俺はそれすら知らなかった。奇妙な転入生はただ自然に俺の部屋へやってきて、大きなカバンを軽々と寝室に運び入れた。

「はじめまして」
「…え、あ」
「きのう転入したはずなんだけど、寮の手続きがうまくいかなくてさ、漸く今日になって入寮できたよ」
「転入されたんですか?」
「あぁそうそう、俺はピノ・ザハト。あと半年しかないけど、よろしくね」
「あ、俺はオットー・ルフォルツァントです。よろしくお願いします」
「何回生?」
「8回生です」
「へー、じゃあ2コしか違わないのかな。ちょっと俄には信じらしいないね。俺10回生で転入手続きしたんだけど」
「俺、クラスでも小さいから」
「やっぱりそうなの? でもこれからむくむく大きくなるんだろうねー。つうか勉強したいよね、ごめんね、引き留めて」
「いえ! そんな」
「……オットーってなんか……可愛いね」
「は!?」
「俺なんてここ何年もむさいおじさんに囲まれて生活してたからさ、唯一のオアシスは弟だけだったんだよ」
「……」
「あ、いや、深い意味はないから」
「……あの」
「ん?」
「……」
「どうした?」
「もしかして、あなた、前にもこの寄宿舎にいました……?」
「いたよ」
「えっ」
「……で?」
「あ、いえ、その、別に何ってわけでは」
「……」
「あの、ごめんなさい、なんか」
「そんな怯えないでよ」
「……」
「うーん、ビクビクされると、お兄さん、余計にいじめたくなるんだよ?」
「……」

ピノは前とはなんだか、どこかと言わずどこもかしこも、ちょっと違っているようだった。

ノイウェンス ハウゼン/君が好き

ピノとは同じクラスだった。寄宿舎はどの学年も1クラスしかないし、そのクラスも20人から25人しかいないから、知り合いになるのに時間はかからないはずだった。

ただ彼は特別だった。授業が始まるまで誰も気付かなかったのが不思議だけれど、彼とは学年必修のオリエンテーリングと体育と芸術しか同じ授業にならなかった。彼は5学年も上の授業ばかりを履修していた。それが翌年には7学年上の授業も履修するようになって、彼は僕たちとはまるで違う世界にいた。

ピノが毎週金曜日の夜には外出届けで帰省していることで心よくない噂も流れたけれど、ある日突然そんな噂も掻き消して、ピノを寄宿舎のヒーローにしてしまった。

ピノはホームシックで週末には母親に泣きついているとか、あるいは特別の家庭教師を雇って隠れて勉強しているとか、そんなくだらない噂でもその対象が目立ち過ぎるピノだから、寄宿舎中は大盛り上がりだった。特に彼のいない週末にはそれがピークになって、ピノと相部屋の上級生は彼の持ち物をみんなの前で曝し上げたり暖炉に捨ててしまったりしていた。

ピアノはだからいつも傷だらけで、体育の時に見える痣だらけの腕や脚は僕たち同じクラスの人にはさすがに気分の悪さを与えた。でも分かっていることは、下級生は上級生に逆らえないということだった。

そうなって1年以上のあいだ、彼はいつも一人だった。

2回生の冬休みが終わって僕が寮に入ると寄宿舎は既にその話しで持ち切りだった。彼が週末に帰省するのは入院している病弱な母親を看病する為だと寄宿舎中の人が興奮気味に話していたのは、それだけ彼への罪悪感があったからだと思う。始業式に現れたピノには、まだたくさんの傷痕が残されていた。

しかしピノはそれ以来、同級生は疎か、上級生にも手が出せない神聖なヒーローになったのだ。

3回生、4回生になるとそれは過剰だと僕には思えたけれど、みんなに応えるようにピノの完璧さが磨かれていったのも事実だ。定期考査だけでなく体育テストでも同学年とは思えない成績を維持し続けた。容姿も端麗で、その儚い雰囲気は美しい青年に成長することを予感させ、僕はそれに、少なからず、嫉妬した。

君がそんな風にならなくたって、僕は君と友達になりたいと、入学式のあの日に、思ったのに。

君が好きだと、分かったのに。

ピノが自主退学したことに気付いたのは、彼が寄宿舎からすべてを持ち出してからだ。あとには何も残っていなかった。

彼がどうして、そして一体どこへ行ったのか、それは教官たちにすらはっきりしていないらしく、僕が知っていたのは彼の母親が父の病院に入院することになったことと、彼の父親までもが日増しに弱っていったことだった。

ピノは家族すら捨てて、僕たちから姿を消した。

ノイウェンス ハウゼン

ザハトさんは、もしかしたらこのまま自殺してしまうんじゃないかと思わせるくらいに弱っていた。食事は摂っていると言うけれど、父のところで点滴を打っているのを何度も見た。

ザハトさんの奥さんは、ずっと身体が弱くて入退院を繰り返していて、僕はこの人たちがどうやったら幸福になれるのか想像もできなかった。

父はザハトさんにとても気を遣っていて、彼に僕と同じ年頃の息子がいるらしいことが分かると、どうにかして慰めてあげてほしいと頼まれた。その息子は、ザハトさんと不仲だということを知っていたから、余計に僕なんかが気楽に声を掛けられないとも思った。

でもザハトさんの奥さんは後妻だということも、ザハトさんが彼女の体調を崩すようなことをしていたのだということも、僕は最後まで知らなかった。

僕はただ、寄宿舎ではヒーローだったピノが、家庭ではひどく残酷で非情な親不孝だということが、赦せなかった。ザハトさんが不憫で、仕方なかった。

5年後に奥さんは亡くなった。

シュナイツ ドルチェ/手遅れ

ピノを守ってやりたいと思ってた。だってあいつはいつも傷付いた顔で笑い、愉快そうに泣いたから。本当のことは、心の底の本心は、誰にも見せてやらないってそのズタズタの身体いっぱいに主張してたから。

相部屋だと知って嬉しかった。突然いなくなった時にはもう手遅れ。

寄宿舎を自主退学するのは珍しい話じゃない。生活も学業もギリギリまで追い詰められるし、教官は卒業生が多いせいかやけに威張っていて逆らえない。課題と予習・復習に忙しいから外出する余裕はない。学内は男だらけで出逢いがない。研究会もサークルも真面目なものばっかりで、かといって学校公認のクラブは何にしても厳し過ぎる。

しかし自主退学するのはそういったことに耐えられなくなるからだ。追い付けない。追い付く気力もない。そういう人が、抜けていく。

ピノは違った。クラブと研究会を掛け持つなんて、あいつ以外に聞いたことがない。そしてそれを認めさせるだけの優秀さで、いつも学校の中心にいた。学年が4つも違うのに、俺のクラスでも有名だったんだから確かだろう。履修前試験で5つ上の学年までの履修を許可され、試験の結果はいつも上位。クラスでも人気だったに違いない。

毎年寮は学年に関係なく部屋割りされる。ピノといられるのは1年だけだと知っていたから精一杯かかわったつもりだけど、いなくなってみれば何も残るものはなかったのだと気付かされる。家に訪ねて行ける仲かどうかも疑われた。

守ってやりたいものは、あっさり消えた。

ピノ

俺が一番好きだったのはグラックス。近くに河があって、少し離れたところには広い牧草地があった。そこから見える高い山から吹き下ろされるらしい冬の始まりを告げる凍てつく風は、俺たちがそこに暮らしたときにはまだ吹いていなかった。雪のために深く静かに沈むその街とともに、春を迎えたかった。

その街では木と革の加工が盛んだった。

俺を雇ってくれたのは革を加工する工場のおやじさんで、他の街の職工さんと同じく、とても厳しくとても優しくしてくれた。

クレアが次の街へ行こうって言うから、俺はまた、その街と、その人々と、その独特なにおいと、別れた。

クレアが好きだと言った街は、俺は少しも好きじゃなかった。近くに飛行場があって、俺はそこの整備士見習いをしていた。ミュンヒグートは軍人の街だった。

クレアは飛行機よりも、そこに広がる雰囲気が好きらしく、珍しく一緒に出かけたいと言うことが何度もあった。レストランにもバーにも軍人はいて、クレアはその人たちと仲よくなっているようだった。俺にはクレアが父を赦せと言っているように思えて、しかしそれもあながち思い違いでもないらしくて、彼らを家に呼ぶことさえあった。

でもいつだって、先に引っ越したいと言うのはクレアだった。

引っ越してから、クレアがミュンヒグートを好きだったのは、軍人たちが数ヶ月でその街を離れることを知っていたからかもしれないと思った。それは狡いとも、思った。

一番長く住んだのはヒューゼン。とてものんびりした街で、鉄道で移動するのがふつうらしかった。街の人は歩くのも好きで、職場の人にも何度か誘われてクレアを連れて一緒に歩いたりもした。

鉄道は環状に1本、南北に2本、東西に1本あって、確かにそれだけあれば街中を移動できた。

俺を雇ってくれていたのはレストランの店主で、しかし彼は料理人ではなかった。職場を仕切るのはシェフだけど、そこの人たちが店主を好きだということは伝わってくるから心地好かった。店主が手作りらしいお菓子を俺の家まで届けてくれたことがあって、それは十分おいしかったけど、本人はそれを買ったものだと言い張っていた。

そののんびりした空気のせいで、きっと、俺たちは1年近くもその街にいたんだろう。

ゴーラム ザハト

愛を知った。

深くて熱い愛だったが、それは滾るようなものではなかった。ひたすらに湧き出るその愛に戸惑いはあったが、虞れはなかった。恐怖も罪悪もそこにはなく、一瞬間だけ煌めく幸福があった。
しかし垣間見える嫌悪と同情に気付いていたから、私はそれを手放した。

永遠を知った。


そうして私は私の人生を悔いた。
赦しを乞うてもいいのなら、私は命を捧げてでもそれを得たい。私という命が生まれたその時から、私というすべてをやり直したい。

ピノ ザハト

引っ越すたびにクレアは安心していた。こいつがどういう街ならいいのかは少しも分からかったけど、父の顔も手の大きさも脚の太さも忘れた頃、母が死んだらしいという連絡がきた。電話越しの声は昔のままで、ああ、この人の声を忘れることはなかったなと酷く悔しい気持ちになった。

父がくれる使いきれないお金は家を買うのにはちょうどよかったけど、俺もクレアも贅沢な食べ物や高級な家具には興味がなかった。美術や音楽は好きだったけれど、それにたくさんのお金を使うこともなかった。引っ越すたびに古い家は人に貸すようにしていたから、本当は無駄だと思えるようなことにでもお金を使うくらいがよかったのかもしれない。

久しぶりに会った父は痩せていて、それでも同情できないほどの嫌悪感が俺にはあった。父と自然に話すクレアを見て、それすら憎く思えるほどの、嫌悪感があった。

クレシエル ザハト

ハァハァッ…ハァ…ハァハァ…ッ!!

逃げなきゃ。

ハァッ…ハァハァハァ……ッ!!

逃げなきゃ。



戻らなきゃ。
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