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グリーン/二番目

行きつけのバーにもルーセンは現れなかった。居なくなった。突然、急に。

人を殺しに行ったのだろうか?




【二番目】




若い頃は好きだと思ったら止まらなくなった。気持ちを抑えられるほど大人でもないから、辛い思い出が沢山ある。俺の価値がどんどん下がって、弟に呆れられるのが悲しかった。

好きでも嫌いでもない人と楽しく生きればいいんだって、漸く見切りを付けられるところだったのに、それを、ルーセンが押し曲げたんだ。

ルールを破らせた。

希望を持たせた。

ルーセンが手を差し伸べたから、俺は、捨てられる覚悟も捨てて、縋ろうと思ったのに。彼の瞳の奥にある暗い闇に触れようと思ったのに。

余りに酷い。

拒絶されるよりも、受け入れられたことを無かったことにされる方が辛い。

「僕のところへ来てくれたのは、僕のことが好きになったからですか?」

キースが言った。

黙っていると怖そうな冷たい表情も、彼が優しく話すと王子様みたいに高貴で美しくて見惚れてしまう。

「二番目でもいいって言った」

俺の言い草にキースは苦笑した。

「ごめん。あれ、忘れてください」
「なんで?」
「なんでですかね。理由は僕にも分かりませんけど、考えが変わりました。二番目は嫌です」

キースはそう言って俺の頬を撫でた。

俺は今でもキースの顔が好きなんだなと思う。こうして間近で見詰められるとドキドキするし緊張する。付き合っていた頃にはなかった強引さとか、逞しさとか、ちょっと苦労した感じとか、益々好きになってさえいる。

ルーセンとの出会いで、俺は何も成長しなかったんだ。あんなにルーセンが好きで好きで堪らないと思ったのに、離れられたらあっさり他の男にくっついて、優しくしてもらって喜んでいる。

俺って節操ない。

それに、女々しい。

気付くとキースの手は俺の頬から体に流れて、そのままゆっくり撫で始めた。その触り方はなんとなく俺の存在を確かめるような手付きだったから拒めなかった。

「来るって分かってたら掃除したのに」

キースはくすりと笑って俺のお尻を撫でた。

「ちょっと」と言って、さすがにキースの手を抑えて制止したが、それで止まらないのが今のキースだった。

「お尻触らないで」
「え?」

キースは笑みを絶やさず俺のお尻を撫で続けている。というか揉んでいる。

それを俺はもう拒否しなかった。

「僕を一番にしてください」
「そういうかっこいいこと、お尻を触りながら言わないでよ」
「僕は、かっこいい?」

キースは笑顔で、俺のシャツのボタンを外しながら尋ねた。軽く首を傾げる姿には色気がある。

昔みたいに綺麗なだけの男じゃないって思うと、キースの何でもない仕草でも俺の心をくすぐる。俺は恥ずかしくて顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。

「かっこいいよ」

キースは脱がしたシャツを近くの椅子に引っ掛けて、俺の身体をぐいぐい押してベッドまで誘導した。キースの荒々しい手付きは俺のことも十分煽る。

かっこいいよ。

すごくかっこいいよ。

「ありがとう。嬉しいです」

キースは嬉しそうに、本当に俺にはそう見えるような緩んだ顔で、笑って、俺にキスした。口の中の奥まで味わうようにゆっくり舐めて、それがけっこう気持ち良かった。

こんなの、昔やってたっけ?

あの後覚えたのかな?

キースは俺を優しく扱った。嘘みたいだったけどそれは現実だった。

こんなの狡い。

「一番好き?」

キースは何度も尋ねたけど、俺は一度も頷かなかった。

ルカ/疑念

「コレで幾らになるの」

俺が尋ねるとルーセンは「60」とだけ答えた。俺をパブロフから連れ出すのに大して怪我も負わなかったこの男にとって、人ひとり殺すくらいなんてことも無いらしい。

捻り潰すって、あのことだよな。

俺はふと思ったことを口にしてみた。

「あんたって、この仕事向いてないよね」

それはふと思ったことであり、いつも思っていることでもあった。ルーセンは首狩りの中では第一級の腕前を持っているけど正義の為でも金の為でもなくただ流されるままに人を殺し続けているだけだ。そんなことが許されて良い筈がない。

生物を捻り潰して美味い飯が食えるなんて。

最低の生き様だ。

首狩りならば、それも第一級の腕前を持つならば、その人にこそ高い倫理観と固い理性を持っていて欲しい。

ルーセンは?

俺が思う理想と全くの逆方向に洋々と行進していやがる。

警察が来るのを待つ間にルーセンは暇を持て余して得体の知れない動物を撫でていた。前は自分以外の生命体には全く興味を示さなかったから会わない間に心境の変化でもあったのか。

でも、動物を撫でて見せたってルーセンが最低なことには変わりない。それが俺に対するアピールになると知ったことは進歩だと認めてもいいけど。

ルーセンは多少ながら、些少ながら、どこか変わったらしい。

人間に近付いたのか?

まー、悪くないか。

ルーセンの手の下で動物がもぞもぞと動いた。

気持ち悪い。

余りに不衛生なので俺はルーセンを遠巻きに見る。

或いは生死問わずの賞金首になっているしょうもない犯罪者にも仲間がいるだろうから、仲間が惨めにあっさり殺された恨みで報復しようとする者がいないか見張っているのかもしれないけれど。それは俺自身にも分からない。

「お前よりは、ましだ」

ルーセンはそう言って俺を見た。その隙に動物はなんとも不気味な動きでさっと走って逃げた。

『お前よりは、ましだ』って?

そーかもね、と素直に思う。

俺にこの仕事は向いていない。ライセンスが下りたのにそれを使う気になれないのは、俺の中に絶対的で決定的な何かがあるからだ。その何かは俺に『人殺しは悪だ』と言う。

ルーセンは違う。

ルーセンは首を狩ることを人殺しだとは思っていない。手配書が出て手元に届くから実行するだけ。それが何かの間違いで、例えば俺が高額手配者になったとしてもルーセンはその意味とか結果のことなんか予期せず、思考せず、嫌悪も驚嘆もせずに実行するだろうと思う。

『偽る』ということを除いてルーセンには意思らしい意思がない。

願望、切望、欲望、羨望、待望、希望、想望、渇望、何もない。

殺すことも殺さないこともルーセンにとっては何でもない。何かある時は『偽る』為のステップだ。

「前の家、すみませんでした」

前に借りていたアパートメント、気に入っていたのにパブロフにバレてもう戻れなくなった。

「尾行されていたのか」とルーセンが尋ねた。仕事をする時と同じで真面目な調子だったので俺も真面目に思い出してみる。

尾行、されていなかったと思う。

「たぶん、違う」と俺は答えた。

「間諜か」

ルーセンはそう言って上着から煙草を出して一本咥えた。煙草を吹かす時も真っ直ぐ立っているので、丸で頭が良い人間みたいに見える。

「そんな、スパイされるほど親しくしてる奴もいねーじゃん」

いつも二人だった。

詰まんなくても飽き飽きしても、俺達は自分以外を信じなかったし自分以外の人間を近付けさせないよう努めていた。それは今も変わらない。

俺にとっては例外のロトがいるけど。

ルーセンには行き付けの店に顔見知りらしいのが居たくらいで、彼らはきっとルーセンの名前さえ知らなかった筈だ。

俺だってルーセンと真面な会話らしい会話をするようになったのは引き取られて随分経ってからだった。それまでは命令されて従う、尋問されて白状する、そんなことでしかコミュニケーションを取っていなかった。

間諜と言っても思い当たらない。

俺が納得せずにしているのを見て、ルーセンは「気付けないからスパイなんだろう」と言った。

そりゃ、そうだけどさ。

「尾行されたか、間諜がいたか、どっちかだ」

ルーセンはゆっくり煙を吐き出した。

「怪しい奴がいんの?」

誰かを連れ込むことはなくても帰って来ないことはよくあった。ルーセンは愛想の悪い悪人顔なのに女に好かれる性質だから帰って来ない日は誰か女のところに転がり込んでいたんだろうけど、まさかその中にスパイがいたのか。

ルーセンは煙草の火を消して、何も答えなかった。

顔を上げると警察がいた。

「通報がありました。資格証を見せてください」

ルーセンは資格証を提示して対象の名前を伝えた。確認書を受け取ったら後は帰るだけだ。

機嫌悪そうな顔だな、と思った。



【疑念】
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ルーセン/野犬の涙

「元気?」

俺の友好的な労わりに対してルカは馬鹿みたいに俺を睨んだ。そんなことをしても、何も生まれないのに。

「探しましたよ。まさかこんな場所で、こんな面白いことをしているなんて思いませんでした」

ルカは両腕の自由を奪う拘束衣を身に纏い、椅子に雁字搦めに縛り付けられ、口には猿轡を噛まされていた。見るからに貧相な身体は以前より増して弱って見える。

「ああ、でも、元気なようで安心しました」

ルカは動物が威嚇する時のような声で唸った。

「う゛うぅ」

悔しそうで、愉快だ。

「さて、私はこれからどうしようか迷っているところです。私は今日まで仕事でもないのにルカの為に色々と頑張りましたから。君を助けて、それから、どうしましょうか。まあ、まずは猿轡から」

俺はルカの猿轡を外してやった。

「御礼の言葉を、どうぞ」

ルカは野犬みたいに鼻に皺を寄せて俺を睨んでから一言。

「死ね」

ルカの髪がさらりと揺れた。

「君の口が以前と変わりなくて安心するね。その綺麗な歯並びが壊れてボロボロになっているんじゃないかと心配しましたよ。それに、まさかとは思いますが、そのつるつるの肌は、お風呂にも入れて貰っていたんですか?」

ルカは目を伏せてだんまりだ。

それは却って分かりやすい。

敵に捉えられて拘束されて縛り付けられて入る風呂がどれほど屈辱的であるかは想像に難くない。

「ここで二つほど聞いておくべきことがあります。ルカ」

俺の呼び掛けに答える様子はない。

「君の『セシカ』という呼び名は何?」
「……」
「君はセシカと呼ばれていますね。そして或る人は君のことを『神』とも呼んだ」
「そいつ誰?」
「名前は知りません」
「……」
「君が神なら私は大変な不敬を働いたことになるね。私は君のことを神様だなんて思っていませんでしたから」
「俺は『神』じゃねえよ。当たり前だろ」

ルカはまた動物みたいに唸った。

「はい。では次の質問です」
「何」
「君はここから逃げたいですか?」

ルカは俺を睨んだ。睨まれた、と思ったけれど、それは少しずつ色を変えていった。

「……」

ルカはここに居たいのだろうか。俺にはそれだけは分からない。ルカの心の中は知りようがない。目の前の事実から導き出される推定しか、知りようがない。

ルカは逃げようとした筈だ。だから厳重に縛り上げられている。

俺はルカに助けを求められたら助けるか?

答えは勿論、応だ。

ルカは不肖の弟子だろうが、それでも俺の弟子だ。助けを求められたら必ず助ける。ルカが既に死んでいたってきっと助ける。助からなくても、きっと助ける。

では、ルカが助けられることを拒否したら、それでも俺は助けるだろうか?

答えは。

その答えは。

「答えてください」
「……」
「ルカ。答えてください」

ルカの目から、涙が零れた。

「俺は、神様じゃない」

それだけ聞ければ十分だった。捻くれたルカの精一杯の自己表現は、確かに強く鮮明なものとして俺に届いた。

「うん。それで十分です」

ルカの涙を拭ってやると、それはとても温かかった。


【野犬の涙】
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キース ブラッドフォード/嫉妬と闘志の炎

グリーンのことはすっかり忘れていた。

隣の芝は青く見えると言うけれどグリーンは正にそれだった。何故かグリーンに慕われて恋人同士に成ることが素晴らしく思えたのだ。あの気の抜けた顔と諂った笑い方。僕はそれを手に入れて満足した。目的が達成されればそれで満足だった。

いつもどうにかして泣かせたいと思っていた、それが、今はとても恋しい。

どうして忘れていられたのだろう。

あの青々とした欲望を。

「機嫌が悪いね」

頬杖をついてカントが言った。

「大切なものを奪われてね。確かにいい気分とは言えない」

相手は誰か、その考えがずっと頭の中を巡っている。

相手は男だ、その確信がある。

「それはもしかして女の話しかな。君が嫉妬かい?」

カントは参考書を流し読みしながら言った。普段は言葉も少なく色恋にも疎い男がそんなことを言うとは思っていなかったので僕は驚いて彼を見た。

「なんだ。君は嫉妬しないのか」

言ってから自分で後悔した。

カントが嫉妬を?

その答えは聞くまでもなく言うまでもなく想像するに難くなく推して知るべき当然の当たり前の分かり切ったことだった。

カントが入学した時にとても話題になったらしい。

『今年の首席は“ホンモノ”だ』

僕もカントという人間を知って、“ホンモノ”を知った。頭が良いから人の望む答えを全て理解してしまえる。その代わり彼は人の望みを受け入れない。カントと会ってから本当に頭の良い人間を初めて知った。

カントが嫉妬を?

カントは答えなかったがその答えは余りに明白だった。

嫉妬とは劣等感だ。

僕はグリーンの新しい恋人より劣ったから嫉妬した。グリーンを取られて奪われて失ったからグリーンを手に入れて仕留めて独占できた人間に嫉妬した。敗北感が劣等感となって嫉妬を生んだ。

カントは負けない。

カントは失わない。

カントが嫉妬を?

「分かった。この話しは終わりにしよう」

僕のお座なりの提案にカントは抑揚なく「そうだな」と答えた。

カントが、頭の良いカントが、気付いていない筈がない。僕がどれだけ平静を装っても心の底では目の前のカントに嫉妬していることに彼は恐らく気付いているだろう。嫉妬してカントを遠くから眺めているだけの人間と僕とでは然程の違いがない。表面を繕ったって根元を掘り下げれば同じだ。

「よお」

僕達に声を掛けたのは同級生のベンだった。

「見掛けないと思ったら、こんなところに居たのか」

ベンは呆れた様に言った。

「漸く休講の連絡かい?」

カントが尋ねるとベンは大袈裟に目を見開いた。

「本当に知らないのか。呆れた二人だな。アンドリュー・ロック博士が昨年に発表した論文があっただろう。それに欠陥があるのを指摘した手紙がロック博士の研究室に送られてきたそうだ」
「それで何故うちの授業が幾つも休講するんだよ」

実は休講になっているのは今の時間の講義だけではない。この前の講義でも結局教授が現れずに事実上の休講に成った。しかもいつもは事務員や助手が講義室まで休講の連絡に来るのが通例なのに、時間を過ぎてもまだその連絡はない。

「手紙を書いたやつが、うちの学生だったからさ」

ベンは不敵に笑った。それが丸で自らの業績かのように不遜に笑った。

僕は思わずカントを見た。

ベンの言う『ロック博士の論文』が現在の基礎物理学の世界で最も熱い議論の一つと成っていることは畑違いの僕達だって知っている。それがとんでもなく高度で難解な技術によって成り立つこともまた知っている。

『学生』が指摘を?

それは、そんなことが起こり得るとすればその人物はカントにおいて他にないとその時の僕は本気で信じた。だから僕はカントを見た。それは僕の無意識の行動だった。

「誰が?」

しかし僕はベンの口振りからその超級の学生がカントではないことを直ぐに悟った。

ベンは僕の問いに答えなかった。

「ジョンだろう?」

勿体振ったベンに代わって口火を切ったのはカントがだった。

「え?」

僕はそれをそのまま信じなかったし信じたくてもできなかった。ベンが詰まらなそうに「なんだ知っていたのか」と言ってもなお信じられなかった。

だいたい僕にはその『ジョン』が誰かも分からない。

「ロック博士の論文に欠陥があることを証明した。間違いがないか検算して欲しいと頼まれたんだよ」

カントは流石に参考書から目を離していた。

「検算を。流石だな」

ベンは素直に驚いていた。

「それで休講になる理由が僕にはまだ分からないよ」
「ああ、それか」

僕がそう言うとベンは思い出したかのように言った。

「ジョンが自分が書いた手紙の内容について講義したんだ。大勢の生徒の前で、堂々と。ロック博士を擁護する生徒と口論にまでなって、理学部棟の方は大騒ぎだ。工学部棟がこんなに静かなことには驚きだな」
「ジョンは基礎物理には興味がないのに、講義を?」

カントが胡乱げに尋ねた。

「それも大問題の種だ」

ベンは楽しそうに答える。

「あいつは数学にしか興味がない数学オタクだろう。だから論文の意味や全体のことには触れずに、ロック博士の支持者を相手にもしなかった。態度もまあまあ悪かったな、あれは」

ベンがにやりと笑って、僕は漸くその『ジョン』が誰なのか当たりを付けた。

数学科のジョン・ポーターはベンの言う通り数学にしか興味がない数学オタクだ。だいたいいつも工学部生を鼻で笑っていて理学部の中でも数学科が最も優れた“真理”を持っていると呟きながら一人で昼食をとるような学生だったと思う。

僕達は教養学部生なので学科の変更は比較的簡単にできるのだけれどジョンにはそんなことは関係なかった。

数学至上主義。

あの鼻持ちならない話し方が聞こえるようだ。

「それで、内容は?」

僕はカントを見た。

「4楽章ある交響曲に対して、この小節には4分音符が一つ足りない、と言っているような感じだろうね」

分かり易い。

ベンもカントの言葉に「成る程」と呟いた。

「感心するよ。カントは本当に頭が良いな」

僕はそれからのベンとカントの会話を漫然と聞いた。

ベンの声には偽りがない。正直でそのまま彼の本心を表している。カントの優秀な頭脳に対して何ら卑屈になるところがない。

馬鹿だからか?

いいや、ベンは賢い。

ベンはカントに敵わないことを理解している。理解した上でそれを認めているのだ。僕にはそれはとてもできない。

負けたくない。

一番でありたい。

カントがどれ程優れていてもそれをあっさり認めて降参するのは嫌だし僕の自尊心が許さない。

ああ、だから僕は嫉妬する。

僕を見て欲しい。

僕を褒めて欲しい。

グリーンにとっての一番でありたい。

『二番目でもいい』

確かに僕はそう言った。

僕はグリーンと恋人気分を味わえたらそれでいいと思っていたけれど大きな間違いだ。二番目なんてとんでもない。一番でなければ嫌だ。

僕だけを好きでいて欲しかった。

僕は嫉妬した。

カントが嫉妬しないのは一番に成る為の情熱を持たないからだ。生まれつき優れていたからだ。

僕は違う。

僕の心は嫉妬に焼け爛れていた。自尊心の炎に煽られた心が僕の現在を炙り出す。

でもそうでなければカントに勝てない。

生まれついて頂点に居る者を越えられない。

より勢いを増して燃え盛り始めた自尊心の灼熱は決して醜くはない。共闘する戦友だ。

「何笑ってんだよ」

ベンが僕を見て言った。

「ジョンはなかなかやるなあ、と思ったんだ」
「なんだ。キースはジョンの味方か」
「気持ちが分かるんだよ。追う者の辛さが」

ベンは曖昧に頷いた。

僕はそれに笑顔で答えた。


【嫉妬と闘志の炎】
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セツ/休日出勤の朝

気怠いなんてものではなくて、体が重くて息苦しいと思いながら起きた今朝。

「おはよう」

カナタはいやに機嫌がよかった。容姿が凛々しく整っているだけにその爽やかな朝の挨拶は馬鹿みたいに好感度が高い。

「おはよう」

それに比べて私の声は掠れて低く、これから仕事だと言うのに徹夜明けのような重量感だ。実際のところ現実的な悪夢に魘された昨夜は眠った気もせず疲れも取れなかった。喉が渇く。声が掠れる。

「体調悪いんじゃねえの。顔色わりいな」
「そうかもね」

死体を見たの。

私はそう素直に言いたかったけれど、現場主義で度胸があって正義感の強いカナタにとっては詰まらないことなんだろうなと思うと何も言えない。

あの時、私はルーセンのことを思い出した。

死体を生み出す人間のこと。

人間が人間を殺して食い物にしているんだ。

ルーセンは人殺し。

だからルカは甘えなんだ。ルーセンの味わう痛みを避けて人から美味しいものだけを搾取している。

ルーセンは分かっている。

死体の放つ異臭はルーセンに纏わり付いてもう離れない。二度と瞬くことのない虚ろな目はいつまででも彼に縋っている。彼の手は洗っても洗っても落ちることのない死体の血に染まっている。

死体を見たの。

死体もきっと、私を見たんだわ。

「無理、すんなよ」

カナタは顰めっ面でそう言った。その優しさはきっと課長のものだ。課長と良いことがあったんだ、と私は思った。


【休日出勤の朝】

グリーン/平凡な男が抱えた愛

分別のない若者みたいに刺激を求めたりはしない。

ルーセンは逞しい身体だけれど、それが年相応に肉を弛ませていてもきっととても愛おしい。恋人となった今は尚更にそう思う。

「何かを始めるには、それに相応しい時機というものがあると思うんです」

ルーセンはコーヒーを淹れながら言った。俺は彼が言いたいことが分かった気がして「うん」と頷く。コーヒーが素晴らしい香りで誘惑するので俺は彼に淹れてもらうコーヒーを知るまではコーヒーが得意ではなかったことを思い出した。

酸味が嫌いだった。

苦味が嫌いだった。

今はそう嫌いでもない。


【平凡な男が抱えた愛】


初めてルーセンとセックスすることになった日、それは思えば最悪の日だった。恋人が俺を捨てて年下と付き合い始めて、弟達がこの街を出て行った。

俺は孤独だった。

俺は相変わらず孤独だった。

無い記憶の霧を無理矢理に掻き分ければゲロまみれの俺がいる。ビールと埃と俺のゲロが彼にどんな感情を与えたのかは考えたくもない。

ルーセンはいつも暗い顔で酒を飲んでいた。あの日もそうだっただろう。ロージーの前でも笑いもしない。暗い顔で酒を飲む男には、誰も声を掛けようとしなかった。

彼の笑顔は悪魔的だ。それは神の赦さなかった禁断の実。麻薬みたいな甘美。覚醒剤みたいな中毒性。

これは丸で官能小説だ。

彼が『へえ』と言って笑うだけで俺には感動的なことだった。彼の紳士的で穏やかな笑みは彼の瞳に潜む闇に照らされて艶を得る。俺はルーセンに出会うまではそんな贅沢なものは知らなかった。

知らない方が良いこともある。

二人きりの時に彼がよく笑えば笑う程に俺の理性を愚図にする。それに優しい声で呼ばれたら俺の腰は砕けて立ち上がることもできず彼の奴隷に成ってしまう。

俺は人間である意味を失った。

犬みたいに尻尾を振って犬みたいに腹を見せて犬みたいに従順に鳴く。

或いは犬である必要さえない。

ルーセンが俺を殺してくれたら俺は彼の細胞の一つとして生まれ変わりたい。そうすれば彼の瞳を支配する暗闇を理解できるかもしれない。

ゲロで誘惑できたとは思えない。

彼が相当に特殊な性癖をもって俺と一夜を過ごしたことは否定できないけれど今のところ俺達は一般的な愛で繋がっている。

一般的で、熱烈な執着。

あの日コーヒーの香りで目が覚めてベッドから出て初めて味わったものは美味しいコーヒーとルーセンの笑顔。

いつか捨てられるならばそれができるだけ遅くなってほしい。

いつか失う幸福ならばそれはできるだけ短い方が良い。

『それに相応しい時機』。

俺とルーセンが出会ったことのように確かに彼の言う『時機』というものはあるのだろう。俺は自棄酒で泥酔していなければあの暗い顔をした無口な男とこういう関係になろうとは決して思わなかった。

感じるんだよ。

俺ははっきり分かった。

ルーセンは俺の知らない世界の人だし俺はルーセンの視界にも入るべき人間ではない。

でも俺はルーセンが好きで好きで堪らないんだ。その笑顔で俺は死んでしまう。その声で俺は昇天してしまう。

伝わるかな。

伝わると良いな。

この凡庸な愛が非凡なる君に届きますように。

彼方/怠惰な官僚生活

生きる権利を喪失するなんてことがあって良いのだろうか。人殺しを推奨してその上彼らに報奨金を渡すことが罷り通って良いのだろうか。

この国を変えたくて官僚になった。

今は官僚になったことを少し後悔している。


【怠惰な官僚生活】


「ハンコお願いします」

俺がそう言うと課長は僅かだけ笑った。そして普段とは少し違う鋭い視線で俺を刺す。

「ああ、はい。どうぞ」

課長は書類にさっと目を通すとハンコを押して俺に戻した。庶務係の執務室に居る時とは丸で別人だ。俺とは特に話すこともないと言わんばかりに淡白な態度を取っている。

「ありがとうございます」

官僚だな、と思った。

ルカ

神様だって痛いに違いない。

千切れた指は悲しげに、真っ赤な血の涙を流している。それはなんとなく、俺が女なら自分の子供なんだろうと思った。

「綺麗な血。私が全て食べられたら良いのに」
「じゃあ、舐めれば?」

這いつくばって、その艶かしい舌でさ。

クラリッツは俺をじっと見てから床の方に視線を移した。綺麗な顔は悩みや逡巡の色を表さなかったけれど、膝を折った瞬間この男が本気で床を舐めようとしたのが分かった。

「失礼、返事が無かったから」

扉の前にはセネカが立っていた。ノックを忘れる様な人間ではないから、俺達がすっかりそれに気付かなかっただけだろう。

クラリッツは何事でもない様に黙って立ち上がった。

「お客様はお帰りになったので、私も楽しもうかと」
「ご勝手にどうぞ」

セネカはチラッと俺の指を見てから顔を顰めた。俺には興味がない様だったので嫌悪されただけでも進展かもしれない。それが俺の手を離れた指であっても。

「クラリッツ、申し訳ないんだけど、警備の担当者とちょっと話して欲しいんだ。いつならいい?」

セネカはもう部屋を出るらしく、扉の前でそう尋ねた。

「今いらしてるのですか」
「ああ、そうだよ」
「では只今向かいます」

クラリッツは俺にしっかり拘束具を与えた。

瞳の中に青い焔が揺らめく。

「私は今貴方に祈りを捧げたい気分です」

そーかよ。

神様に祈るっていうのは怖いからだ。彼らは俺のことを理解できないし俺自身にしたって自分のことなんて分からない。

願いが叶うべくもない。

破壊と再生を繰り返すものが神なのか。創造と輪廻を司るものが神なのか。美しく清純なものが神なのか。清廉で潔白なものが神なのか。全知の者が神なのか。無知で罪無き者が神なのか。

祈りたい気持ち、それは畏怖だ。

怖ろしく、それ以上に超然的。輝かしく、それ以上に恫喝的。

クラリッツは赤い舌を俺の手に這わせた。それから上品に口元を拭いてシルクを紅く染めた。

クラリッツは偽者の神様に傾倒しているけど、その絶世なる美貌は確かに神様に愛されている証拠だ。窓の無いこの部屋でもきらきら光って神々しく佇んでいる。

俺は兎に角うんざりした。

クラリッツが拘束具で俺の身体の自由を完全に奪う頃には、痛みも消えていた。

人は却って怖れることを望む。

ルーセン

部屋にはグリーンが居て、俺を見ると力無く笑って出迎えた。身体は疲労していた筈なのにそれを見たら疲れが取れたような気がした。

「仕事、やっぱりあったの」

無かったけど、無理矢理入れた。

「急に居なくならないでください。探したんですよ?」
「ごめん」

グリーンの居ないこの部屋はもう前とは違ってしまった。がらんどうで空虚な安いアパートは一人で居るには余りに詰まらない。きっとグリーンを招き入れた日から、変わってしまった。

「何処に居たんですか」

昔の恋人と会ってたのは知っている。

今回のことがなければ調べたりはしなかったのに、知りたくないことを知ってしまった。

「バーだよ。軽食屋さん」
「行き付けの?」
「そんなこと聞くなんて、珍しいね」

グリーンは視線を彷徨わせていかにも挙動不審だ。

俺が全て知った上で聞いているとは思っていないだろうけど、何も知らない訳ではないとも気付いているだろう。どこまで知っているのか、それを探る様な会話は、グリーンが俺に叶う訳がない。

「好きですから。グリーンと初めて会ったのもバーでしたよね」
「あー、ああ。そうだったっけ」
「あの時は記憶なくす程飲んでましたよね」
「俺はあんまり覚えてないや」
「今日もたくさん飲みました?」
「え、いや。全然」
「そうですか?」
「酔ってないよね、俺」

グリーンはテーブルから離れて寝室の方へ行った。

逃げるのか。

この状況から。

俺から、逃げるのか。

「酔ってるのかと思いましたよ」
「そんなことないよ。シャワー浴びる?」

俺はグリーンを捕まえた。腕を強めに掴んで優しく身体を抱き締めた。グリーンの鼓動は早鐘を打っていて緊張が伝わって来た。

「駄目ですよ、俺以外とは」

グリーンの耳元に口を寄せて囁く。それはいつもはグリーンを甘やかす為のものだけれど、今回はそれでグリーンを責めている。グリーンは分かり易く動揺して小さく身体を震わせた。

「駄目ですよ。もう記憶を無くすほど飲むのは」

俺はこの男が好きだ。

なんでだろう。

「おれ、ルーセンが好きだよ」

グリーンは情けない声で言った。泣いているだろうと思った。そのズタズタな姿はなかなか同情を誘う。

その声で、俺の知らない男へも謝ったのだろうか。俺の知らない頃のグリーンを知る男と。

嫌がる素振りで。

家にも上がるなんて。

それはとても憐れで健気で愛おしいだろう。

俺はグリーンの知り合いを端から順番に殺すこともできる。家族や級友から元恋人まで全て。調べて殺すまであっという間に終わるだろう。そしてグリーンは俺だけのものにして、閉じ込めればいい。

そうしないのは、グリーンに嫌われたくないからだ。

誰を殺しても、何人殺しても、どんな叫び声を聞いても、グリーンに触れると忘れられる。

ルカの言う通りだった。

人を殺して良い訳がない。どんな愛情や欲望からも人を嬲って殺すのは許されない。そんな当たり前のことを俺は知らなかった。

「じゃあ、可愛い声を、聞かせてね」

幸いここは寝室だ。

グリーンはあっさり服を脱いで俺に絡んできた。

俺はあっさりグリーンを抱いた。

グリーン

部屋には誰もいなかった。ルーセンは今日は仕事がないと言っていたから何処かへ行っているとしたら原因は俺だと思う。別れた恋人と一緒だったことまでは知らないだろうけれど俺が感情的になって飛び出したことだって十分原因に成り得るし以前も似たことがあった。

電気、点けようかな。

部屋は暗い。実はルーセンはこの闇に紛れているだけで俺のことを見ていたりして。

例え彼が俺を殺す積もりでも、それっていいなあと思う。

ルーセンの瞳に宿る闇は彼が人を殺すだけ広がって行く気がした。その闇が深い程月光に照らされる道を歩むには都合が良いだろうし、その闇が恐怖である程誰も俺さえも彼の心の内を透かして見られなくなる。俺が殺された時彼の瞳が闇に溶けてしまうくらい堕ちて行くならばそれで俺はルーセンと溶け合えるし愛されて一生を終えられる気がする。

捨てられる覚悟はある。

けれども殺される方が魅力的だ。

俺は明かりを点けるのは止めて部屋を出ることにした。アパートの前で汚れた壁に凭れながら通りがかる人を一人ひとり眺める。

ルーセンは変装が上手いけれど例え彼がどんな格好でも見つけ出したい。現実には鈍臭くて頭の悪い俺には可成りの難しさがあるのだと理解はしているけれど愛でカバーすれば良いんじゃないのかとも思う。

ルーセンは目が悪いし。

どうやら俺を弄んでいる様だし。

俺は彼に骨抜きにされてしまったし。

こうして待って居ればまたあの甘い声音で俺を労い長く逞しい腕を腰に回し他人には滅多に見せない極上の微笑を向けて愛を示してくれるかもしれない。

今日が覚悟していたあの日だとしたら、俺が捨てられる日だとしたら、それはそれで良い。

外はもう夜更けだ。

誰にも俺の涙は見えないだろう。

月は冷たく白い輝きを放って霞む街を微かに照らしているけれど俺には道を歩けるだけの明るさだとは思えなかった。

グリーン

「来ないで!」
「どうして?」

キースは首を微かに傾げて見せた。それは俺の心を射止めるキューピッドの魔法に違いない。

「そ、そんなの、」
「どうして?」
「こ、来な、い、で」

爽やかな好青年は歯を見せて優しげに微笑んだ。そこにもキューピッドの魔法が掛けられているらしく、俺の心臓が高鳴る。

「ほら。追い詰めちゃった」

昔はもう少し儚げな美少年風だったと思うのだけれど。

「こま、る…」
「困って」
「え」
「もう孤独なんて言わせないから」

ああ、それを気にしていたの。

「キース、」

ごめんね。

ありがとう。

「今日は泊まるって言って?」

キースは俺の顔に触れた。そして触れるか触れないかの距離で唇をなぞる。

ぞくぞくする。

でも駄目だ。間違っている。

「アパートで、俺のこと待ってる人が居る」

ルーセンは俺を捜し回ったりはしないかもしれない。けれど俺たちは互いに互いをあっさり切り捨てられる関係でもないと信じてる。

瞳の奥の奥まで知りたい。

闇を抜けたその向こう。

月明かりに照らされた道の先。

帰らないといけないんだ。誰も望まないかもしれないけれど。

「嫌だ」
「駄目だよ」
「帰さない」
「キース」
「酷いじゃないか…」

キースは今度は俺の唇を強く撫でた。それは彼の気持ちが直に伝わってくるような触り方で彼らしくない。

「キースにとっては遊びでも、俺にはもう違う」
「え?」
「だからそういう風に誘われると困る」

キースは突然俺の腕を強く掴んで壁に押し付けた。そして口付けた。

「遊びでこんなことする程、女に困ってないよ」

整った顔が間近に迫って怖くなった。遺跡にある神を模した彫刻みたいで、それなのに人間らしく怒りを湛えて俺を見据えていて、その違和感が余計に怖かった。

キースは変わった。

キースは感情に任せて俺を怒ったりしなかった。怒るのはいつも俺の方。キースはそれを笑い流すばかりだった。

束縛されても愛されている実感がなかった。

俺のことが好きだと言う。

好きだけど抱けないと言う。

キースの褒め言葉を無理なく受け入れられるのは心のどこかでお世辞だと思っているからだ。だから俺も良いところを見せようとか嫌われないようにしようとか気を張らずにいられる。

だから心地好い。

今は違う。

キースの愛が怖い。

「遊びじゃないなら、余計に駄目だよ」

君は、俺がどれだけ君を好きだったか知らないのだろう。

二番目なんて言われてうんと頷ける訳がない。

何も分かってない。

「そうだよ。本気だよ」

キースは自嘲した。

今更そんなこと言う君は本当に卑怯だ。

ロト

ルーセンは突然現れた。非常に厄介で悪い意味で神出鬼没な男だ。

今日は仕事の予定はなかったのでまた警備員が犠牲になった。無駄だと分かっていても仕事を全うしようとした彼らには幾らか賞与を出そうと密かに思った。

「来るなら連絡を下さいませんか?」

それでは犯罪者そのものですよ、と言外に匂わせる。

「それは申し訳ありません。ですが私にも知人に唐突に会いたくなる時がありまして」

人好きのする笑顔を湛えて言う。

そして優雅な動作と精悍な顔と心地好いトーンの声に私は侵された。神経が痺れて心を彼に欹ててしまう。丸でルーセンが私の全てであるような甘い幻覚があった。

不味い。

「貴方も人間なんですね」

最後の反抗はあっさりと溶けて消えた。きっと自分の熱で溶けたのだ。

「そうですよ。私も人間です。私も貴方もね」

耳元から広がる甘美な毒。

私は特に音に弱い。五月蝿いのが嫌いで執務室には厳重に防音を施した。同時に美しい旋律は録音して何度でも聞く。声が気に食わなくて従業員を解雇したこともある。

ルーセンの声は甘い。しかし中毒性の高い危険極まる猛毒だ。甘く誘って、甘く侵す。

一つの才能だろう。

それも他の人には心地好い声だという程度だとしても、私にはそれでは済まされない。

現に、今も。

ルーセンは私の肩から肘に掛けてそっと撫でた。指先が優しく私の身体を誘惑する。声の所為で敏感になった私は恥ずかしながら反応する寸前だ。

「仕事なら有りますよ」

私は紛らわすように言った。

「仕事?」とルーセンは返答した。しかし依然と、というよりエスカレートする愛撫は興味ないと言うも同然だろう。

「仕事が好きですね」
「私たちはそういう関係ですから」
「おや、随分と寂しいことを言いますね」

ルーセンは笑った。

笑い声さえも心地好い。

「頼まれていた男を指示通り侵入させましたよ」
「…興が醒めることを言わないで下さい」
「今頃どんな拷問に合っているんでしょうか。貴方は酷い人ですね」

ルーセンは私から手を離した。少し離れたところで苦笑いしている。上品で知性を感じる笑い方だ。

自分で言った言葉だけれど自分の熱をも冷ましてくれた。

「酷いのは貴方ですよ」

ルーセンは私を優しく見て言う。

いいえ、酷いのはやはり貴方でしょう。

酷いとは言え、死体をネタにしても興奮できる変態サディストだとの噂もあったので、私はやや安心した。人間としての一線は保っているらしい。

「明日にも死体が見付かりますね」

私の言葉に、しかしルーセンは、笑った。優美な所作と併せると善良な紳士にしか見えない。

「貴方も商売人なら、もっと客に寄り添わないと」

「ね?」と同意を求めて目が細められた。

怖い、と思った。

残忍な瞳がぎらぎらと光る。損にも得にもならない戯れの獲物を見付けた殺人鬼の目だった。その目には、私が、映っている。

彼の快楽は私たちとは明らかに違う。

人間としての一線など無い。

「申し訳ありません」

抵抗しない私をルーセンは遠くから笑った。弱者を温かく見守るような声音だった。

「その報告はまた後日お願いします」

一歩でも動けば殺される。

私はその強ち妄想とも言えない仮想で背中に汗を滲ませた。

キース ブラッドフォード

グリーンは落ち込んでいるようだった。始めは照れているのかと思ったけれど、どうも違うらしい。

貴方を引き留めたい。

あの頃のようには、貴方は僕を引き留めないだろうから。

「用事でもあるんですか?」
「へ?」
「時計。さっきから何度も見ていますよね」

部屋に行こうとしたら嫌がられたし。時計ばかり見ているし。本当に付き合っている女でもいるのだろうか。

「ごめん、」

謝って欲しい訳ではない。

「彼女がいるんですか」
「…いないよ」
「なら泊まっていってください」
「ごめん、」
「今日、会えて良かったって本当に思ってるんだよ。運命じゃないかって」
「俺はずっとあの街にいる。不思議なことじゃないよ」
「僕は引っ越した」
「そうだよ。君が引っ越して、俺が残された」

グリーンは苦しそうに表情を歪めた。整っているとは言い難いグリーンが泣きそうになるこの顔が、昔は好きだった。

泣かせて、笑った。

酷いことをした。

「…やり直したい」

別れてから今日までグリーンのことは忘れていた。再会してバーで話している時も、また恋人になりたいとは思わなかった。

でも今は思う。

「キース。俺、今ね、」

僕はその言葉を聞きたくなかった。「もう束縛しないから、」と遮った。

「グリーンの、僕以外の人間関係には口出さないようにする」
「あのね、でも、」
「二人の時だけでいい。それ以外の時間は好きにしていい」

どうして首肯しないのか、薄々気付いているよ。

「……」

僕の恋はいつも受け身だった。20人以上の人は全て時間が経つと静かに消えていった。それでも誰も不幸ではなかったと思う。

グリーンだけは特別だった。

嫉妬して束縛して仕舞いに傷付けて突き放した。好きだったからだ。いつも泣くのはグリーンで、僕はそれさえ好きだった。

「二番目でもいい…」

こんなこと、僕も言いたくはない。

グリーンは目を見開いて僅かに口まで開いていた。間抜けな顔だ。それを好きだった時期はあったし、今もそれを可愛いと思わなくもない。

「そんなこと、言わないで…」

そうだね。

僕も言いたくなかったよ。

グリーン

俺はいつも自分のことしか考えられない。思い遣りのないことや子どもっぽいこと、自分では気付かない内に山ほどしているに違いない。

情けない。

「グリーン?」

呼ばれて振り返ると、そこには見知った男がいた。

「キース…」

その男は爽やかに微笑んで目を細めた。相変わらず好青年風の容姿をしていて、その上以前よりも背格好が男らしくなっている。

正直、カッコイイ。

「久しぶり。今でも誰かに泣かされてるの?」
「……あ、」

キースは、ふふ、と笑うと俺の涙をべろりと下品に舐め取った。

キースは昔の恋人だった。

「抵抗しないんだ。本当に僕が慰めてあげようか?」

付き合っていた時もそうだったけれど、俺に対する意地の悪さがレベルアップしている。久しぶりに会ってここまで露骨なことをする元恋人が怖い。

いっそ清々しい。

けれどやはり怖いので立ち去ることにした。

「ごめん…」
「ジョークですよ!」

俺の腕を掴んで引き留めると、キースは強引に近くのバーへ連れ込んだ。

そこは俺が普段は行かないような綺麗で高級そうなバーだった。客層もかなり違う。

俺は促されるまま席に着いた。

座席から飲み物とつまみを用意しているキースを眺める。愛想良く注文するようなところはルーセンにはないから、悪いと思ってもキースと付き合っていた頃が懐かしくなる。

なんで別れたんだっけ?

2人組の若い女の子たちがキースを見てこそこそ話していた。話しの内容は想像が付く。

男前だと思うのは、元恋人の贔屓目ではないらしい。

「ありがとう」

キースがカクテルを差し出したので御礼を伝えた。無理やり連れて来られたとは言え、一応礼儀なので。

キースは微笑むと「昔はこういうことさせてもらえなかったので」と言った。

付き合ってた時、キースはまだ未成年だったのだ。

デートではほとんど俺がお金の負担していた。キースは嫌がったけれど、そこは大人として引き下がれなかった。

今思うと、そういう自分も子どもだった。

「ちょっと新鮮ですね」
「…うん」

ルーセンもキースも同じように顔の造りは良いけれど、何故かキースと居る時の方が安心できる。

二人とも惜しみなく好意を伝える点も似ていたけれど、キースの言うことの方が本物っぽい。ルーセンの愛は、少し綺麗過ぎる。

キースって不思議だ。

引き留めて貰えて良かった。

「良かった。笑ってくれて」
「へ?」
「強引に連れて来たから、ちょっと悪かったかなって思ったんですけど」
「あ、べつに、」

「俺も懐かしかったから」と言おうとしたところで、例の女の子たちに声を掛けられた。

「2人で飲んでるの?」
「そうですよ」
「まだ昼間なのに?」
「貴女たちもね」

ふわりと笑んだキースに、女の子たちは気を良くした。

2人とも綺麗だ。

ナンパしたことはあってもされたことはない。俺は突然の美女の登場に驚いて、俯くしかなかった。

キースって本当にカッコイイんだ。

3人は会話を楽しんでいる。こういうやり取りに慣れているらしい。

「あたしたちとちょっと飲まない?」
「すみません。今日はちょっと」
「え。なんで?」
「僕たち久しぶりに偶然会って、まだ話し足りないんです」

「ね?」と突然言われたので、「そうですね」としどろもどろに返答してしまった。

「そうなの?」
「じゃあまたこのお店来てね」

名残惜しそうに2人は去って行った。

「…良かったの?」

俺が聞くとキースは首を傾げた。

「何がですか?」
「せっかく綺麗な人だったのに」
「また会えますよ」

微笑んでカクテルを飲む。

様に成るなあ。

「…ずっとこの辺に住んでるの?」
「いいえ、大学の近くです。国立の」
「ああ、あの。凄いね」

頭も良いんだ。知らなかった。

「グリーンは? まだあのアパート?」
「…うん」
「懐かしいなあ。これから行きませんか?」

キースは久しぶりの元恋人との再開を存分に満喫するつもりらしい。

下心がないから困る。

「それは…」

余りに居心地が良くて忘れかけたけれど、俺はルーセンとのお出掛け中に逃げ出したのだ。ルーセンは今頃部屋にいるかもしれない。

急に後ろめたくなってきた。

キースは笑顔を崩せないでまだ俺を見ている。髪を伸ばした所為か色っぽくなった気がする。

「嫌なら嫌って言って?」
「へ?」
「押し掛けたくなる」
「…え、」

なんか、不味い。

この雰囲気は付き合っていた時にも覚えがある。良くないパターン。というより付き合うことになった時のパターンだ。

「焦ってる。何か見られたくないモノがあるんだ」

ふふ、と笑った。

「…あ。からかったの?」
「本気ですよ。グリーンの部屋なら女の子に邪魔されることもないし」

邪魔って。

「キースって、モテる?」
「どうしたの、急に。僕の魅力にクラッときた?」
「……そうかもね」

あからさま過ぎた、かな。

でもカッコイイと思うのは本当のことだ。

「……」

キースは笑うのを止めた。整った顔立ちなので笑っていなくても十分に見応えがある。

「今は女の子と付き合ってるの?」
「何故?」
「何故って、その方が自然だから、」
「じゃあグリーンを泣かせたのも女なの?」

そう来るか。

そもそもルーセンに泣かされた訳でもないから、俺にストレートの素質があっても女の子に泣かされたことにはならないのだろうけれど。

「それ、忘れて」

キースは俺の椅子に脚を掛けた。そして上半身も寄せてきた。

「嫌な泣き方してましたよ」
「…どんな」
「孤独を寂しがるような」

鋭い。頭が良いからか。

「弟が引っ越したんだ」
「元からほとんど実家には帰ってなかったじゃないですか」
「そうだね。だから俺はずっと孤独だよ」

キースは眉根を寄せた。

「失礼します」

そう言ったかと思うと、俺を立たせてまた別の場所へ無理やり移動させた。タクシーに乗るとあっという間に違う街に辿り着く。

「ここ、」

連れ込まれたのは、キースの部屋だった。

「ようこそ、僕の部屋へ。飲み物入れるから待ってて」

キースを怒らせたらしい。

でもこのままだとルーセンも困らせる。

俺は溜め息を吐いたけれど、そのまま部屋を飛び出してルーセンの元へ戻ることはしなかった。

居心地が良かったからだ。

セネカ

ホーンの顔は恐怖に歪んでいた。

あのスネイルズの義弟だから扱いにはそれなのに気を遣ったし、血の繋がりがないと知ってはいても私たちは彼に少なからぬ情を持って接していた。

大切にしてきた。

そのホーンがどうして狙われるのだろうか。

そんなホーンだから狙われるのだろうか。

「具合は如何ですか」

ホーンは目に涙を浮かべて片腕を上げて見せた。小刻みに揺らしながらゆっくりと。

「まだ力が入りません」

その指には人差し指から薬指まで丁寧に包帯が巻かれている。報告によると爪が剥がされていたらしい。暴行はそれ以外にもあったようだ。

行為はエスカレートしている。

だから余計に怖いのだろう。

次は何をされるのか。

先の見えない恐怖が心の見えないところに堆積していく。それは質の悪い雪のように水を含んで重く、処理を怠ると固まって次第に圧迫する。

ホーンは腕を下ろして震える指をぼうっと眺めた。

「…三度目はありません」

それは謝罪でも反省でもない価値のない言葉だった。失言だったと思った時には遅かった。

ホーンはぼろりと涙を零してから私を睨み付けて叫んだ。

「二度目だって、御免だ!」

鼓膜が揺れた。

保身の為の偽善、組織とその行いを正当化する歪んだ正義、そういう脆く下らない私の利己も同時に彼の叫びに揺さ振られた。

『もう二度と御免です』

ホーンの悲痛な表情が脳裡に浮かぶ。

あの時既に彼の許容を超えていたのだ。逃げたくても逃げなかったのは彼が無知だったからで、私たちへの恩義に遠慮したからではない。

知っている。

彼は普通の人間だ。

「すみません」

私は強要した無知への罪悪に謝罪した。彼の被った暴力や恐怖は、私の強要したその無知から辿られた道だったのだ。

ホーンは私から視線を外すことなく続ける。

「もう嫌だ…ここから出せよ…!」
「できません」

ホーンはとめどなく涙を流して咽び泣いた。

「どうせ私は何も知らないんですから、いいじゃないですか」
「外はここより危ないんです」
「同じでしょう!?」

確かに同じなのかもしれない。侵入者は容易に入って逃れて隠れる。

「セシカとはまだ接触していませんから、何か目的がある筈です。それが明確でない今、外へ不用意に出るのは危険です」
「危険、危険、そればっかですね…」
「本当に危ないんですよ」
「フランクみたいに死ぬことになる?」

その声は余りに悲痛だった。

「ホーン…」

恐怖する彼の前で、それでも平気で愛想笑いでも浮かべて見え透いた言い訳をできるような、私はそういう人で無しの非情な人間ではなかった。辛うじて。

貰い泣き、と言うのだろうか。

「もう外に出せないなら、殺せよ」

青白く血色の悪い顔。

生気の無い虚ろな目。

恐怖の残像に震える手。

掠れて力の無い声。

爪を剥がれた指。

脱臼を繰り返された肩。

折られて固定されている肘。

痣の残る首。

腫れた身体のあちこち。

変色した身体のあちこち。

酷い。非道だ。人間の道を外れている。私は彼に刻まれている歴とした恐怖の証拠を漸く直視した。

私たちは何をしてきたのか。

私は何をしたのか。

『神』を理解したかった。

『神』に触れたかった。

私は自分の罪を朧げに自覚し、かつて平然と犯した罪への罰を思った。

ルーセン

ルカと敵対する全てを嬲って詰って虐殺するつもりがグリーンに会って心変わりした。グリーンは殺しはいけないことでそれ以上はない罪深い行いだと言った。酔った勢いの戯れ事だと店主たちは受け流したけれど、酔っていたからこそ嘘偽りない本音であることにも違いなかった。

「食器なんて揃えて、本当に良いの…?」

グリーンは不安げに俺を見た。

「あなたが言ったんじゃないですか。もう少し色気のある同棲をしようって、」
「ちょっと!こんなところでっ、」

こんなところでこんなことで赤面するこの男を近頃の俺は可愛いと思ってしまっている。

いいなあ、と漠然と思う。

殺すことは造作ない。けれどそれを思い留まるようになったのはこの色気のない同棲相手の所為だった。どれ程残酷な拷問でも殺すことは次元が違う、と受け売りの理論で遣り過ごしているのは信念を曲げたからでも技術が衰えたからでも度胸がなくなったからでもない。

「人が見ていますよ」

耳元で甘い声を出すとグリーンは茹だったように首筋まで赤くなった。

それがまた、可愛い。

この男が俺の声に弱いことは知っている。時々馬鹿みたいに俺に見惚れて剰えそれを馬鹿正直に告白することが少なくないことも分かっている。俺の顔に弱いことも性交渉がなくても満足してしまうくらい俺という存在に惚れていることも知っている。そういう自分を自覚した上で、俺にいつ捨てられても良いと覚悟を決めていることも知っている。

他方で向こうは俺のことを知らない。例えば俺が仕事上の定石を破ってまでグリーンを精神的に受け入れていることも、グリーンを置いて家を出る時の寂しさも。

既に切って捨てられるような存在ではなくなった。

「……目星、付けたんだけど」

分かり易く話しを逸らすとグリーンは皿を1枚取り上げた。顔にはまだ赤みがあるがこれ以上からかうのは止めて俺もそれを見ることにする。

「爽やかでいいですね」
「だよね!?」
「あとは、どれがいいんですか?」
「こっち!」

次に指差したのも至ってシンプルなものだった。

「あなたの趣味が少し分かった気がします」

グリーンがそれなりに上流の家庭で育ったことは伝わってくる。弟については時折話しても家のことは話したくないらしく会話からは正確な家族構成すら把握できないが、やはり独特の上品さは感じる。

遠慮があるにしても存外な趣味だ。

「え、あ、え、俺って趣味悪い?」

グリーンは皿をディスプレーに戻して俺を見た。

「いいから好きなの選んでください。他にも候補はあるんですか?」
「……すみません、俺、いつも自分のことばっかで…」
「……」
「あの、君はどれがいいの?」

辛うじて涙が溢れていないだけの泣き顔でグリーンは口角を無理矢理引き攣った。

そういうところが好きだ。

斜めに傾いた自尊心とか螺子の抜けた羞恥心とか不健全な自己犠牲とか、恐らく自虐的なだけなんだろうけれどそれらは俺にはないものだ。

自分と違うから惹かれるのではないが多少はその部分に影響されることもある。

時宜が良いとは思えない今では折角の告白も台無しにされ兼ねないので胸の内に留めておくけれど、例えばあなたの喜ぶ顔が見られるならいくら趣味の合わない服でも着てみせるとか、言っていくらでも聞かせてみたいと思うこともある。

我慢するのは自分の為。

優位に立って、あなたを支配したい。

笑って頭を撫でてやるとグリーンは更に顔を歪めた。手放しに甘やかされるのを嫌がるのは育ってきた環境の所為だろう。

「好きなもの選べって言っただろう?」

キスをしようと顔を近付けると垂れ気味の丸い瞳から、つ、と涙が流れた。驚いてそれ以上動けないでいると狼狽したのはグリーンの方で、彼は弾けるように顔を逸らすとあっという間に小さな食器店を出て行ってしまった。カランとドアの鐘が鳴ったのを合図に俺も慌てて後を追った。

ドアを出ようとした瞬間、目の前に年配の男が現れた。避けたけれど余程驚いたらしいその男は一人で蹌踉けて転びながら抱えていた荷物を放り投げ、それがカチャカチャと高い陶器のぶつかる音を発するのを聞いて俺は反射的にそれを空中で拾い上げた。

「……おお、」

年配の男は地面に座り込んで目も口も鼻の穴も開き切って無責任に感心している。

俺は俺で普段なら他人の物に寸毫の関心も寄せない奇行に近い自分の行動に言い知れぬ気恥ずかしさを感じ、その間に気配だけは捉えていたグリーンを見失ってしまった。

家に帰っていれば良いけれど。

「……大丈夫ですか」

自棄で無用な優しさまで見せるとその男は豪快に笑って立ち上がった。

「兄ちゃん、凄いねえ! 腰が抜けたよ、全く!」

荷物を渡すとにこにこしながら受け取った。やはりカチャカチャと聞こえるから陶器の何からしい。

「……中身、割れていないといいですね」

こんな男だとしても大切な人と選んだ大切な食器が無下に壊れたら落ち込むに違いない。むしろそういう思いで地面に落ちないようにと拾い受けたのだから勝手だとしてもそうであった方が都合が良い。

男は眉を下げた。

「うん、まあ、そうなんだけど、でもこれはもう割れてるんだよ」
「……そうなんですか」

予想外の答えに言葉が詰まった。既に壊れているとは思いもしなかった。

「直してもらえないか持って行くところだけど、捨てる覚悟もしてきたところでね」

捨てる覚悟。

「大切なものだったんですか」

抱え直された荷物が再び鳴った。忘れないでと言っているようにも聞こえるか細い音で。

「そうだね。でも壊れてしまったものは仕方ないし、無理に直したって使えなきゃ意味がねえや」

豪快な笑い声が、前とは違って聞こえた。

軽く会釈して別れを告げると男は礼を言って去って行った。

いっそ粉々になってしまえと、無意識に手放したということもあるのかもしれない。可能性を探ることに疲れたのなら偶然の悲劇で花を添えることの方が思い出としても上等だ。

捨てられる覚悟はある。

しかし捨てる覚悟は、あるのだろうか。

店のウィンドウ越しに先程グリーンが手にした皿を見た。どちらも簡素だけれど洗練された綺麗さと使い勝手の良さを感じて、そこに食事を盛り付けるのさえ想像できる。

俺も気に入ったと言えば良かったのか。

趣味ぐらい破滅的に乖離していたって構わない。食事の好みや暮らしにおける性向はともかく、服や家具の趣味は生活にとっては重要度の低いことだ。俺ならそう思う。

キスで有耶無耶にしようとした俺にも非はあるが冷静になってみるとくだらないことで感傷に浸るグリーンに苛立ちのようなものも覚えてしまう。

簡単に俺の元から離れた。

捨てられる覚悟は俺にもある。別れを受け入れるしかない原因を積んできた自覚はあるし生きてきた世界が違い過ぎると思い知らされることも少なくない。

しかし捨てる覚悟は端から無い。捨てる気なんて無いからだ。

店に入って選んだデザインの食器をセットで買うと家に戻った。そこにはグリーンはいなかった。がらんどうの部屋はあるべき姿に返ったようにも、あるべきものを失ったようにも思える。

俺は苛立ちを隠すように予定になかった仕事を入れた。

グリーン

その瞳には闇が映っている。

「今日は?」

その慣れた言葉にルーセンは笑顔で答えた。無言のそれは良い知らせとも悪い知らせとも取れて俺は反応に困ってしまう。

「……」

昔はその上辺の笑顔も滅多に見られなかったから俺は十分むしろそれ以上に幸せを感じてしまうのだけど。

陰鬱で暗い男がこんな風に笑うなんて。

こんな風に、淫靡に、笑う。

そして勿論まさかその男と恋人染みた同棲をするなんて想像もできなかった。

「随分と意味深に笑うんですね」
「いつもそれ言うなと思って」
「それ?」
「『今日は』って」
「ああ、だって、え、聞かれるの嫌なの?」

ルーセンは目を細めた。

「聞くの嫌じゃないんですか?」

最近よく思う。

ルーセンと目を合わせて、彼に笑い掛けられて、その通った鼻梁と涼しい目元を見て、或は均整の取れた輪郭と幅広の口を見て、なんて色男なのだろうと。

「何も知らないよりはいいですよ…」

だってルーセンは知っている。俺がその笑顔に弱いことを。俺がその声に腰が砕けることを。俺を構成する物質を。俺が生きるのに必要な栄養素とその摂取方法を。俺が思考する時の化学反応を。

俺の全てを知っている。

俺だけが知らないのは嫌だ。

ルーセンは俺の顎から後頭部を右手で包んだ。笑みを深めて、低く囁いて、甘く触れて。

どうしよう。格好良い。

「あなたのそういうところ、好きですよ」
「……ありがとう」

君にとってどれだけ軽薄な告白だったとしてもその記憶だけでも馬鹿みたいに喜ぶよ。

「『今日は』、一緒にどこかへ行きましょう」
「仕事ないの?」
「はい」

君には凡庸な一日になるのだとしても小さな子どもみたいにはしゃいでしまいそうだよ。

「じゃあ、この間言ってた食器でも買いに行きますか」

俺の提案にキスで応えた。

俺のしてきたこととルーセンの経験してきたことは余りに違う。俺が父親に初めて反抗した頃、きっと彼は人を殺すことを覚えていた。俺が初めてキスをした頃、きっと彼は百の愛の言葉を知っていた。

違いを埋めることができないなら、何で2人の仲を繋いでいればいい?

俺たちにの間に赤い糸なんてない。

血生臭い鎖で雁字絡めにするとか。

俺の臓物で縛り付けるとか。

運命を開拓できるものはそれだけ大きな代償を要するのだとしても喜んで差し出すよ。君ともう少しだけ一緒にいられるなら、君がまだ俺に笑い掛けてくれるなら。

最近本当に、よく思う。

「どうした?」

俺が余程の時間見蕩れていたのかルーセンは訝しんでそう言った。

「見惚れてた」
「……」

どうしよう。

掛ける言葉も見付からないくらい、君が好き。

「出掛ける準備、しないとね」

君と離れる準備はできているんだけど、君とセックスする準備には時間がかかる。君に捨てられる覚悟はできているんだけど、君に好きだと言われると心臓が止まりそうになる。君にいつか忘れられることは理解できるんだけど、君に見詰められると混乱する。

ルーセンはもう一度優しくキスした。

そのまま彼に頭を擦り寄せるとあやすように撫でてくれる。大きな右手がゆっくり髪の中に潜っていって、その心地好さに瞼を閉じた。

「出掛けなくてもいいよ?」

そうやってこれまでも無数の人間を虜にしてきたに違いない。

俺が寂しい時、甘えたい時、悲しい時、一人になりたい時、嬉しい時、忘れたい時、ルーセンは全部分かってしまう。些細な変化も瑣末な感情の揺れも全部分かってしまう。

どうしよう。

狡い。

どうしよう。

好きだ。

どうしよう。どうしよう。

どうしよう。

「君といると落ち着かなくなる」

幸福感の次に必ず押し寄せるものがある。苦しいのか悲しいのかは分からないけれど、その孤独に似た気持ちで胸が痛くなる。

ルーセンは身体を離すと両手で俺の顔を包んだ。

目の前には美男子。綺麗な瞳は自信有り気に細められる。

俺の未熟な感情を吸い込んでいくようなその瞳の奥には、けれど踏み込み難い闇がある。相対する人間の闇。ルーセン自身の闇。野性の闇。人間の生み出した蝋燭も松明も拒絶する完全な闇。

「落ち着かないのは、」

けれど時々うっすらと見えるんだ。

「……」

月の光に照らされて、神聖に輝く道が。

「落ち着かないのは、私に惚れてるからですよ」

道の先にいる、彼が。

「本当にそうかも」

ルーセンには見えているらしい。月明かりに味方されて真っ直ぐに伸びる道が、俺と彼とを繋ぐのが。

俺たちの間には赤い糸なんてないから必死に追い掛けないときっと簡単に逸れてしまう。

或は血生臭い鎖や臓物で繋ごう。

ルーセンは笑った。

闇を湛えた瞳は微かな光も見逃さない。

ホーン

注意深く警戒しているのにどうしてこうも容易く侵入を許すのか僕には分からない。建物の中には人がいる。鍵も錠も柵もある。見晴らしのよい正面は勿論、裏にも水道橋にも見張りがいる。

目を開けるとベッドの上にルーセンが座っていた。

「おはようございます」
「……」
「挨拶もなし?」

その笑みは不気味に快活だ。

「あなた、どうやって…」

僕の問いかけとも独り言ともつかない呟きにルーセンは笑みを深くする。

前にこうして現れた時よりも彼の態度は紳士的であるように思えた。笑顔は敵意剥き出しのものではないし、言葉遣いや発音が丁寧であの時のような明確な恐怖はまだ感じていない。

「いいですよ、教えて差し上げても。ルカを返していただけるならね」

何か、企んでいるのだろうか。

「……」

僕はそっと枕の下の拳銃を探った。起き上がる動作に紛らわせて、自分では悪くないように思えた。

「死にたいのか」

目が充血してひりひりと痛むまで瞬きもせずに彼を見ていたのにほんの一回の瞬きの後に気付いたら目の前に彼の顔があった。両腕ははっきりと掴まれて動かすどころかそれだけで痛む。

恐怖を思い出した。

痺れる声に脳が働かなくなりそうだ。

健康的に焼けた肌とそれぞれの部位がはっきりとしている顔は精悍で、その顔に睨まれると経験したことのない野性的な鋭さを感じる。食べられるのではないかと、半ば本気で思った。

「……、」
「調教には甘やかしは厳禁だよなあ?」

ルーセンの場合その声だけで飴となってその行動の全てが鞭になる。飴に酔い痴れながら鞭を喜ぶ精神にはなれないからどちらにしても僕には苦痛だ。

「離せ」

力を込めて言ったのに彼はのんびりと部屋を見回した。

「罠でも張れば?」
「……」
「死にたくないなら、必死で守れよ」

耳から入って侵食する。

それは麻薬でも麻酔でもないから痛みは消してくれなかった。木を折っただけのような簡単な音とともに僕の肘は不自然に曲げられて、その痛みに涙が出る。口に噛まされた毛布からは呻き声が漏れて、情けない僕の叫びはそれでもいくらか控え目になった。

…、糞野郎!

僕の罵倒は、けれどやはり毛布に吸収されて彼には届きそうにない。

「……ッ」

死にたくないに決まってる。

僕は道を外れたことは一度もない。子どもの遊び程度のことならば経験はあるけれど、パブロフに来る前も呼ばれた後もそれが外形だけだとしても道を外れたことは一度もない。

14歳まで薬もやらなかった。

どうして彼に付き纏われなければいけないのかは見当も付かない。あんなことがあったから部屋を移動したのになぜまた現れたんだ。どうして僕なんだ。

涙でルーセンの顔はもう見えない。

本当は拳銃の扱いにだって自信はないのに。

「ルカを返せ」

その声の甘さは絶望を誘う。肌が粟立つ。死にたくはないのに楽に殺してもらうことを願ってしまうくらいには、絶望を誘う。

セシカとルーセンの関係も知らないのに。この男がなぜセシカをルカと呼ぶのかも知らないのに。

僕なら拷問されれば話してしまう。

だから甘んじて無知になった。

いつでも犯罪を傍観してきた。そう願った。だからたとえ目玉を刳り貫かれても僕の口から漏れる情報なんて何もない。セシカの居場所など知りようもない。

もう止めろ。

いたぶっても何も出ないんだ。

「…ううぅ、う」

しかしそれを話すことも許されない。

セネカは僕のために僕が無知であることを強要して、少なくとも軽率に話してさっさと殺されることは防いでくれたのかもしれない。

けれど僕は弱いから今ある苦痛に恐怖する。

「人を殴ったこともないだろう?」
「……」
「綺麗な手」
「……」

折れた腕はベッドに投げ出され、ルーセンはもう片方の腕を持っている。

また、…止めろよ。

もう嫌だ。

「何か話す気になった?」
「……」

涙で視界が悪くて彼の表情もその挙動もはっきりとは見えないけれど彼から伝わる怒りとも苛立ちとも違うらしい感情に僕の身体は震えた。彼がもし心変わりして僕を解放して立ち去ったとしてもきっと床を這う力も出ないだろう。

彼は僕の爪を剥いだ。

「おやすみ」

そうか、これは狂喜だ。

鼻と口が塞がれ、痛みと苦しさでルーセンを突き飛ばしたかったのに身体は少し跳ねただけだった。

ルカ

「何か食べたいものはありますか」
「……」
「できる限り、ご用意します」

ほとんど音を立てずに肉を細かく切り分けるクラリッツはその所作まで誰もが美しいと感じるよう予め設計された陶器の置物か何かみたいだ。一緒にいる程に酷く虐げられた記憶ばかりが過ぎるのに彼がどんな顔でそうしていたのかを思い出せないのは、彼が美しくて儚いから。

清潔で可憐な世界がお似合い。

「ベーコン」
「…はい?」

俺の突然の発言にクラリッツは手を止めた。

「安っぽくて塩っぽいベーコンが食べたい。目玉焼きと一緒にな」
「……伝えておきます」
「チョリソーと甘いソーダ。チョコレートのアイス。なんの味か分かんねえゼリービーンズ」
「……」
「トリプルパテのハンバーガー」
「……」
「オニオンリングとオリーブの実とポテトチップス」
「……」

好きでもないのにそう言った。

クラリッツは動揺しながらもきっと優秀な頭脳の中で俺の要望を復唱し漏れなくシェフに伝えてそれを実現させる算段を立てているに違いない。彼らの意思の前では塵芥に過ぎない俺という個人を見てくれる唯一の人間。

「叶えてくれよ」

あの碌でなしの男が神だと言うのなら。

この俺がお前の神だと言うのなら。

お前の願いは全て吐き捨てた。容赦ない加虐に平伏すよりも前からお前だけには特別に優先的にそうだと示してきたのだからそろそろ理解する頃だろう。

願い事を叶えるのは神か?

「……承知致しました」

人間を支配するのは神か?

「ホットドッグもな。マスタード多め」
「はい」
「だったら早く出てけよ」
「……」
「俺のためならなんでもするんだろ?」

クラリッツは静止した。

俺は拘束衣の下から彼の体温を想像する。

滑らかな肌。艶やかな爪。柔らかな髪。穏やかな声。澄んだ目。それら完璧な造形と上質な衣装に隠された冷たくてしめやかな血液。ひくりとも笑わないクラリッツは死んだように、或は初めから生きていなかったように思える。

彼に触れたことはなかったかもしれない。

「…食事はもう宜しいのですか」
「ああ」
「手洗いは」
「いい」

フォークを皿に乗せるとかちりと鳴った。

かち、かち。かちり。

彼の中に灯った炎は青い。それで煮詰められた器には一滴の水分も残されていない。静かに深く自覚する劇甚。

「場所を移動します」

冷たい訳がない。

急激にクラリッツの中に生きた人間の生を感じて俺は笑ってしまった。その不器用さはルーセンとは真逆で可愛いげすらある。

「なんだ。そういうこと」
「お客様をお呼びしております」
「せっかく食べたのに」
「申し訳ありません」

人間を貶めるのは神か?

『幸せになりましょう。一緒に』

罪に課された永遠の罰をこの背中から剥ぎ取ることができるなら、一秒でも、一瞬でも、俺はきっとまた笑う。性懲りもなくまた笑う。

けれどいまは笑えない。

俺は降り掛かる鞭の重みを想像して溜め息を吐いた。

彼方

「止めてください。こんなところに電話なんて」
「……」

課長が露骨に嫌がったから俺は思わず聞き耳を立てた。

「そうですか。じゃあ切りますよ?」
「……」
「そんな、嫌ですよ」
「……」
「そういうの、パワハラって言うんですよ」
「……」
「あっ、あれは…!」
「……」
「分かりましたから、もう止めてください…」
「……」
「ええ。大丈夫です」
「……」
「はい。では失礼します」

パワハラ?

「顔、赤いですよ?」
「わ!?」
「恋人からお電話ですか」
「ち違います!」

パワハラってことは、内部の人間?

「でも、随分親しそうにしてましたけど」
「ほんとにそんなものじゃないんですよ…」
「……」

しょげている課長は珍しくて、弱みを握っているらしかった電話の相手がさらに気になる。どうやって誑し込んだというのか。

「それで、それはもういいんですけど、今日はセツも直帰だし、君は明日から出張だし、早く上がっていいですよ」

課長を、誑し込む。

いけないことを想像してしまった俺はそれだけで赤面してしまい慌てて目を逸らした。不思議がって首を傾げる彼は一般的にはただの中年なのだけど、そういう素直とも天然とも年甲斐がないとも付かない動作が俺には壺なのだった。

「……ありがとうございます。そうします」

笑うとできる、笑窪が好きだ。

「うん」

俺たちを帰してから残業するのだろう課長が本当は電話の相手と密会するのだとしても、俺には踏み込めることではなかった。
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